この1週間差別について考えたこと

先週のnoteにBLMについて、以下のような事を書いた。

わたしは、この件に関して自信を持って語る言葉を持たないと思ったからだ。語る言葉を持たないのにその賛意を、Instagramに黒い画像を投稿することで示したり、Twitterでハッシュタグを付けて拡散したりすることにしり込みをした。

SNSではなくてもそうかもしれないが、社会運動と向き合うとき何をどうしたらいいのかということは、難しい問題だなと思う。友達がこういう時は学び続けようって結論になるけど、全ての問題にコミットし続けられないよね、と言っていて、それはまさしくそうだなと思うのだ。時間は限られていて、他にもやりたいことはあって、問題は山積みで、そのすべてに詳しくあることは出来ない。

今日のnoteはSNSを通した社会運動に対する、私なりの一つの行動として、自分のフィルターバブルの外側を意識して、言葉をつづることにしてみた(10分前くらいに決めたんだけど)。

フィルターバブルというのは、インターネット上では、摂取する情報がその人の好みや関心領域に偏った情報になりやすいが、それにあんまり気付かない、という現象を指している。

わたしが社会問題について考えるようになったのは大学後半期くらいからで、そのために高校以前の友人関係がメインのTwitterのタイムラインと、大学以降の人間関係がメインのタイムラインはかなり違っているので、そういう部分を自分の中できちんと考え直そうと思ったのだ。見たくないとか理解しがたい意見を簡単に退けてはいけないぞ、という自分への戒めにも近いかもしれない。

だから、自分のバブルのなかでは当たり前かもしれないけれど、そういう当たり前という考えは取っ払って、わたしは差別はどのようなものだと考えていて、どう考えているのかというのを丁寧に書いていこうと思う。
細心の注意を払って書いていくけれど、誤った事を書く可能性もあるので、そういうことがあったらコメント欄とかで指摘してください……。

わたしは差別をどう捉えているか

もしある人が、同じ場所にいない人と言葉だけで物事を共有できるならば、つまりそれはその人が差別を犯す可能性をはらんだ人間であるということだと思う。
つまり、どんな人にでも差別を犯す可能性があると思う。

差別について考えるとき、いつも念頭に置いているのはイメージについてだ。ここで、私が思い浮かべるイメージというのは、「犬」という単語を観たときに犬の概念を思い浮かべたときの、その思い浮かべるものの事で、実家で飼っている柴犬を思い浮かべたり、はたまた101匹わんちゃんのダルメシアンを思い浮かべる人もいるかもしれない。
(そもそも、このイメージの認識が間違っていたらすみません)

差別というのは、その思い浮かべる物がステレオタイプなイメージであること、が一番大きな問題だと思うのだ。
例えば、女性は「数学が苦手」、アフリカ系アメリカ人といえば「犯罪」というイメージを持つこと。それをもってして、それらの人々を判断するということがまずもって差別なのだ。
大まかなイメージで人の事を認識して、そのイメージに基づいて、女性に文系に進んだ方が良いとアドバイスしたり、アフリカ系の人に対して犯罪を犯す危険性があるから、制圧しないといけないと行動をすることが、差別なのだ。

そしてまた、そのイメージが事実だったとしても、つまり実際に女性の数学の成績がわるい、ということが統計的に分かっているとか(事実そういう統計があるかは定かではないですが)、アフリカ系アメリカ人の犯罪率が高いという事実があった場合、それは被差別者の当人がそのステレオタイプに影響を受けていることや、社会のシステムとして彼ら、彼女らがそうせざるを得ない状況にあるという背景があるかもしれない。
そういうことに目を向けず、事実そうなんだから、そういうイメージを持つのは問題がないという態度をとるのも差別だ。

今のイメージに対して、そりゃそんなことは間違っているって分かっているよ、だから自分は差別はしない、と思う人もいるかもしれないが、こういう認識は無意識に持つものだ。
なぜなら、わたしたちはあまりにも多くのイメージに囲まれていて、それを無意識に吸収して、それを使ってコミュニケーションをとっているからだ。
みんなが男性は青、女性は赤というイメージを共有しているからこそ、女子トイレの表示は赤、男子トイレの表示は青、としたときに、間違えずに自分の入りたい方のトイレに入りやすくなるのだから。

そして、こういうイメージが社会全体に共有されている事を認識せずに、無意識に女の子に赤色のランドセルを与えたり、男の子に青色の靴を買い与えたりするようなことを、わたしはしたくないとおもっている。つまり、相手のことをよく知らないのに勝手に相手をジャッジして、差別的な行為を行いたくない。

相手のことをよく知らないのに、勝手にジャッジしないためには、その相手の趣味嗜好を知っていればよくて、差別とどう関係があるの? と思うかもしれない。

しかし、個人が持つ属性(例えば性別、人種、性的志向)の歴史やそれに対する社会全体のバイアスは、その持ち主の人生に大きな影響を与えるし、その個人に相対する人の行為にも影響を与えることがある。
そうしたときに、相手を傷つけないために相手のことを知る、というのはその属性の歴史やそれに対する社会のバイアスまで知る必要があると考えている。

だから、わたしは差別をしないために知ることが必要だと思っていて、アフリカ系アメリカ人の人々がどのような差別を受けてきていて、未だになおそれを受けているのかという事を、BLMをきっかけに学ぶことにしたのだ。

(そして、『13th』や『私はあなたのニグロではない』などの映画を観ることで、國民の創生』を皮切りに、その他のハリウッド全盛期のフィクションなど様々な作品によってアフリカ系アメリカ人の人々のイメージがどう作られていったか、ということを知った)

わたしが生きている間に知ることの出来ることは限られていて、だから今までも差別をしてきたことがあったし、これからも差別をしてしまう可能性がある。
差別しない人なんかいないし、差別がない場所なんてないし、差別が解決された状態なんて永遠に来ないと考えているし、何がどこまで差別なのかという線引きが難しい部分だってあるだろうと思う。
でも、こういう問題は実現できないけれど理想を目指して議論をし続けることに大きな意味があると捉えているので、わたしは自分が差別について学ぶこと、語りあうこと、抗議することをやめようとは思わない。

SNSと社会運動

それで、冒頭に先週のnoteを引用したように、社会問題についてSNS上で活動することの難しさを感じていたり、BLMについて知っていることが少なすぎて自分だけで考えを深めるというのが難しいと思ったので、友達に次のオンラインおしゃべりのときにBLMについて一緒に話したい、と持ちかけていた。
そこで、まさにSNSの話になり「スラックティヴィズム」という言葉を教えてもらった。

スラックティヴィズムというのは、SNS上での社会運動ーーハッシュタグを付けての投稿や、今回で言えばインスタ上に真っ黒な画像をあげる運動ーーに参加して、実際には結局何もしていない、というのを揶揄する言葉だ。怠け者を意味するslackerと社会運動を意味するactivismを掛け合わせた造語だ。
こういう問題に気軽に賛意を示して参加出来るというのはもちろん良い事だと思うし、わたしはいい風潮だなと捉えている。けれど、その行為自体が気軽すぎる故に形骸化する危険性もあるということだ。

自分がスラックティヴィズムに陥らないか不安だし、じゃあ実際問題ハッシュタグを付けて投稿する以外にはどんなことが出来るのだろうか、と話しつつ、結局納得のいく結論が出たということもなかった。
だけれどもその会話を経て、1年前や2年前に比べてSNS上でのハッシュタグを付けての意思表明が怖くなくなった自分自身が、スラックティヴィズムに陥らないようにしようという意識を持つのはこれから大切なことだろうと思った。

今年のはじめのほうに、今年はリツイートの数を減らす、という趣旨のツイートをみて、そんなことする人もいるんだな、と何となく思っていたが、ここにきてその行為をとる価値がよくわかってきた。
Twitter上で何かの話題が勃興して議論が起きたときに、タイムラインの上にはそれぞれが意見を表明していて、それらをみていいね、を押したり、リツイートを押したりする。そういうジャッジは、自分があんまり考えてなくても出来るにもかかわらず、それによって、自分も何か考えたつもり、知ったつもりになっていることは間違いなうあるだろうなと思った。
スラックティヴィズムと同じだ。

だから、リツイートでの意思表明もなるべくやめて、ハッシュタグの運動などには場合によっては参加しつつも、なるべく自分の言葉で自信を持って語れる段階にまで、知識や認識を広げ、深めていくことをこれからやっていくべきだなと改めて思った(それで今日もnote書いている)。

抗議活動への抵抗について

もう一つ、昨日の会話のなかで印象に残っているのは、レイシズムへの反対運動は人種を根拠にジャッジすることを否定する運動だと思うけれど、活動の中でむしろ人種の強調を行うことがあるよね、という話だ。
例えば『ブラック・クランズマン』の中や、記録映像などでも、ブラックパワーという言葉が叫ばれることがあったり、アフロ姿であるということが抗議活動の中で意味を持つことなどだ。また、同作の中での抗議活動はかなり過激でもある。わたしはそういう面に苦手意識を感じて社会運動などを避けてきた期間が今までの人生でかなり長かった。

先に差別を行った方が批判されるべきなのは重々承知で頭では分かっているのだけれど、それでも抗議活動というものになかなか納得が行かなかったり、自分が参加する事を表明するにまでいたれなかったりした。
あらそいたくない、あらそいは良くないという認識をずっと持って育ってきたからだと思う。

これについては、丁度1年前に観た『ブラック・クランズマン』の感想のnoteに結構きちんと書いたのだけれど、この作品を見て、わたしはようやくそういう活動に対して、頭での理解ではなく、腹落ちする感覚を味わうことが出来た。

どうしてもあらゆる人々が集まって、自分の納得のいかない事象、正しくないと思う事象について抗議を行ったとすれば、その中に自身の感覚では容認できない方法も発生してくるだろう(もちろん抗議活動をする中でそういう葛藤がその内部にも発生している)。

でも、そういった抗議の方法にまつわる事で、抗議の内容が矮小化される必要はない。
暴力が良くないのは重々承知だけれども、今回のBLMで問題とされるべき事象は、アメリカ国内で未だに差別が起きているという事であり、アメリカ国内の警察のシステムが人種差別を助長するシステムであるということであり、そして、そのシステムが生まれた背景に400年もの間続くアメリカのアフリカ系の人々への差別があった、という事実、そしてそれは正されるべきという主張だと、わたしは捉えている。

今後自分がどうするか

そして、今回幾つかの作品をみて、今のBLMの指摘する問題は一部アメリカという土地・歴史・文化と因縁深く結びついていて、他の土地ではその土地の成り立ちや文化によってまた全く異なった差別の歴史と、差別の状況があるのだろうと思った。
日本国内でもレイシズムはあって、それはアメリカの形とはまた違う様相を呈して存在してるいると思うから、それについてきちんと知っていかないと、と思っている。

それにしても、それにしても全てを知ることはできないので、それをどうにか補完できる方法もないものか……と考えています…。


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