見出し画像

インターネット的想像力の崩壊ーー竜とそばかすの姫について

 細田守作品について、僕は長い間極めて複雑な態度で見ていた。『竜とそばかすの姫』のPVを観たとき、おそらく多くの人も僕と同じく、こういうふうに感じていたであろう。「また細田脚本かよ」っと。自分で脚本を書くと必ずダメな作品になる、と揶揄される細田守だが、それも細田への一種の愛情表現なのだ。

 それでも映画館で見ようと思ったのは、やはり今回の細田作品が「インターネット的想像力」への原点回帰であることを期待していたからだ。だけど、実際は違っていて、失望の感情を抱えて映画館を出た。もし一言で『竜とそばかすの姫』を形容するならば、それは「優れたディズニーミュージカルによって粉飾されたインターネット的想像力の崩壊」にほかならない。それはどういうことか。

細田守は本来、インターネット的想像力の代表だった

 思うに、『デジモンアドベンチャー』時代(1999・2000)の細田守は、Win98のGUIや初期のメールシステム、電話によるネット通信などの表象で彼の映画監督キャリアを始めた。「携帯の電波が届く範囲がセカイだ」と語る新海誠とは、同じぐらい「ゼロ年代」で、インターネット的想像力の代表だったと言えるであろう。しかし、『サマーウォーズ』以降の細田守は、村社会に転向し、インターネットの想像力を放棄してしまった。

 『竜とそばかすの姫』が描写した物語は、簡単に言えば、母を失ったトラウマを抱え込んだ少女が、歌やダンスを通して自我実現し、守られる側から守る側の母性に成長することで、死んだ母と和解する話だ。

 歌やダンスの部分で、たしかに現在のインターネット文化に沿った描写がなされていて、おそらく、この映画をVOCALOIDやVTuberの文脈で読み解こうとする人が出てくるが、それは間違いで、なぜなら最終的に仮面を取り、真実の姿で相手に向き合い、信頼を勝ち取ろうと促す話だから、仮面(キャラ)こそを重視するVOCALOIDやVTuberとは倫理的に合わない。

 この作品は、極めて現代のSNS的な表象で溢れているか、その核にあるのは、結局転向後の「人と人が手で触れ合える」村社会的なものしかない。だから、VOCALOIDやVTuberの要素があっても、どちらかというとディズニー感が強い。歌やダンスを通して、人から守られる少女が自己実現し、子供を守れる母性に成長させる話だから、極めてディズニープリンセス的な構造である。一緒に見に行った友達が、「これ「美女と野獣」(ディズニー・1991)じゃないか」と感想を語ったが、まさにその通りだ。

 細田の「インターネット的想像力」は結局どこに行ってしまったのか。

細田の転向、新海の転向

 今思えば、2000年代初頭、細田は新海と同じぐらい「ゼロ年代」的な「インターネット的想像力」を持っていたが、その後の転向が彼らの分岐を雄弁していた。

 新海も『秒速5センチ』後、極めてジブリ的な作品『星を追う子ども』を作って、細田と同じく転向したように見えるが、しかし根本的に違っていた。それは、新海のSF的な物語から民俗学的な物語への転向は、本質的に大塚英志的なものだからだ。

 僕が大塚英志から直接聞いた話では、新海は『秒速5センチ』後ロンドンに留学し、そこで『星を追う子ども』の企画を仕上げるが、物語の書き方を勉強するために、大塚の『物語の体操』などの創作指南書を片っ端から読んだ。

 大塚の創作指南書というのは極めて複雑にできていて、彼の物語を作ること=民主主義を再建することなどの政治的な立場も含めているが、新海の話で一番重要なのは、大塚は民俗学を極めて「工学的」で、「情報論的」なものとして捉えているところだ。

 周知の通り、大塚の「物語消費」から東浩紀の「データベース消費」でゼロ年代批評は開幕したが、物語消費それ自体は、80年代のメディアミックス的な物語生産とPC、インターネット思想の文脈の中で出来上がったものだ。だから、ゼロ年代におけるニコニコ、ツイッターといったインターネットの「アーキテクチャ」への重視は。80年代のCRPGの想像力のなかで、例えば、安田均の『神話製作機械論』のなかで、潜在的に基礎づけられていた。

 現代に生きる人々は民俗学的な村社会と高度な情報化社会が全く相反するものだと思いがちだが、しかし現実はそうではなかった。口承文芸はまさにその好例である。異なる時間や異なる観客、その時の状況に応じて、物語の進行や人物の設定を動的に変えていくのは口承文芸では当たり前なことで、そのような動的な変化に対応するために、口承文芸は高度に構造化されている。物語の進行や人物の設定、あらゆる物語はこれらの要素の組み合わせによって生産され、全く新しいものになっていく。

 ウラジーミル・プロップによる『昔話の形態学』(1928)はこのような構造を先駆的にまとめた研究であり、後の構造主義の思想ブームをも牽引した。1950年代以降、レヴィ=ストロースの『構造人類学』の枠組みによる神話研究やジョーゼフ・キャンベルの『千の面をもつ英雄』が出来上がり、ハリウッド映画文化工業の脚本創作の参考書にもなっているが、日本でこのブームが入ったのは、ちょうどニューアカが現れ、高度消費社会である80年代であった。

 テレビからインターネットへ、単方向のメディアから双方向のメディアへ、このメディア史的な流れのなかで重視される「双方向=インタラクティビティ=カスタマイズできる性」というのはこのような民俗学が持つ「原始性」の高次的回帰である。だから、80年代に日本で紹介されたTRPGやコンピュータを前提としたCRPGが後に『ロードス島戦記』などのメディアミックスブームを牽引したのは、こういう情報論化された民俗学によって支えられていた。東浩紀がいう「データベース消費」も、コンピュータ的な隠喩を使った点において、同じ文脈の中にあると言えるであろう。

 民俗学自体が情報論的だとすれば、村社会とインターネットの想像力は決してい相容れないものではないし、むしろある種生成的な性質を持っている。新海の民俗学的転向というのは、まさにこの点において、細田とは決定的に違う。新海にとって、折口的な「伝統文化」を描くことと「インターネット」を描くことが、実は同じ事であって、その一番の例は、まさに『君の名は。』である。『君の名は。』の中で、スマホの想像力が民俗学的な神話や伝説と混ざり合い、『万葉集』から引用された和歌も『Steins;Gate』的なタイムスリップものに変形できる。

 細田の転向には残念ながらそのような「生成性」が存在しない。細田にとって、村社会は『おおかみこどもの雨と雪』のように、ネットのない山中に引っ越しすることであり、また、『バケモノの子』のように、人間社会から離れた異世界で二重の疎外を引き受けることになる。

インタビューの中で、細田は『竜とそばかすの姫』におけるインターネットの想像力を次のように語ったーー

 最終的にはそれでもなお、ネットの世界というものを肯定的に捉えられるような作品にしたいとは思っていました……他の人はもっと否定的に、ネットに対するアンチテーゼとして映画を作ることが多いですが、僕はアンチテーゼのように見えて実はそうじゃない地点に、最終的に達したいと思った。要は、現実世界とインターネット世界のどっちが正しいか、善か悪か、という二項対立にはしたくない。おそらくはどっちも本当の世界で、どっちの世界の自分も “本当の自分” なんですよね。

 こうして見れば、細田はその転向から十年近い今、自分の原点である「インターネットの想像力」を再び肯定したように見えるだが、しかし、実際に出来上がった作品は、彼が言うほどの「アンチテーゼではない」の境地に達していない。この映画は、たしかに、現代のSNSの中で、真実の自分と虚構の自分の区別が曖昧であることを描こうとしているかもしれないが、しかし、最終的に「真実の自分」による主体的な決断がもたらしたのは、虚構の現実化でしかない。

 『竜とそばかすの姫』の中で、ヴァーチャル世界Uは50億のアカウントを有するサービスとして、ヒロインが住む四国の小さい村社会を包括したのは当たり前な話かもしれない。しかし、地域学校の友達だけでなく、地域共同体で合唱イベントをやるおばちゃんたちですら、ヴァーチャル歌姫である自分のファンである、という設定は行き過ぎたものだ思うのだ。

 そこで描かれたのは、ネットは現実の延長線であるという話にほかならない。ネットの自分と現実の自分は同じで、ネットの人間関係も現実の人間関係の延長線である。親や親戚が毎日自分のツイッターをチェックしているような光景は、果たして本当にインターネットを肯定していると言えるであろうか?

 結局細田がここで完成したのは、虚構と現実、ネットと村社会、これらの二項対立の「脱構築」ではなく、二項対立の「和解」でしかない。彼の原点回帰は、まだ少し手前の段階にあり、まだ新海のように、この二項対立の「生成的」的な部分、民俗学の情報論的側面を捉えていない。

 それが、今の細田守の限界である。

終わりに:究極のミュージカル

 上のような酷評を出した後にもあれなんだが、この映画はインターネットの想像力はともかく、「ミュージカル」としては極めて優れていることを改めて強調する必要がある。『君の名は。』以降のMTV的な音画配合とは違って、ディズニー的なミュージカルという別方向に行ってしまったが、細田守は音画配合において極めてスマートな監督であることは確かである。

 細田映画作品の中で、音画配合について僕が一番印象的なのは、1999年に上映された『デジモンアドベンチャー』である。この作品で、モーリス・ラヴェルの『ボレロ』がBGMとして使われているが、この曲は映画音楽史において極めて重要な曲である。『ボレロ』は2つの主題をただただ繰り返し、演奏音の強度や楽器のバリエーションだけで展開している曲であるため、原理上無限に伸ばせるし、任意のタイミングで停止しても違和感がない。言ってしまえば、映画やアニメーションのフィルムスコアリング(映像が出来上がった後に音楽を付ける方法)にはピッタリな曲で、黒澤明映画の音楽を書いた早坂文雄や、早坂文雄から影響を受けた高畑勲はこの『ボレロ』の構造がもつ映画音楽のポテンシャルを極めて重視している。

 『デジモンアドベンチャー』で使われたのはこの一曲のみ。演奏の緩急(BPM)や音量の大きさだけで、雰囲気の違うさまざまのシーンに適応させた。小賢しいやり方であるが、音画配合の本質に突いたやり方でもあった。おそらく、『竜とそばかすの姫』の音画配合のなかで、一番の功労者は細田ではなく、音響監督の方にいるかもしれないが、この作品が達成した究極のミュージカルの形式は、『デジモンアドベンチャー』における巧妙の音画配合を思い出させた、優れたものであることは確かである。

 インターネットの想像力は期待はずれだったが、夏休み中に子連れの観客たちにはピッタリなミュージカル映画かもしれない。おそらく、全世代に楽しめてほしい映画を作ろうとしている細田守にとって、これは彼が望んだひとつの理想形に達しているかもしれないが、僕は、もっと尖った細田守を観たかった。ただ、それだけのことだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?