大切なものを大切にする力

 私はここ三週間くらいnoteを書かなかった。理由はわかっている。原因は、完璧主義と、以前書いた記事だ。

 この記事を公開した当初、私にとってこの記事はなんの価値もないものだった。その日上司からパワハラを受け(普通の感覚ではパワハラと感じないかもしれない)、その感情を吐き出す場所としてnoteを選んだだけ。鬱憤を晴らすために書きなぐった、排便みたいな産み方をした記事だった。

 しかし、価値がないと思っていたこの記事に、ポツポツとスキが付くようになる。最初は否定的なコメントだけだったが、肯定的なコメントも付いた。

 そして私は、この記事に価値があると感じた。感じてしまった。

 価値を感じてしまったが最後、完璧主義の私は、この記事よりも価値のある記事を書かないとと、プレッシャーを感じてしまう。書きたいことは山ほどあるのに、その全てが自分の理想水準を越さない。書いては消し書いては消しの繰り返し。私は、記事を書くのに疲れ、徐々にnoteに向かう時間が減っていった。

 この感覚には覚えがある。大切なものを大切にしすぎて、台無しにしてしまう感覚だ。

 日記や音楽制作、恋人など、私は大切なものをことごとく台無しにしてきた。学生の頃に書いていた日記も、友達に褒められてから書くのをやめてしまったし、音楽制作も、Twitterで褒められてから次の曲が作れなくなった。いままで当たり前に接してきた恋人だって、大切という気持ちが募れば募るほど、素直に接することができずにギクシャクしてしまい、別れてしまう。

 こうして思い返してみると、私は大切なものを大切にするだけの力量が内容に感じる。自分の中にある「大切にすること」のハードルが高すぎて、それを超えることができず、結果としてハードルごと倒してしまうのだ。

 このような失敗をしてしまう原因はハードルが高すぎること。そしてハードルをやたらに高く設定しているのは私の中にある完璧主義。この完璧主義を治すことができれば、ハードルは適切な高さとなり、晴れて大切なものを大切にする事ができると思うのだが、これを治すことは簡単ではない。完璧主義を治すため、インターネットにある様々なメンタルセットを試してみたが、私の中にそびえ立つ強固な完璧主義の前には、どんな理論も通用しなかった。

 完璧主義を治せないとなると、ハードルの高さをどうにかすることはできない。そう考えていたが、一つ解決策があった。

 大切にしない。

 大切にするから、「大切なもの」という土俵に上げられ、やたらと高いハードルを設定してしまうのだ。元にnoteだって、自分の記事に価値を感じるまでは問題なく執筆できていたではないか。

 私はこのnoteに価値を感じてからというもの、自分の生きた証として、一つの作品として扱いたいと無意識に感じてしまっていたように思う。十年後、二十年後、自分が書いた生きた証たち、素晴らしい作品たちを眺めて楽しみたかった。大切な作品を丁寧に丁寧に積み上げていくつもりだった。

 しかし、今の自分にとって、素晴らしい作品を生み出そうという気持ちは傲慢だった。良いものを生み出そうという意識だけ高くて、自分の力量がそれに追いついてこない。それができるのは、一定以上、自分のハードルを自分で飛び越えられる、力量や気概のある人間だけだ。私は、自分にそれだけの力があると自惚れていた。理想が高く何も作ることができない人間は、何も作らない人間だ。

 そもそも、生きた証を素晴らしい作品として残そうという意識そのものが間違っていた。生きた証を生きた証として生み出すことはできない。生み出したものが生きた証になる。それを私は勘違いしていた。

 私が完璧主義であり、それを治せない以上、大切だと感じるものほど、大切に扱ってはいけない。そうしないと、また以前と同じ道を辿ることになる。大切なものを大切にできるだなんて、そんな力はまだ私にはないのだ。

 私の周りでは、もっと高尚というか、高い次元での悩みに苦しんでいるのに、なぜ自分はこうも低い場所でくすぶっているのだと泣きたくなる。こんな当たり前のことができない自分に呆れるし、悔しい。この悩みなんて、他の人はとうの昔に通過したと思うと恥ずかしくなる。

 けれども、悲観して絶望しているのではない。自分の身の丈にあった目標を設定し、自分なりに前を向いている。せめてそのことは、自分自身で評価してあげたい。スタート地点がうんと後ろ側にあるだけで、前に進んではいるんだ。

 大切なものを大切にできるだけの力を手に入れた未来の私が、この記事を鼻で笑ってくれることを祈る。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?