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【Voice!】 第1回 MF8 和田達也 (前編)

攻守両面においてハードワークが持ち味のアンカー。
特に、攻→守へのトランジションにおいて、
誰よりも早くアプローチする彼の動きはチームに欠かせない。
痒い所に手が届く、気の利いた「仕事人」の声をどうぞ

プロフィール
MF8 和田 達也(わだ たつや)
1994年6月21日生まれ 大阪府出身
2022シーズンから福井ユナイテッドFCに加入

ー 出身地と家族構成について教えてください
出身は大阪です。河内長野市っていう、すっごいコアな場所やと思いますけど(笑)駅で言うと南海線の河内長野駅。大阪に居ても和歌山とか奈良って言われる場所です(笑)少し行けば和歌山県の橋本とかが近いですから。
兄弟は4つ上の姉ちゃんと僕の二人兄弟です。

サッカーをはじめたきっかけ

きっかけは、いろんなところで聞かれるんですけど…。正直、覚えてないんですよね(笑)最初に入ったのは、幼稚園の年長クラスやったかな?幼稚園の中にサッカークラブがあったんです。そこでサッカーをやってたのは写真とかも残っているし、自分の記憶にもあります。姉ちゃんの友達とか、近所の友達と公園でサッカーやっていたのが、きっかけですかね。

ー その後は?
小学1年で「長野FC」に入りました。地元の名門です。よく、僕が高卒で松本山雅FCに入ったときに「長野FC」というと長野県出身なの?と言われたんですけど『ナガノ』違い。大阪の「長野」なんです(笑)
長野FC出身のプロ選手もいますね。森下怜哉 選手(現愛媛FC)は後輩です。
中学年代も長野FCのジュニアユースです。僕らの年は高円宮杯とか大阪府のトーナメントで2回優勝しているんです(2009年度クラブユースU -15大阪府予選優勝、大阪府中学生サッカー大会優勝)。ガンバとかセレッソとか、Jクラブの下部組織のチームは関西大会から出場するということもありますが、僕らの年代はキーパーとかにナショナルトレセンの子が居たりして、結構良い選手が集まってました。
そして高校は興国高校に進学しました。

長野FC時代(1列目右から2番目)

興国高校に進学したきっかけ

選んだきっかけは、多分、中学で関西大会とかに出場していたからだと思うんですけど、サッカー名門校と言われる高校などから、いくつかオファーはいただきました。
けど、、、なんかまぁ、、、。
正直に言えば、寮に入るのが嫌やったんすよ(笑)興国高校は家から通える距離なんです。まぁそんな単純な理由と、当時の高校サッカーって「ボウズ頭」のイメージがすごいあって、それがめっちゃ嫌で。
大阪でもあるんですよ。当時はまだ名門の学校で丸刈りが。それが嫌やったんで、そういうところには行きたくなかった。

興国高校時代(1)

ー まさかの家が近い?(笑)でも、決め手は?
興国高校の監督さんがとても熱心に話ししてくれて面白かったし、何回か練習も見に足を運んでくれていましたので。その中で、強烈に覚えているのが「全国に出たからプロになれるわけじゃないぞ。興国はプロを目指す学校」と言われたのが、当時の中学生の僕には衝撃的というか、他の学校の先生とは違う言葉で誘って頂いたのが印象的でした。他校の先生は「ウチに来れば選手権に行けるぞ」みたいな感じでしたから。実は僕、柴崎岳選手(現鹿島)の2個下なんで青森山田高校からも後釜のボランチでとか、そういう話も言われたんですけど。そもそも、家から通えなくて寮なんで行きたくなかったですし(笑)というのもあって、興国高校でしたね。

ー 例えば、Jリーグの下部組織という選択肢は?
中学の時に大阪府のトレセンには選ばれていました。大阪では、ほとんどがガンバとセレッソの子たちなんですよ。で、そういう練習会には必ずガンバとかセレッソのコーチが来るんですけど、あるガンバのコーチは誘ってくれましたが、別のユースの監督からは「Jの下部組織に入るのは厳しいぞ」と言われていました。
そう言われたら、「行ってもなぁ…」と思いセレクションを受ける気にもなれませんでした。高校サッカーに行くという選択はスムーズでしたね。

ー 興国高校にはJの下部組織出身の選手がいたのでは?
僕の時はそんなにユースの子はいなかったですね。セレッソと興国高校が提携していて、僕の歳からユースの子が学校に通っていました。それで、ひとり、ふたり、ユースの子が途中で辞めて高校のサッカー部に入るっていう流れがちょっと出来てきて、そういう流れが徐々に出て強くなった印象があります。

ー 高校年代の成績は?
1年生から公式戦には出させてもらってたんですけど、1年の時にはベスト8で負けて、2、3年はベスト4でしたね。インターハイも選手権も全部、大阪のベスト4で負けて全国大会には出れませんでした。

興国高校時代(2)

ー 当時の大阪の高校勢力図は?
1つ上の年代は大阪桐蔭でした。田中パウロ淳一選手(現栃木シティ)とか、三浦弦太選手(現G大阪)も僕と同い年なんすけど。弦太の他にも白井康介選手(現FC東京)、丹羽詩温選手(現秋田)とかもいたので強かったですね。他には東海大仰星とか。僕らの年も仰星に負けて、その仰星が選手権に出場しました。

プロの道へ進んだきっかけ

きっかけは確か、高校の時にJリーグの松本山雅と練習試合をしたことですかね。本当はプロに行きたかったんですけど、興国高卒でプロに入った例がなかったので、僕は福岡大学に練習参加したりしていて、実はもう入学の流れになっていました。そんな時、チームでもう一人プロ志望がいて、当時の反町監督(現日本サッカー協会技術委員長)の目に止まって、1週間練習参加の話をいただきました。
ふたりで1週間練習参加して、その終わりぐらいですかね。僕だけ監督に呼ばれて「もう1回別のタイミングで1週間練習参加に来てほしい」との話を頂きました。それが、高3の夏ぐらいでしたね。

ー 進学からプロに急転した?
その同時期に、福岡大学が総理大臣杯の試合でJグリーン堺に来ていたんです。僕のお母さんは福大に行くもんやと思ってるから、大学の先生と監督に「よろしくお願いします」とかって挨拶していたんです。
でも、その同じ日に反町さんに呼ばれて「正式にオファー出すから」って言われました。
僕は練習後すぐ、お母さんに連絡したんですね。「松本から、ソリさんにオファーもらったわ」って。そうしたら、「今、福大の先生に挨拶してきたんだけど」って(笑)
ただ、その時点ではまだ迷っていたんです。でも、行けるならプロに行きたかったんで。松本を選択したって感じですね。

ー 少年時代、自身に影響を与えた人は?
全員ですよ。
小学校の時の監督(本田さん)、中学3年の監督(細川さん)、高校の監督(内野さん)。
『誰かひとり』というのはないですね。皆さんから影響を受けました。中学と高校の監督は、初芝橋本の先輩、後輩ということもあり、どこか、似てるような感覚もありました。

今やユース年代では、プレミアリーグ常連の強豪校として有名な興国高校出身の和田選手。同校初のJリーガーとなった年代ではキャプテンを務めていた彼がおもしろエピソード?を交えながら、サッカーをはじめた頃〜プロ入りまでのサッカー少年時代を思い出し振り返ってもらいました。

後編では、プロサッカー選手となってから現在までと、和田選手のプライベートについてをお届けします。

インタビュー/細道徹