『暴力の歴史』感想

千秋楽の回を観に行った。終演後の観客たちの力強い拍手を聴きながら、そして自分も手を叩きながら、観に来てよかった、と思った。
1回観た記憶で書いているので、記憶違いなどあるかもしれないですが、何が良かったのかを文にしたためました。

とにかく、衝撃がすごかった。2階席で観たので、1階席とはまた大きく見えかたが違ったと思うが、舞台上に否応なく視線が惹きつけられ、夢中になって観た。ドラムや強い光りの点滅、不安定な声による語り、そしてありありと見せつけられる生々しい暴力は、ただならぬ衝撃だった(しかし、この衝撃がこの作品を素晴らしくするのではなく、衝撃がどう変化するかが素晴らしい点だと思う)。

一番最初のシーンは、劇中でもかなり衝撃的なシーンだった。シーツを洗い流そうとしたり体を洗い流そうとして、不安から逃れようと躍起になるエドゥアールと、それを煽るようなドラムの音は最初に観客にお見舞いされる渾身のパンチという感じでクラクラする。

そこで彼が感じた不安はレダ役が回すカメラという形で舞台上に残る。序盤はレダとの具体的なエピソードが少なめで、レダ役はレダとして舞台上に必要とされる瞬間は少ない。
しかし、一方的に姿を撮る暴力的な装置のカメラを持って舞台を行き来するレダは、どこかでまた自分に暴力を振るったレダに会ってしまうかもしれないというエドゥアールの不安を目に見える形にしていた。

レダがベッド上で彼のルーツを語るとき、カメラを持つのは移民であるレダでなく、フランス人の血を脈々と継ぐエドゥアールであることからも、カメラが持つ暴力性や優位性は示されているだろう。
あらかじめ録画された映像ばかりでなく、舞台上で撮られた映像が背景に投影されることには、そういうカメラの暴力の効果があったと思う。

ストーリーにおいては、登場人物それぞれが様々な属性を同時に持ち、誰もが差別側にも被差別側にもなることが示される。
その属性は、ゲイであること、移民であること、女性であること、親と子であること、田舎と都会、無知と教養など様々だ。

キャラクターたちはあらゆる立場に同時に立つことで、板挟みのようになり、それぞれの身の内に相反する感情を持ち、どこにもぶつけようのないというもどかしさを感じる。
エドゥアールは、レダが盗みをすることを納得し、警官が「北アフリカ系」と口にすることに反感を抱くが、同時にレダのことを深く憎み、自分以外の全ての人の幸せを憎らしく思い、他人の不幸にすら怒りを抱く。

この相反する気持ちはレダにもある。移民としての不当な立場や、自分がゲイであるという自己嫌悪で傷ついた気持ちを、目の前にいるエドゥアールにレイプという形で叩きつけることに罪悪感を抱いている。自分の辛くもどかしい現状への感情と、人を傷つけてはいけない気持ちが彼の中でせめぎ合うのだ。

(エドゥアールの姉もまた、あなたがゲイであることを受け入れているわ、と言いながらその実彼女は飲み込みきれてはいない、というような矛盾を抱える。)

彼らは自分が正しいと思うことを遵守しようとしながら、その隙間から吹き出す抑えきれない自分の気持ちに葛藤している。その苦しみこそがこの作品のコアで、それは「語ること」と深く結びついている。だから彼らはマイクを使わずとも声の届く舞台の上で、マイクを使って溢れるように語り、人から語らせられ、そして意識的に語る。

とにかくまずは、その混乱した気持ちをエドゥアールは言葉として垂れ流しにする。思わず、ホームレスの人にも話しかけそうでした。看護婦の人に話し続けました。というように、彼は不安を紛らわすためにとにかく喋らずにはいられない。
彼の姉もひっきりなしに喋るが、モヤモヤとした気持ちに突き動かされて、話さずにはいられないのだ。夫にまたその話か、と言われながらも母の昔の話や、弟がゲイであること、彼女は田舎者であること、などを語るのである。
自分のどうしようもない叫びを、誰かに伝えたいという欲求を満たしたいのだ。

しかし、このストーリーにおいては「語らせられること」が存在する。彼の語った言葉は伝わらず、相手は望むような態度を取ってくれず、時に語ることは阻害される。
暴力を受けた彼は、その経験を誰かと共有する中で、さらなるもどかしさを感じるのだ。

彼は姉の話を立ち聞きする中で、姉の言葉を何度も訂正する。また彼が何かを話す時、姉によって遮られる、否定されるという場面がよくある。彼の話は、彼女によって「ゲイで都会に出て哲学を学ぶ弟」の話として書き換えられ、遮られてしまうのだ。

姉だけではない。警察も彼の話を遮る存在だ。
印象的なシーンで言えば、レダとエドゥアールがまさにいい雰囲気になっている時、警察は彼ら同士の緊密なやり取りの中を不躾に遮る。
エドゥアールは自分の話すべきはずのことが警察に語ることで失われた、という。
警察はエドゥアールの気持ちも、レダの気持ちも1つに決めたがり、素行の悪い移民としてのレダを作り出そうとしたり、隙のあった被害者のエドゥアールを作り出そうとする。
タイプライターで打たれた文章からは、彼らの営みのあれこれや、相反する気持ちたちはこぼれ落ちてしまうのだ。

エドゥアールが姉や警察に語る時、語られた側が受け取るのは彼の言葉のみだ。しかし、私たち観客は、エドゥアールと同じ経験を目の前の事実として体感し、目撃しながら、警察や姉の横槍を体感する。だから、そこからこぼれ落ちてしまったことや、姉や警察に伝わりきらなかったもどかしさ、理解されなさを痛感する。

そして、劇終盤に彼は言葉を遮る姉に対してこれは僕の話だ!と怒りをあらわにする。被害に遭った事実やレダとの関係という彼の話を、他人が奪うことで彼がさらに傷ついていくことへの叫びだ。
だからこそ彼は誰にも言わなかったこととして、レダの身体に日が差して美しかったことを、心にそっとしまっている。彼の現実は彼だけのものであるということが、彼を安心させるのである。

レイプという暴力にさらされ、やりどころのない怒りを抱え、そういう理解されなさ(彼の話を奪う行為)が、彼の目の前に立ちはだかった時、彼が(そして作者が)選んだのは意識的に自発的に「語ること」だったのではないだろうか。
ハンナ・アーレントの引用は、降りかかってくる変えられない真実に対して、それに従わされない「嘘」こそが希望となる、と語る(記憶を元に語っているので、誤っていたらすみません)。

レダが語ったレダの父も、故郷の家族に嘘をついた。ここは幸せだよ、と話さなければやっていけなかったように、エドゥアールもまた自分の言葉で自分の現実を語り直すことで、世界に振り回される存在でありながらも、それに抗うことができるという希望を持つのである。
嘘は、ギリギリの生を強いられるものにとって、どんな時でも可能な反逆なのである。

オープニングシーンで見せつけられ、彼が終盤語ったように、レダの暴力が彼に与えた不安はまぎれもない真実で、エドゥアールの体に残る傷もまたまぎれもない真実である。彼は暴力によって確実に損なわれたのである。
またその真実をあらゆるレッテルで解釈する他人によって、さらに彼の現実は損なわれる(暴力を目撃して涙を流す観客によっても、彼は損なわれる)。

だからこそ暴力やレッテルから彼の人生を取り戻すために嘘をついて回復していく。ラストシーン、オープニングシーンと同じように床にうずくまる彼を、何かを期待するように覗き込んでくるカメラ(観客)に対し、彼はピースサインを差し出すのだ。洗っても洗っても消えない恐怖をピースサインという嘘で打ち消すのだ。

彼がピースサインをした時、会場で笑いが起きたのだが、それは彼が、観客に涙を流させるほどの剥き出しの暴力を、クスッと笑ってしまうようなピースサインに書き換えることができた、彼の話として彼の人生を取り返せた、という希望のある結末なのだ。

:追記:(10月27日17時)
ただ、嘘を利用して暴力を受けた現実から立ち直ることは、立ち直る方法のある一つの具体例でしかないということは、きちんと認識する必要があると思う。
この方法で立ち直ればいいじゃん、という他人の視線や言葉はもはやその立ち直り方を阻害するし、最初の段階で理解のある他人が存在するということが一番理想的だとは思うので。

#東京芸術祭 #暴力の歴史 #演劇 #感想

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