個が個でありながら

もう今日は花粉症で元気が出なくて、なんで今日は日曜日なんだろうか……note更新しないとな……ってなっている。
そういうわけでヘロヘロだけど、今日は大事だなぁと思うことを書く。なぜかと言うと、これはきちんと書きたいから、本気でかける時にとっておこう、ってネタを眠らせると、大体書けなくなって書かないからだ。
今日は全然ダメモードだけど、大事なことを書く。

2つ前の月曜日ごろから、わたしの中のテーマはすっかり、個と個が全く別のものでありながら、良い集団として関係を結ぶにはどうすれば良いのか、一色だった。というか、昨年に鳥公園の演劇をみてから、今に至るまでぬるーっとテーマとして抱えてはいたけれど、ここ数日で作品の畳み掛けにあった。

たまに、ここしばらくずーっと考えていたことと、触れる作品が呼応するということがあって、まさにそんな1週間だった。

まず始まりは、大学で授業も取ったことのあるドミニク・チェンさんの『未来をつくる言葉』だ。というか、ここにくるりと内包されるものを体感した一週間だったかもしれない。
kindleで読んだので、ページ数がなくてパーセンテージ。

今日の社会では依然として「個」の思想が強すぎるのだ。決して全体主義に陥ることなく、わたしたち個々の人間が、個体としてだけではなく、同時に「種」としての時間を生きる認識が生まれるにはどうすればいいのだろうか。(65%)
現代において、コミュニケーションとは、自他の境界を明確に区切ることを前提にするものとされている。対話とは、二人の人間の考えている事の差異、つまり「重なり合わなさ」によって駆動される形式だ。しかし、「重なり合い」がコミュニケーションを規定する場合は、どのように形式化できるのだろう? (75%)

わたしも、かなり最近まで人とうまくコミュニケーションを取るためには、他人は他人で別のものだという認識が必要だと思っていた。
だが最近は、いや、確かにその認識は必要だけれど、他者への介入、というか影響を与え合うことに対して消極的になりすぎる、つまり他人を諦めるのって、もはやそれは何もできないし、実は孤立すると寂しい、みたいな世界な気がするな……となってきた。
なんだかんだ、人といたい、みたいな気持ちは手放しがたいし、手放さないほうがよさそう、という地点に落ち着いてきたのだ。気持ちが。

それで、みんなが同調し合わないが、繋がり合える集団って、どうつくればいいのだ……? となる。

ちょっとそれを、ダイレクトに解決できるかはわからないが、わたしは媒介するもの、というのがそれを実現するのかもなぁ、とここ一週間で思った。というか、それはドミニク先生の本にしっかり書いてあって、

ある時から、言葉を吐くという何気ない些細なコミュニケーションのひとつひとつが翻訳行為なのだと思えるようになった。(中略)
ある人が任意の言語で話している時、その人は自分の体験を通じて感じたことを相手の知っている言葉に「翻訳」して話している。同時に、その翻訳行為から常にこぼれ落ちる意味や情緒もある。その隙間をなんとか埋めようとする仕草に、翻訳する人に固有の面白さが現れる。
わたしが学んでいた幾多の言語は、自分や他者の感覚を表現し、相互に伝えようとする「翻訳」の技法だった。(95%)
そもそも、コミュニケーションとは、わかりあうためのものではなく、わかりあえなさを互いに受け止め、それでもなお共に在ることを受け入れるための技法である。「完全な翻訳」などというものが不可能であるのと同じように、わたしたちは互いを完全にわかりあうことなどできない。それでも、わかりあえなさをつなぐことによって、その結び目から新たな意味と価値が湧き出てくる。(96%)

わかり合うことがゴールではない、というのは大きくて、むしろ分かり合えないことがか何かを生むのだ。

その時に、わたしが考えたのは演劇だった。鳥公園の西尾さんが、演劇を作るプロセスから生まれるものが、結構重要で上演自体が目的、というわけでもない、という話をしていたからだと思う。

集団で何かを作るという時、ゴールのビジョンを持っている人が先陣を切り、それにみんながぞろぞろとついていく、という形をとるのではなくて、こうだと思うんだけどどうよ、こうかもしれないがどうかな、というように多数の人の解釈が積み上がることで何か思いもよらないものができる、ことが目指されるべきなのだ、ということ、なのだろう。そしてそれが、良い集団かなぁ、と今のところ思う。

演劇というのは、台本という文字から、人が演じるという3次元に立ち上がる時に、多分に解釈が含まれる。だから、人々の解釈の積み重ねというのが、より、起きやすいものなのではないかと思う。

媒介するもの、に戻ってくるが、つまり複数人でイタコをするみたいなことなのかな〜と思うのだ。イタコは、死者の媒介をして生者と死者を結びつけるわけだが、台本と観客を結びつけるのは演者や舞台空間だ。その、間で個が個でありながら混ざり合うための秘訣があるんじゃないか! と思うのです。

ただ、1週間の中でそういう簡単な形だけじゃなくて1人の人間を複数人で演じる(『どさくさ』)、とか2人の人間を1人が演じる(『四角い2つのさみしい窓』と落語)とか、そういう方法で表現されるものを見ながら、面白いなぁ……と思った。

まとまりはしないんだけど、大体そんな感じで、組織とか集団のことを考えています。最近は。指揮系統がしっかりしている、っていうのは迅速だし強いけど(特に日々感じていますが有事の際は、本当にそれが、強いね)、誰が君臨するでもなくうまくいく場を試みるのは、ちょっと希望だし、何かしらの形で試し続けていけるといいよね、と思う。

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