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監督の意識、キャラクターの無意識ーー『リズと青い鳥』の「わざとらしさ」について

 この文章は、2018年の年末にZhihuで書いた『リズと青い鳥』についての中国語評論を翻訳したものであり、ここに出てくる「友人」や周りの人の「反応」は当時中国の受容状況をベースに書きました。

はじめに:キャラクターの感情、監督の感情

 『リズと青い鳥』を観て、私は多くの人と同じく、この作品が映画の尺で作られたことに疑問を感じた。映画全体として、ストーリーの密度が低く、空白的であるが、そのこと自体は悪いことではない。私がもっとも疑問に感じたのは、この空白を過剰な演出で全部埋めようとする制作側の強い意思の方にある。

 思春期の女の子間の細微の心の揺らぎを描くために、これだけのリソースを動員して劇場で上映させたことはやはり凄いことで、その脚本の空白を埋めるために、細微な動き描写でキャラクターの心情を表現することに長けている山田尚子監督に任せたのは、確かにひとつの正解だと思う。

 出来上がった映像を見れば、数多くの細微な動き描写、頻繁なクローズアップ、鋭角的なカメラワークに圧倒され、空白はおおよそ埋められたと言えるであろう。周りも皆口揃って山田監督の安定の仕事ぶりを褒め称えているが、私は少し付いて行けなかった。それは、山田監督の緻密な演出に、私はどうしても「わざとらしい」と感じてしまうからだ。まるで、キャラクターが必死で表現したのは自分自身の心情ではなく、監督の感情のように見えた。それはなぜなのか。

クローズアップの「わざとらしさ」


 希美の躍動感ある髪と歩き、みぞれのぎこちない身振りとまつ毛の震え、そして瞳の中で流動する潤さなど、山田監督は映画の序盤からその得意な演出を披露し、観客の多くもそれを褒め称えた。しかし、なぜだろうか、これらの細微な動きを描くたびに、山田監督はクローズアップを使用している。まるで、観客に細微な動きを見逃さないために、わざとクローズアップしているようだ。

 このような細微の身体の動きは、言わばキャラクターの無意識的な感情発露であるが、無意識の感情発露は、それが明確に描かれず流されていくことに初めて「無意識」と言えるのである。山田監督と原作の武田のインタビューで、武田は自分は無意識の描写に注目していることを述べ、山田監督もまた、それを使って観客の無意識を揺らがそうとしていた。しかし、わざわざクローズアップしてまで描かれた「無意識」は果たして「無意識」と言えるだろうか。

 とある友人が書いた『リズと青い鳥』の評論の中では、この作品の撮影処理やカメラワークは、観客にカメラの存在を意識させるものだと指摘した。確かに、この作品の中でカメラの存在が意識的に表現され、山田監督によれば、それは「二人を見守る視角」を意識して、作っているからだ。

 しかし、当然なことだが、アニメに本物のカメラは存在せず、あるのは映画のカメラワークを模倣した演出だけである。だからここで暴露されたのはカメラの存在ではなく、山田監督自身の「目」ではないか。精神分析流の映画分析では、想像的同一化と象徴的同一化というものがあり、それは平たくいえば、前者はスクリーン上の登場人物に感情移入するに対して、後者はカメラマン・映画監督への感情移入である。であれば、『リズと青い鳥』の中で、観客を圧倒させた精密なカメラワークと細微の動きの描写は、キャラクターの「無意識」的な感情発露と言うよりも、山田監督の赤裸々の「意識」の方である。その視角も、「見守る」と言うよりは、監督が役者に「演技指導」しているようなもので、希美とみぞれのあらゆる動きは、全て監督の監視に晒され、「わざとらしさ」という影を被ることになった。

実写的手法


 山田尚子はアニメーション監督であるが、私はどうしても彼女の手法が「実写的」に見えてしまうのだ。その「実写性」は例えば次のようなシーンでも現れている。

 第三楽章の演奏で、希美とみぞれ、久美子と高坂の二組の演奏を対比させるために、山田監督は極めて緻密な作画で演奏の動きを演出し、その動きだけでこの二組の心情の差異や変化を描こうとした。アニメーションの中で、このような緻密な作画で心情を表現することは、なかなかの仕業だと思うが、しかし、それの演出は果たして「アニメ的」だと言えるであろうか。

 普通のTVアニメであれば、音楽のわからない観客に音楽に現れている心情を表現するには、共感覚的な手法を取ることが多い。料理アニメで美味しさを表現するのに、服を爆発させると同じように、音楽の心情を表すのに、ハーモニー処理や輪郭線の変色など分かりやすい象徴的な要素に変換させるのが一般的である。こういう手法を山田監督はあえて取らず、むしろ執拗に、演奏時のキャラクターの表情や動作を作画で表現し、作中の聴衆の反応も加えて、極めて実写的な手法を取っている。まるで、実写のドキュメンタリーを撮ろうとしているようである。

アニメと実写の違い


 アニメージュオリジナル02のあるインタビューで、京アニ出身の山本寛監督と東浩紀は、次のようにアニメと実写の違いを論じていた。

   今まで話したような業界の構造的な問題とは別に、アニメ批評がやりやすい/やりにくいという問題には、アニメという表現ジャンル自体が持っている難しさもあると思います。アニメは製作工程に大量に人がいるので、「こういう意図でこういう演出がされた」というとき、「それは誰の意図?」という話になる。仮に監督の意図と想定して書いたとすると、業界に詳しいライターさんから「いや、時間がなかったからああなっただけだよ」みたいなことをいわれるわけですが・・・・・・。

山本  単なる揚げ足取りでしょう(苦笑)。

   いえ、確かに揚げ足取りではあるのですが、もう少し違うレベルの問題もはらんでいて・・・・・・。アニメは一見映画によく似ているから、評論をやりたい人は映画理論で語りたいわけですよね。でも実は、実写とアニメには決定的な違いがあるので、そこでまず躓く。たとえば、蓮實重彦やその弟子たちがやっている評論のロジックとは、こういうものです。この作品はこういうふうに作り込まれている、しかしここで監督はカメラを通して「出来事」だか「名指されないもの」だか、とにかく不意に出会った批評とは、その瞬間をつかまえて伝えるものだ、と。これが基本的なテクニックで、別にこれは蓮實さんに限らず、20世紀後半以降、美術批評でも文芸批評でも、基本的にどのジャンルにおいても評論はこのロジックが優勢です。作り手が自分の計画を超えた何ものかに出会った瞬間を捉えて、読者に伝えるのが批評家の役目だと。

 でも、このロジックでアニメを批評するのは難しい。なぜなら、全ては絵コンテに描かれていて、不意には何も起きないから。アニメでは、作家が何かに不意に出会うという瞬間をつかまえられない。(実写)映画は現実が「外部」にあって、それを映像として切り取るわけです。ところが、アニメにはそういう「外部」がないんですよ。

山本  なるほど。押井さんがかつて仰っていた「アニメに偶然性はない。何かが偶然に映ったという瞬間は絶対にありえない」という考え方ですね。

 ですが、現場にいる実感としては・・・・・みんな、そこまで意図して作ってないんですよ(笑)。確かに「偶然に映ったもの」は存在しないのですが、「偶然描いたもの」は存在するんです。それこそ背景マンがいたずらに描いた小ネタから、アニメーターさんたちが何となく描いた絵が思ってもみなかった意味で受け取られたり、意図せず何かに似てしまったり・・・・・もちろん狙って描く場合もありますけど(笑)。そういう「意図しない図像」が生まれる瞬間はアニメにもあるし、演出もそれを必ずしも全部追えるわけではないので、後から指摘されて「あれ、そうだったっけ?」と気づく瞬間もあります。たとえば原画に限っても、アニメーターだったらそんなに何から何まで意図して、完璧に理論立てて描いてるわけではない。しかも、現状では「レイアウト」「第一原画」「第二原画」と3つのセクションに分かれることもあるので、そうなると誰のどんな意図が反映されているのかなんてわかんないんですよ。演出にしたって絵コンテと演出が別人の場合もある。僕自身、コンテを描かずに演出だけ担当することもありますが、その場合、コンテの意図と自分の意図を擦り合わせる瞬間はあります。この瞬間にも「この話数は誰のもの?」って分からなくなる。その前段階にシナリオもあるし、原画の後に動画もあって、仕上げもあって、撮影もあって、その後にも音響がある。声優さんがすごいアドリブをかまして、僕らが大笑いすることだってあるわけで(笑)そうなるともう、誰の意図がどこに反映されたのかなんて、ぶっちゃけ誰にもわからない事態に陥るんですね。

 いろんな人の思いつきを並べて集約したものが一本のフィルムになっている。誰のものでもあるし、誰のものでもないのがアニメかなと思うし、それがアニメを作るおもしろさでもあります。もちろん、それを最終的に「これは全部私の意図です」と言い切る責任は監督にあると思いますが、その盲点を突いて「作者の意図を超えたところ」で論じるのは可能だと思いますよ。
                          ーーーーー引用先

 映画は偶然性を捕獲できるが、アニメにはそれが難しい。もし『リズと青い鳥』が本当に実写だったら、その緻密な描写は「偶然性」の意味を帯びてくるであろう。しかし、アニメーション映画として、緻密な演出手法を取ってしまったら、「わざとらしい」という感覚がどうしても侵入してくるのだ。

「リズ」は誰なのか?

 アニメーションに偶然性は難しいが、批評はそれを求めなければならない。しかし、私がここで問おうとしているのは、「アニメと実写」というメディアの差異ではなく、キャラクターの心情の問題の方である。キャラクターは作者の筆から自由になり、勝手に動きだしていくのは、批評に限らず、一種の倫理的なフレーズとして、さまざまな創作現場で言われてきた。果たしてそれは可能なのか。その答えはおそらく絶望的であるが、しかし、一縷の望みもあるように思う。

 「書く」という行為は決して作者という主体の意思の直接な現れではなく、発語パロールには言い間違いがあるように、弘法にも筆の誤りがある。オートマティスムという極端な文学実験を引き出す必要もなく、誤りを不可避的に伴う「書くことエクリチュール」は極めて日常的な出来事である。そこから生じる誤りの偶然性は、キャラクターの自由の源となるはずだ。

 『リズと青い鳥』は極めて緻密に作られた映画で、その緻密さに我々は圧倒された。しかし、あらゆるカメラワークや動きを緻密に作ったことは、それらが全部「わざとらしい」ものだったと同義ではないか。そこには、偶然性が入る余地は存在しない。希美とみぞれの無意識的な感情発露は、全て監督の緻密な設計によって指導され、あらゆるキャラクターの感情は、監督の感情として表現されてしまう。山田監督は、たしかに優れたクリエイターで、そして、必死に希美とみぞれの感情を考え、それをなんとか映像化しようと心血を注いたであろう。

 しかし、まさにその必死の努力によって、あらゆる余白は埋められ――これは観客のための余白ではなく、キャラクターのための余白である。――キャラクターの自由が奪われていく。山田監督は、希美とみぞれを愛した、そして愛しすぎていた。彼女たちにもっとも繊細の感情を与えようと、一番納得のいく結末を与えようと、命を削った。けれども、その愛は希美とみぞれの自由を奪い、彼女たちを鳥籠の中に閉じ込めてしまった。

 おそらく、この映画の中で、青い鳥を愛して、愛しすぎて、手放すことができなかったのは、希美とみぞれではなく、山田監督自身ではないか。彼女は、キャラクターを愛しすぎたが故に、キャラクターの飛ぶ自由を奪ってしまった。インタビューの中で、山田監督は、自分はこの映画を作っている時、心の中にどうしても言葉にできない複雑な感情があったと話した。この複雑の感情は、まさにリズが青い鳥を手放さたくない複雑な心情、希美とみぞれがお互いを縛り合っているときの感情ではないだろうか。

山田
そうですね。何となく「成長して骨が伸びる瞬間、その前の初期微動」みたいな感覚を映像にしたいと思っていたのですが、コンテを描いていても、なんか胸が詰まっていて。「この胸が詰まっている感じに名前を付けてください」って、みなさんに募集をしたいです……略

 映画の最後で、希美はみぞれの楽譜に「はばたけ!」という文字を書き残した。山田監督もまた、希美とみぞれのように最愛の青い鳥を自分の手から飛び立つことに祈りを捧げているのであろうか。

終わりに:過剰さから余白へ

 山田監督は『リズと青い鳥』を愛し過ぎた、だから手放すことができなかった。希美とみぞれのあらゆる感情発露は、監督の感情発露で、そこにはキャラクターの自由はなかった。果たして本当にそうだろうか?私はそうは思いたくない。フィクションである限り、「書く」ことはいつも「書かない」ことを伴うのだ。

 映画の中で省略されたあの夏のプール行の小さな旅、希美とみぞれの関係に決定的な影響を与えたひとつの「出来事」、あらゆる描写を緻密化させる山田監督が唯一「書かなかった」このシーンは、クローズアップと細微の動きに溢れた映画の中でのただひとつの「余白」として、希美とみぞれを監督の鳥籠から解き放つーー例えそれが一時的なものだとしてもーー翼を広げて空へはばたく最後の可能性になる。おそらく、それが私がこの映画の中でもっとも心を打たれた部分だと思う。

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