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ロロ「四角い2つのさみしい窓」感想

今日『四角い2つのさみしい窓』を観てきて、とても面白かったので、備忘録的にどういう話だったと私が受け取ったかを書いた(なので、観た人しかわからない感じです)。
あと、文中の引用の後ろにつけているページ数は上演後に買った脚本のページ数です。

半年か1年前くらいにロロの『はなればなれたち』を観た時は、フィクションや、物語を力強く肯定しているな、と思って思わずたくさん泣いてしまったのだけれど、今回の『四角い2つのさみしい窓』は「演じる」ことにフォーカスしている話だったのかな、と思う。

よりつっこんでいうと、2つのものの境界線を演じることが溶かしていく物語。
個人と個人のコミュニケーションの可能性がそこに描かれていて、思わず感極まった。人類、頑張れるかも、と思った。というわけで感想。

この作品では境界線や2つの対立した概念が印象的に描かれている。例えば舞台の「夜海原町は、海と町、空と町、その間に存在」していて、「あわいの土地」(p3)であり、この演劇で最も重要な「ゴーストウォール」は海と町、観客と舞台を隔てる壁である。透明なので、窓とも言える。
そのほかにも、輪郭というワードが頻出したり、スノードームで空間や思い出を切り取る話題や名付けが暴力であることへの言及がある。

またその反面、溶け合うことも印象的だ。例えばしりとり。取る文字が1つずつ増えていくしりとりは、違う言葉だったはずがいつのまにか1つの言葉になってしまう。
ムオクはバラバラの家族の絵に自分が紛れ込んで1つのパズルとなることを想像するし、バラバラになってしまった絵を作り直すヤング・アダルトは、絵に劇団員ゆかりのものをちりばめる。
その劇団そのものも「ぱんぱんの親密を膨らませて破裂させて、親愛も友愛も性愛も恋愛も満天に撒き散らす」という、混じり合いやすさを生むものとして描かれる。

この話において、ホンモノとにせもの、ないしは、ほんとと嘘、という分かたれたものは重要である。
ユビワは嘘を代表するキャラクターだが、彼女は作品の中で比較的好意的に捉えられる存在として描かれていることから分かるように、この作品は嘘を肯定している。ムオク父がの作ったパチモンのデュエマ、なんてのもそうだ(あと、夜海原町の特産品はほやの"まがい"物のマガイ)。
逆に、ムオクのほんとの家族になろうという発言は、別れを引き起こしてしまう。

ミュージカルシーンの歌の歌詞をみると、それはより明らかだ。

向こう側ではホンモノたちが こっちを優しく見つめてる
ホンモノに憧れなくちゃいけないって誰がきめた??
にせもののステージ にせもののシューズ にせもののラブリー
これがあたしの宝物 (中略)
人生は爆笑そっくりものまね紅白歌合戦スペシャルじゃない
(p15)

この"じゃない"、は「今日お天気じゃない?」の、"じゃない"と受け取った。でしょう?ということだ。
すると、歌詞を見れば明々白々に、ホンモノよりもにせものを取る態度が出ている。
しかし、2度目に歌われる時は、様子が違っているのだ。

ねえ、真実 こっちにおいで
ねえ、真実 こっちであそぼう
ウソとホントのアイスダンスをしよう
ねえ、フェイク そっちいっていい?
ねえ、フェイク そっちで歌おう
ウソとホントもなくしたあとで
オリジナルたちのパレードをしよう
(p16)

ちなみに、その前には「人生は爆笑そっくり……スペシャルじゃない」のあとに「人生は爆笑そっくり……スペシャルかもしれない」というフレーズがあって、これはきっとフェイクの語りかけと、真実の返答なのだと思う。
そしてその後にも引き続いて、歌詞の上では真実とウソの掛け合いが行われる。
つまり、2回目に歌われた時には、ホンモノは境界をまたいで「ウソとホントもなく」す、と歌われるように、にせものと溶け合うのだ。

では、なぜ溶け合ったのか。それはこの1度目の歌と2度目の歌の間にある「エコー」のエピソードが鍵だろう。
この、歌の間のシーンで「演劇ってエコーだから」(p16)というセリフがあるのだが、このエコーという言葉はサンセビが演劇の稽古をしている時に初めて出てくる。(以下、Y・Aはヤングアダルト、サンセはサンセビ)

Y・A「サンセビは綱渡り師を演じたムオクを演じるんだよ」
サンセ「むじい」
Y・A「お前なら、絶対二番煎じになれる」

ここでサンセビは、一度オリジナルで演じてみるが、ムオクに似ていると指摘される。

サンセ「え!? オリジナルのつもりだったんですけど」
Y・A「まずさ、そのオリジナルって考えをやめた方がいい」
サンセ「え?」
Y・A「もっとエコーを響かせろよ」
サンセ「エコー」
Y・A「演劇ってエコーだから」
(p9)

という調子なのだ。
ここで重要なのは、演じる、というのはにせもの(二番煎じ)、や、嘘とも捉えられ、サンセビは綱渡り師を演じるムオクを演じているので、にせもののにせもの、となっていることだ。

そして、サンセビは脱走した団長を見つけた時、エコーについてこう言う。

俺、エコーのこともつかんだよ(中略)
こう、なんか、演技っていうのは、これまでその役を演じたたくさんのなんか残響の果てに、あるんだって、そういうことだよね。演じわけるのではなく、演じ重ねるのだと
(p26)

つまり、にせもののにせもの、というようにミルフィーユ状に嘘が重なっていくのだ。
やっほーという最初の声かけが、何度も行ったり来たりを繰り返して、フェードアウトして溶けてしまうように、演じられた役たちは分けられるのではなく、重なって溶け合うのだ。

これは「四角い2つのさみしい窓」のインタビューで三浦さんがこのように言っていて、

固有の関係性のレッテルを剥がすことは、最近ずっと取り組んでいることだし、いろんな物語を読んだり観たりしても、そういう作品が増えてきていると思います。僕としては、レッテルを貼り続ける、レッテルを張り替えたり上塗りする、それによって逆にレッテルを剥がしていきたいんです。最終的には溶かせたらいいなと思います。

つまり、レッテルの重ね合わせ、はエコーと近いのだと思う。それらは固有のものを曖昧に溶かしていくのだ。

冒頭に、ゴーストウォールは壁だが透明なので窓とも言える、と書いたが、このゴーストウォール、マガイから作られている。つまり、まがい物の集合体であるから、これもまたエコーであり、あちらとこちらをつなぐものなのだ。
ムオクが、壁の向こうに演劇を感じて窓のような壁の穴から向こう側に行ったように、再会した団長が劇団員の方に行くために舞台上の大きな枠の向こう側に行ったように、窓は"あちら"と"こちら"をつなぐ。

また、ムオク、ないしサンセビ、つまり亀島さんが演じるキャラは、メタ目線で見れば綱渡り師、ムオク、サンセビ、亀島、というエコーをしている(なのでエコーをつかんだ話の時、サンセビのはずなのにムオクが出てきていて、亀島さんが話している様に見える)。境界を溶かした存在なのだ。

また、亀島さんとムオクとサンセビは、客席と舞台を行き来する存在だ。
まず最初に亀島さんは客席から現れ、私たちと一緒に上演中の注意を聞き、そして演じる側に行く。
つぎにその亀島さん演じるサンセビが観客となったあとに、舞台に登って写真を撮ったり、稽古をしたりして演じる側の劇団員になる。
実はムオクもそのサンセビと全く同じ成り行きで観客から劇団員という流れを辿る。
その2人が演じる綱渡り師も、「綱渡り師の慧眼」初演時、物理的に舞台と客席を綱を渡って行き来するキャラクターである。
徹底して、彼(彼ら)は客席と舞台という分かたれた2つのものの間を行き来する存在なのだ。

だからこそ、ムオクこそがゴーストウォールを窓渡りして、越えようのないと思われる生と死という2つのものの境界線を越えるのだ。
その直前と、最中に舞台もまた私たちの目の前で溶けて、演者は先ほどよりも観客に近づき、観客と舞台の境界もまた曖昧になる。
(一緒に向こうに渡るユビワもまた、嘘を重ね続けるキャラクターで、ある時はムオクと兄弟で、ある時はムオクと夫婦で…と複数の役が溶け合ったエコーな存在だ。)
そしてムオクは彼方を去る時「何回だって彼方と此方を往復するから。だから、再会し続けよう」という。往復という言葉もまた、エコーを連想させるのである。

その生と死の行き来の後、この作品は誰かを招き入れようとする、つまり境界を溶かしたシーンで終わる。

つまり、この作品は演じることを重ねることで、2つの全く分かたれたものの間を溶かし合わせ、行き来できるようにするという、話だったと思う。だから、演じることの話だったのだ。

この分かたれたものの境界線を溶かす、というテーマはまた、現代の集団のあり方というさらに大きな流れの中の1ピースだと思うので、人類頑張れるかも、と思ったのだけど、そこまで書ききれないのでまた今度続きをかきます…。とにかく、面白かったし、観に行ってよかった、と思いました。

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