自動的に運ばれる毎日

電車に乗っていると、身体は自動的に波打ち、運ばれる。
こうして電車に揺られてると、私は、私と周りの乗客、そして電車がまとまって一つの大きな塊になったような感覚に襲われる。

乱れた紙の束を机の上にトン、トンと落とすと綺麗に紙の端が揃うみたいに、車両がレールに沿って揺れるたびに私たちも綺麗に整列して、境目が整う。

私はその感覚をとても心地良いと感じるときもあるし、なんだか声を上げてギャーと叫び出したいときもあるし、私の意識よりも先に、私の肌が生温い涙の温度を感じるときもある。

電車を降りて改札口に近づくにつれ、私はモバイルSuicaを起動させるためにマスクを顎の下まで下げて、その日初めて呼吸するみたいに、鼻から思い切り息をスゥーと吸い込む。
家を出る前に着けた香水が、フワッと香って、そうしてやっと、それまでボヤけていた私の存在が、私の輪郭が、またしっかりと紙の上に染み込むインクのように浮かび上がる。

電車に乗っていると人は自動的に運ばれる。

目的地へ向かうためにその場にいる全ての人々が、電車の揺れに身を委ねている。 
それぞれが人生の舵を握って進むために、自由な意志を持ちながらも、ここでは電車に身を任せるしかない。

変な言い方だけど、電車に乗っているとき、私たちは何かを選択する力や、決定する力から少しだけ解放される。

私は、そんな『何かを選択しなくても良い』という状況に安心感と居心地の良さを感じる。

でも、
自動的に運ばれているとき、
選択することから逃げたとき、
私の心臓の、果肉が腐り、ふやけて黒ずんだような部分からポタ、ポタ、と濁った汁が滲み出る。
私から確実に私の何かが失われていく。

自動的に運ばれているとき、私は私の存在さえ見失ってしまう。
もしかしたら、人は自動的に運ばれることに慣れてしまうと、自分の足で歩くという感覚を忘れてしまうのかもしれない。

私はいつだって、行動する人、自分で選択する人が1番かっこいいと信じている。

私はかっこよくなりたい。

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