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謎解き!日月山水図屏風 鑑賞の源へ

 2018年に天野山金剛寺所蔵の《日月山水図屏風》が国宝に指定されました。

見るものを圧倒するエネルギーに満ちています。ファーストインプレッションで驚きと笑いが込み上げてきて、さらに一歩進んで食い入るように屏風を見たことをおぼえています。

太陽と月があり、四季の変遷、水の循環、大気の動き、山と海そして緻密に描かれた木々によって世界の構造をとらえています。インドの曼荼羅でもない、中国の神仙峡でもない、日本に住む人が生み出した“すべてが循環する世界”です。

この屏風についてわかっていることは室町時代に描かれたこと、所蔵する金剛寺の“灌頂の儀式”で使われたことだけ、

作者不詳、四季の順序が狂ってる、空が砕けて落ちているなど、摩訶不思議な屏風になります。

その屏風を“円筒絵画”を描く日本美術大好き作家の私が謎解きしました。

調べていくなかで日本美術のグランドマザーに出会うことになりました。研究者ではない画家の学術論文です。個人的感想もありますが、皆さんに《日月山水図屏風》の新たな可能性を感じてもらいたいです。


自己紹介

画家 白井忠俊 2008から“循環する時間軸”をコンセプトに円筒絵画を制作。壁にかけられた通常の絵画に再考察を促すため、円筒・屏風・変形キャンバスを用いて制作してます。“円筒絵画”は私の造語になります。

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円筒絵画、手前《どんな答えを欲しているのか忘れてしまった》oil on canvas 194×230×230cm 2010

円筒絵画、奥《何を知りたかったのか忘れてしまった》oil on canvas 194×230×230cm 2010

【循環の体 ART PROGRAM 青梅8Th 2010】



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※国宝《紙本着色日月四季山水図屏風》

作者不詳 

六曲一双 各縦147.0cm 横313.5cm

制作年代 室町時代

所有 大阪府河内長野市 天野山金剛寺 

※正式な名称は国宝指定以降《紙本着色日月四季山水図屏風》になりますが、このテキストでは以前からの通称である《日月山水図屏風》に表記を統一します。
※室町時代に描かれた《日月山水図屏風》は名称が同じで絵柄の違う作品があります。このテキストで考察するのは天野山金剛寺が所有する《日月山水図屏風》のみになります。

 



 この屏風が世間一般に知られるようになったきっかけは随筆家白洲正子さんの※『かくれ里』1971年の出版からでした。改めて読むと、屏風についてたった3ページしか書かれていません。その3ページに凝縮された”予想”が封じ込められていました。

※ 現実に仏を描くことをさけ、日月山水で暗示するにとどめたのは、一つの発展であるとともに、自然崇拝の昔の姿に還ったといえるかも知れない。『かくれ里 愛蔵版』白洲正子著 144ページ
※ 制作年代は室町とも桃山ともいわれるが、室町こそそういう時代だと私は思っている。前掲書144ページ
※ 宗達には大きな影響を与えたに違いない。前掲書145ページ

次に屏風が注目を集めるのは評論家 橋本治さんの※『ひらがな日本美術史2』1997年になります。もちろんこの屏風は日本美術のアカデミックな世界では知らない人はいない重要な作品ですが、学者さんの難しい分類や専門用語を排した“ひらがな”(平明で現代的な表現)による分析は、この時代に生まれた斬新な評論活動でした。屏風の魅力をピタリと言い当てた表現でした。

※とっても新しい“なにか“があるーだからそれが“謎”のようにも思われる   『ひらがな日本美術史2』橋本治著 新潮社 134ページ

橋本治さん以外にもたくさんの方々が《日月山水図屏風》の”謎のようなもの“を文章化されてきました。その謎を整理します。

謎1  いつ描かれた?

謎2  秋は紅葉じゃないの?

謎3   四季が狂ってる!

謎4  どこの風景?(新説)

謎5  空が砕けて落ちている!(新説)

謎6  仏様を描いてないけど・・・(新説)

謎7  灌頂の儀式でどのように使われた?(新説)

謎8  なぜ描かれたのか?(新説)

謎9  なぜ伝来は途絶えたのか?(新説)

謎10  誰が描いたのか?(新説)

以上、10の謎を考察します。謎4から私の新説になります。


謎1 いつ描かれた?

室町時代から安土桃山時代くらいに作られたと考えるのが通説になっています。50年代から80年代にかけて室町時代のやまと絵屏風の発見があり研究が進みました。※1

美術史の位置づけとして、室町時代に“いぶし銀”のやまと絵屏風が生み出されました。桃山時代に狩野派による“豪華絢爛”な屏風が生み出されました。

《日月山水図屏風》は室町時代の“いぶし銀”屏風になります。

江戸時代に近づき、やまと絵屏風の優美さが俵屋宗達により復活します。俵屋宗達に影響を与えたのが《日月山水図屏風》だと考えられています。以降、琳派の潮流が生まれます。室町時代の屏風絵は江戸時代の琳派へとつながります。

白洲正子さんは「室町こそそういう時代だと私は思っている。」と仰っていました。それは“いぶし銀”の美を特徴とします。

しかし、室町時代前半は“いぶし銀”ではありません。前半は足利義満の北山文化になります。唐物荘厳(からものしょうごん)とよばれる、中国文化に憧れるバブルな時代です。有り余る富から金閣寺が生まれました。

室町時代後半は唐物(中国文化)一辺倒から和物を取り入れ、広さよりも狭くて居心地の良い書院造を生み出し、移ろいゆく美意識※”侘び寂び“を新機軸に生み出しました。それが“いぶし銀”の東山文化になります。

※“侘茶”は千利休が活躍した桃山時代に発達しましたが、“侘茶”の源流は室町時代後半に村田珠光から始まります。

東山文化は応仁の乱以降に足利義政によって意図的にうみだされました。

ここで足利義政への※2再認識を企てなければなりません。応仁の乱を止められなかった、瓦解していく室町幕府を止められなかった、“無能の将軍”という認識は変わりません。

政治を諦めた将軍の日本文化への貢献度は現代の私たちにも続いています。現在、“和風”と呼ばれるものは東山文化から始まります。和風と呼ばれる美意識を日本文学者ドナルド・キーンさんは四つの要素にしました。

「暗示」「不均整」「簡素」「儚さ」です。これらすべて東山文化に完成し、現代の和風につながる重要な要素になります。

足利義政は応仁の乱が鎮静化したあとに将軍職を退き、銀閣寺(慈照院)を創建します。本来は寺ではなく、義政の住まいとして作られ、死後に相国寺管轄の寺になりました。

焼き尽くされた京都に新しい美意識を打ち出すための建物になります。それは“もろくて・はかない・うつろいやすい”美意識です。

金閣寺(鹿苑寺)との比較から渋く枯れた風情の銀閣寺(慈照院)として人気ですが、元々は、渋くも枯れてもいません。あきれるほどの趣向が凝らされた建物であることが分かりました。
「銀箔が創建当初は貼られたのではないか?」「貼りたかったがお金がなくて貼れなかった。」などと思われていましたが、2008年から行われた平成の大修理によって銀箔が貼られてないことが分かりました。※黒漆を塗られたことが分かりました。真っ黒な建物だったのです。

※黒漆の説の他に、上から白土を塗っていたという説、明礬を塗り輝かせていたという説がある。復元は元京都府教育委員会文化財技術委員の中尾正治氏が監督されました。

金閣寺は金箔、銀閣寺は銀箔。そんな単純なことではありませんでした。
足利義政という方はそんな凡人プロデューサーではありません。
金閣寺(北山殿)が“太陽”なら、こちらは“月”。
金閣寺(北山殿)が“昼”なら、こちらは“夜”。
偉大なお祖父さん(足利義満)の直球な美意識に対して、捻りのきいた美意識で対抗します。黒漆で塗られた銀閣寺は単に真っ黒なだけではありませんでした。

この大修理の際に判明した文様の跡、わずかに残された顔料、金閣などの他の建築物の文様も参考にしながら、銀閣の上層のごく一部分を創建当時の色と形に実寸復元したものがあります。

展示された復元外装は庇周りに驚くほど豊かな色彩がありました。
平成の大修理では色彩復元することも議論に上がりましたが派手な銀閣寺に戻すことに躊躇があり、観光客の激減や批判も多く起こる可能性がありますので、現在の姿を留める事になりました。

その資料を活かして、デジタル復元師の小林泰三さんがCGによる銀閣寺の全体像を復元しました。※3

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復元銀閣寺©️小林美術科学

金閣寺が「ゴージャスでラグジュアリーな印象」なら
銀閣寺は「シックでモードな印象」です。

渋くも枯れてもいませんでした。それだけではありません。
小林泰三さんの予想では建物を鑑賞する時間にも狙いがあったようです。
昼間に見ると黒光りする奇妙な建物ですが、夜には月明かりを映しこみ、“黒い”建物が反射により“銀”の建物になるのです。さらに、池の湖面に月明かりが反射し、黒漆の外壁が“揺らめく銀世界”になります。庇まわりの派手な繧繝模様は夜の闇によって適度な装飾となります。夜の街を闊歩する男性の黒いスーツの襟元にあるド派手なスカーフみたいです。

銀閣寺は銀箔を貼るような野暮な発想ではありませんでした。太陽のように光り輝く金閣寺に対して、月を鑑賞するために執念のような工夫を凝らしたのが銀閣寺でした。

室町時代は新しい新機軸の和風を次々と生み出しました。《日月山水図屏風》も呆れるほどの趣向が凝らされています。(テキスト後半でご紹介します)東山文化の精神が生み出したオリジナル山水屏風だといえそうです。

※1 美術史家 山根有三『室町時代の屏風絵概観』、 美術史家 辻惟雄『大和絵屏風の展開』  【室町時代の屏風絵「国華」創刊100年記念特別展】 東京国立博物館 1989 14ページ 18ページ
※2 『足利義政と銀閣寺』ドナルド・キーン 角地幸男訳 中公文庫 22ページ
※2 『銀閣の人』 門井慶喜著 角川書店
※3 『誤解だらけの日本美術 デジタル復元が解き明かす「わびさび」』 小林泰三 光文社新書 参照


基本的な分類

“土佐派”が描く“やまと絵”ではないか?と考えられています。分類はやまと絵ですが、土佐派の中に似たような絵がないので土佐派の絵師が描いたのか結論が出ていないのが実情です。

ここで“やまと絵”と“土佐派”というキーワードが出ましたが、いまひとつピンと来ないと思われます。概略を書きました。


やまと絵とは?

唐絵(中国風)に対する日本風を指す言葉です。
平安時代の国風文化から生み出されましたが、どのように発達したのかわからない点も多く、描かれたジャンルが広く明確な約束事はないようです。唐絵との比較から特徴をみましょう。

唐絵の風景は峻厳な山容になります。鋭い筆法で描かれ、神仙的、超自然的な厳しい風土を描いています。桂林の景色、瀟湘八景そのものを描いたものが水墨画になります。色彩を排除し、中国の精神世界を謹厳実直に表す手段がモノクロームの水墨画になります。

やまと絵では穏やかな山容の風景になります。京都周辺の景色が元になったのでしょう。緑青に塗られた丸みを帯びた山々の連なりです。日本列島の風土をそのままを反映しています。

人物表現にも特徴があります。中国風の衣装や髪形なら、もちろん唐絵になります。仙人や唐子、寒山拾得、仏教美術など精神的で濃くてエグ味のある表現が唐絵の人物像になります。曽我蕭白の画風はまさに唐絵の特徴を引き出しています。

やまと絵の人物表現なら一筆の細長い線の目、鼻は「く」の字状の鉤形で表すなどの定型が決まっています。顔が無表情で下膨れの輪郭線で表現されています。最も、やまと絵らしいイメージが《源氏物語絵巻》になるかもしれません。その他にも百人一首の絵柄や扇に描かれた花鳥風月などもやまと絵らしいイメージになります。

やまと絵を再定義する

しかし、それはやまと絵の一面でしかありません。
やまと絵の真骨頂は 《源氏物語絵巻》ではなくその他の名作絵巻に現れています。《信貴山縁起絵巻》や《伴大納言絵巻》、《北野天神縁起絵巻》、《鳥獣人物戯画》などです。
これらの絵巻は庶民や脇役を描くと現在のマンガ表現ともいえる、ふざけた表現が多いです。筆が走り過ぎているというか、止められないというか、絵師が面白がって描いている人物が多くあります。

橋本治さんは《北野天神縁起絵巻》の人物表現から、やまと絵の特色を
派手で陽気でエネルギッシュで楽しいものと定義しています。
“膨張”、“魅力的なフォルム”、“線の熟達”の要素によって成り立っていると述べています。そこで立ち止まって考えると、この3点はマンガ表現に重要なことばかりだとおもいませんか?

膨張・・・女性性・男性性の膨張表現
魅力的なフォルム・・・現実には着こなせないコスチュームなど       線の熟達・・・ペン表現の熟達

《鳥獣人物戯画》が90年代以降日本漫画の始祖となり通説となりますが、その他の絵巻にもマンガ表現と通じる人物描写は多くあります。そのようなやまと絵にはシンプルな笑いを求める気持ちがあります。

この特色は滑稽の系譜と言えるかもしれません。もちろん奇想の系譜を意識しています。滑稽と奇想では何が違うでしょうか?ふたつを定義します。

“奇想”は日常からはみ出した非日常のイメージになります。想像力を駆使した現実にはあり得ない風景があふれているイメージになります。
お笑いでいえば“ボケ倒し”たり、“シュールなネタ”です。

“滑稽”はあくまでも日常のなかにある、少しとぼけた、少し悪意のある表現です。お笑いでいえば“あるあるネタ”や“形態模写”です。

その他の名作絵巻には本筋のストーリーにあまり関係のない部分に、抑えきれない衝動で画面の隅に滑稽な人物表現が描かれています。
やまと絵といえば、源氏物語絵巻をイメージする視点では“美しく雅な日本文化”に陥りがちで、やまと絵に対する別の視点が抜け落ちてしまいます。
それはやまと絵にみなぎる派手で陽気でエネルギッシュで楽しいもの=滑稽です。やまと絵には品格を重要視した貴族文化と笑いを求める庶民文化の二面性があります。

“派手で陽気でエネルギッシュで楽しいもの”を風景表現に当てはめましょう。ちょっと無理矢理ですが・・・、

私は《日月山水図屛風》を連想します。唐絵ではない、やまと絵の風景表現はどうあるべきか?を熟考した作品だと考えます。新しい答えを導きだそうとしなければ、あの作風は生まれません。
以後、派手で陽気でエネルギッシュで楽しい表現はやまと絵の復興としての琳派となって花開きます。

『別冊太陽 やまと絵 日本絵画の原点』平凡社 参照   
【特別展 やまと絵 雅の系譜】東京国立博物館1993   参照  
『ひらがな日本美術史2』橋本治著 新潮社 参照



土佐派とは?

「土佐派」は室町時代に活躍した「やまと絵」を描く絵師集団になります。

日本には何代も続いて絵師を生み出した家柄があります。
平安時代の巨勢家、
鎌倉時代の法性寺家
室町時代の土佐家
室町時代から江戸時代まで続いたのが狩野家になります。
土佐家は足利将軍の勃興と共に生じ、その滅亡とともに正系が絶えています。
室町時代と運命を共にした家だったといえます。御用絵師集団の役割は安土桃山以降に狩野派に引き継がれていきました。狩野派は何でも描ける集団を目指しましたので、水墨画、唐絵、やまと絵などなど需要に合わせてなんでも描くことができました。そのため江戸時代まで生き残りました。
土佐派はやまと絵を描く集団です。平安時代以降の国風文化の担い手になります。
金銀を用いた装飾性の高い技法を駆使します。権力に近かったため、似せ絵(肖像画)を得意としていました。伝統文化を受け継ぐ役割も多く、要求された内容を描くため、マンネリズムに陥りやすい立場でもありました。

『日本の美術No.247土佐光信と土佐派の系譜』宮島新一著 至文堂 参照


謎2 秋は紅葉じゃないの?

夏景色と冬景色との対比から滝の奥に秋景色がある事になります。

春は桜が描かれ、春の賑わいを見て取れます。秋を見ると真っ赤な紅葉かと思いきや、赤も黄色も使われていない地味な景色が描かれています。

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©︎小林美術科学 デジタル復元《日月四季山水図屏風》左隻部分 秋景色

秋の紅葉がない謎を小林泰三さんはデジタル復元によって導き出しています。小林さんのデジタル復元した《日月山水図屏風》をご覧ください。

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経年劣化と銀の酸化により渋い印象でしたが、デジタル復元で完成当初の状態がわかりました。汚れを落とせば紅葉が出てくると思われましたが、いくら探しても紅葉の赤い色がないのです。金箔を多用した金屏風でもなく、“銀と緑”を多用したさっぱりした“クールな印象”の作品でした。

小林泰三さんはデジタル復元により秋の紅葉がない理由を突き止められました。絵師はあえて紅葉の表現に“金と赤”のゴージャスを避けているのです。

《日月山水図屏風》は光り輝く“金”ではなく“いぶし銀”を特徴としていました。それは足利義政が生み出した東山文化の“いぶし銀”と共通しています。

『国宝よみがえる色彩』小林泰三著 双葉社 99ページ 参照



謎3 四季が狂ってる!

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よく見ると、右から春→夏→冬?→秋と四季の順序が狂っています。その他の室町時代に描かれた四季山水図屏風は定形として右から左へ春夏秋冬で描かれるのが決まり事になっています。それが狂っているのです。大きな謎として考えられていました。

一つの読み解きがあります。それが小林泰三さんの二層置きになります。
小林泰三さんはデジタル復元師として古びた日本美術を制作当初の色彩に戻し、当時の鑑賞状況も加味するべきと考えます。 そこで考えだされたのが二層置きになります。この置き方は美術館向きではありませんが、(ガラスケースに展示すると後ろの屏風が見えないため)本来の屏風の役割や和室での鑑賞状況を考えれば納得できる設置方法です。

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この鑑賞方法ならば四季が巡ることになります。自らが動けば良いのです。

西洋美術は壁に絵画を展示しますが、日本美術の屏風は室内の調度品のため風除けの役割や目隠しなどの道具として使われます。屏風は“立て回す”ことを前提としています。1ペア(一双)で右隻・左隻と呼ばれますが必ずしも左右に並べなければならない理由はありません。置き方が決まっていたら道具として使えません。

作品と正対して向き合ってるだけでは四季は巡りません。寝転がってスマホやテレビで画像を見ても屏風の四季は巡りません。専門書を積んでパソコンと睨めっこしても屏風の季節は巡りません。屏風を立て回し、

自ら動けば四季は巡ります。

これは私の円筒絵画のコンセプトと同じになります。鑑賞者が自ら回って見ることで作品のすべてが見ることができます。西洋美術を基本にした美術概念を再考する必要があります。壁に絵画を飾ること、美術館に展示することを問い直す必要があります。日本美術の屏風は壁にかけず、床に置き、自立させる事ができます。屏風は日常生活に使う風除けと間仕切りに使う道具です。

屏風は“見る“だけでなく道具として使用し、鑑賞者が積極的に絵画世界に入り込もうとする鑑賞によって没入することができます。

屏風の鑑賞方法を捉え直すと四季は正しく巡り、狂った季節の謎を解くことができました。

『国宝よみがえる色彩』小林泰三著 双葉社 99ページ 参照




謎4 どこの風景?(新説)


白洲正子さんは屏風を所有する金剛寺周辺の山々ではないか?と考えられ、美術史家の水尾比呂志さんは那智勝浦の熊野三山だと考えられています。

『かくれ里 愛蔵版』白洲正子著 145ページ
美術史家 水尾比呂志『國華』1017号

私は実際の景色だと考えています。

四国の景色

私が瀬戸内旅行をした実感です。
四国には突然そびえ立つこんもりした“おむすび山”があちこちにあります。
その中でも“飯野山(讃岐富士)”は特別です。見事な“おむすび山”です。

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飯野山(讃岐富士)

この形から《日月山水図屏風》の夏山を思い描くのは自然な成り行きだと思います。ここが起点となり、私が調べていくと、次々と四国の景色と《日月山水図屏風》は重なり始めていきました。

飯野山周辺を調べると似た山が多くあります。“金山、常山”です。

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ではなぜ?四国の景色が描かれたのでしょうか。
調べていくとわかってきました。ここ讃岐は真言密教の開祖空海の生誕地だからです。飯野山は幼少の真魚(空海の幼名)が日常的に見ていた可能性があります。

《日月山水図屏風》の山並びは“金刀比羅宮”からの景色になります。金刀比羅宮の由緒は琴平神社が始まりで後に神仏習合されますが、明治に入り神仏分離されます。現在も海上交通の守り神として信仰されています。

琴平神社は空海の活躍した平安時代以前から存在する古い由緒がありますから少年の真魚が長い階段を上って見た景色ということになります。

絵師は屏風作成にあたり、四国をロケハンに来たかもしれません。金刀比羅宮に上らなければこの山並びの景色は見ることができません。


次に地図と同定できそうなのは“青ノ山”になります。風景を見る角度は変わりますが、重要な山です。飯野山の近くにある低い山です。

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飯野山が標高421m、青ノ山は標高224mになります。飯野山の手前に低い山が描かれています。大小キレイに重なっています。手前は海が描かれていますが、ここは“瀬戸内海”になります。
瀬戸内海の海上から見る“飯野山と青ノ山”は瀬戸大橋からも見ることができる角度になります。

青ノ山は木々を描かず、緑一色で塗られています。
ちなみに日本語の古語に“緑”という色はありませんでした。緑は青でした。“緑”は植物を表しています。“緑”は色ではありませんでした。
そのため葉の生い茂る様子は“青々とした”と表現します。“緑”は“青”になります。“青ノ山”を青一色に塗ってているのは山の名前を表しているかもしれません。

その他の図も空海の前半生に関わりのある景色になります。幼少時の空海は頭が良く、しかも家柄も良かったので、15歳で高級役人になるため大学に入ります。讃岐から当時の都に向かいます。海を渡り平安京へ向かいました。

だとすれば、少年真魚が多度津の港から出港し振り返った景色が右隻の風景になります。

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左側の海は“大阪湾”になります。大阪湾の奥にある陸地は海の玄関口 “堺”になります。
その奥には奈良があります。その奥には“吉野山”があります。さらに奥にあるのは“高野山”です。吉野山から高野山までの44㎞を15歳の空海が歩いた記録が残っています。

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右隻屏風の上部左隅に金雲に隠れていますが、しっかりと山並みの景色が描かれ、若き空海の足跡をうかがえます。
どうやら右隻は金刀比羅宮からの景色と瀬戸内海からの景色を組み合わせ、讃岐での空海の生誕から大学のある都へ向かう様子が描かれているようです。

さらに左隻も何か繋がりがあるかもしれません。
調べてみると空海と四国に関係が深い風景が続きました。
空海は都で勉学に励みましたが、頭が良すぎて、官僚になるための儒教に嫌気がさし、仏教に興味が移ります。
しかも仏陀の教えから離れ始めた密教(雑密)の世界観に没入していきます。遂には大学を辞め、私度僧になります。
私度僧とは官僧(官が認めた僧侶)ではなく、勝手に個人的に僧侶になることです。それは仏教に帰依しなくても頭さえ剃れば坊さんになります。つまり形だけの坊さんになり、働かずお布施だけで食いつなぐ輩もいる身分です。もちろん
本来は空海のように教理を突き詰めるために私度僧になるのですが、何も身分の保証されない立場です。一族の大反対を受けてのドロップアウトです。私度僧になった19歳の空海は修行を始めます。選んだ先は故郷の四国でした。この修行により真魚から空海になる悟りを得ました。

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四国修行の土地を地図にピン打ちしました。そこから図像と重なる場所をピックアップします。左隻には“滝”が描かれているので、四国の滝を検索してみると、あっという間に重要な滝が候補にあがりました。“灌頂ヶ滝”です。まさしく空海が滝行をした由来が書かれていました。屏風は室町時代に“灌頂の儀式”に使われていたので関係があるはずです。
検索項目を読み、画像検索すると、名前だけではなく、描かれた滝の表現も裏付ける根拠になりそうです。
“灌頂ヶ滝”は上部の落ち口から放り出され、水流が岩肌に触れることなく落ちる端正な景観の滝でした。

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その落差は80mです。屏風に描かれた滝も落ち口で放り出されています。決して小さな滝には見えませんから似ていると思います。
しかし・・・屏風に描かれた滝の図像は流れ落ちて、海にたどり着きます。
四国の山中にある実際の灌頂ヶ滝は水が滝壺に落ちます。山のなかです。直接、海には落ちません。やっぱりこのアイデアは気のせいかな、とも思ったのですが、空海には四国修行で重要な悟りを開いた場所があります。
それは“室戸岬”です。太平洋に突き出た岬です。平安時代にはたどり着くのが困難な場所でした。この岬の洞穴“神明窟”で海に向かって経を読み、空海は修行します。

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御厨人窟・神明窟 

連日の修行の中、夜空に向かいお経を唱えていると、突然“明星”が口から体内に入り込み、“悟り”を得たというエピソードがあります。“悟り”“灌頂”は近しい意味を持ちます。
この修行で目の前に広がる“空と海”の景色が途方もなく眼前に広がっていたので、自らの名前を“空海”としました。その後、室戸岬の浜辺には“灌頂ヶ浜”と名が付きました。

四国には“灌頂ヶ滝”“灌頂ヶ浜”があります。
の図柄は“灌頂ヶ滝”“灌頂ヶ浜”を組み合わせたと考えられないでしょうか。滝の右側には洞穴らしき図像も見受けられます。室戸岬には地質的に奇岩も多く、岬の表現には奇岩のイメージもあるかもしれません。
屏風の滝は素朴で図案・記号のように描かれ、写実性がないと感じますが、どうやら四国名所の“滝”“浜”を的確に説明した図案・意匠に私は感じられました。

『空海の風景 上・下』司馬遼太郎著 中公文庫 参照          『芸術新潮1984.5、2011.8、2019.5』参照

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図の読み解きはまだ続きます。
四国での修行の地をマップにピン打ちしていくと次に見つけたのは“大滝山”です。

ここで空海は“求聞持法”を修めました。今風にいえば“速読暗記術”です。現在はこの場所に大瀧寺があります。この一帯は“讃岐山脈”になります。
図では秋の景色と考えられている部分です。滝の上に金雲の隙間から描かれている山々です。
山の表現は象徴的な独立峰では描かず、連なり重なっている山々(山脈)を描いています。これは讃岐山脈の連なりを表すと考えてみます。秋山の景色は“大滝山”の修行地かもしれません。

さらに修行の場を探すと“石鎚山”を見つけました。ここは仏教渡来以前からの霊峰です。

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石鎚山 四国開拓日誌から

修験道の方たちが修行されていました。見るからに急峻な峰は登山家をワクワクさせます。ここは“石鎚山脈”であり山々が連なっています。
屏風の一番遠くの“冬”の雪景色も山々が連なって描かれています。雪景色が石鎚山脈だと考えます。
しかし、ではなぜ、石鎚山脈が雪景色になったのでしょうか?
四季山水図ですから冬景色が必要です。でもそれだけで石鎚山脈を雪景色にしたのならあまり芸がありません。これも地図を眺めていると見つかりました。
それは“寒風山(さむかぜやま)”です。石鎚山脈の手前にあります。画像検索すると見事な雪景色の写真がありました。
この山の名から石鎚山脈は雪景色になったのでは?と考えています。

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四国開拓日誌から

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©︎小林美術科学 デジタル復元《日月四季山水図屏風》左隻部分 冬景色

最後に残っているのは左隻の砂浜と踊っている松です。
地図にピン打ちしていくと、この屏風(左隻)は大阪から四国を見ています。
描かれた景色の遮蔽関係から“灌頂ヶ滝”の奥に“大滝山”があり、その奥に“石鎚山”があります。無理やりと言われればその通りですが、一応は四国の地理上の奥行きが説明できます。


すると手前にある砂浜は香川県の“高松”になるかもしれません。
滝や山のサイズと比較したら、“松”が大きく描かれています。大きな松・高い松=高松だとおもいます。※高松の地名の由来は諸説ありますが

※「高松郷の辺りに天を突くような、大きく高い松があったから」 ウィキペディア 高松市の歴史 引用

とされています。ここは修行の場ではありませんが四国の地理説明に描かれているかもしれません。

描かれた“松”は踊っているように見えます。すると“松”がなんだか“阿波踊り”をしているようなイメージが湧いてきました。木の根は阿波踊りの足運びにも見えます。

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《日月山水図屏風》左隻イラスト 部分 踊る松

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阿波おどり会館から

阿波踊りの起源が室町時代に辿れるかは難しいですが、日本の祭りは仏教・儒教渡来以前の祖霊信仰です。阿波踊り・よさこい踊りなど、黒潮文化圏の喜び溢れる明るい踊りの文化は古くからあってもおかしくはないと思います。
《日月山水図屏風》を描いた絵師は誰だか不明ですが、ふざけ過ぎで面白いです。

 日月山水図の画風はそれ以前に似たような画風がないとされています。

その理由は京都を中心にした、歴史背景を持った景色を描いてないからだと思われます。

文化の中心地“京都”から絵柄を考える発想から、“地方”の独自性をクローズアップする手法に切り替えています。

《日月山水図屏風》は空海の前半生にゆかりある四国の風景に織り込んだ意欲作だと思います。


山水屛風(せんずいびょうぶ)

 屏風は真言密教の灌頂の儀式で使われていたと伝承があります。では室町時代より昔に儀式で使われた屏風には何が描かれていたでしょうか?

最も古い屏風は東寺に伝わった山水屛風(※せんずいびょうぶ)です。平安時代の遺品です。元々は宮中や貴族の邸宅の室内調度として作られたと考えられます。中国的風俗を描いた唐絵になります。儀式のために作られたのではなく、貴族の調度品を流用して儀式に使われたようです。

次に鎌倉時代の《高野山水屏風》(こうや※せんずいびょうぶ)があります。高野山は空海が開いた真言密教の聖地です。描かれた内容は高野山の山上伽藍を整然と描いています。

※密教法具のため、“さんすい”ではなく“せんずい”と特別な名称で呼ばれるそうです。

これらの山水屏風は“灌頂の儀式”をとり行う道場において阿闍梨の座の背に置く※“背障”として定着していました。密教法具の一部として屏風が使われたようです。

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※雛人形に置かれた背障の役割を担った金屏風。


平安時代の山水屏風は貴族の邸宅で使われた調度品を流用して儀式に使いました。

鎌倉時代の高野山水屏風は人物や高野山の寺院を描き、空海の真言密教を説明します。

室町時代の日月山水図屏風は人物や建物を描かず、風景のみで空海の足取りを説明します。見事な“見立て”表現です。


「四国の景色が描かれている!」といままで私は何度も説明してきましたが、二層に置かれた屏風を自ら動いて回れば四季が巡るように、四国が描かれている屏風を自ら動いて回れば四国八十八ヶ所巡りをしたことになります。

四国八十八ヶ所を回るお遍路さんの発祥は約1200年前に青年空海が修行した88の霊場を辿る巡礼から始まっているのです。

《日月山水図屛風》には四国が描かれています。


謎5 空が砕けて落ちている!(新説)

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上《日月山水図屏風》右隻イラスト 瑞雲部分

下《日月山水図屏風》左隻イラスト 瑞雲部分

 金箔による雲を瑞雲と言います。瑞雲とはめでたい事の前兆に現れる雲になります。やまと絵では俯瞰の場合には必ず描く雲になります。

左右どちらの屏風にも瑞雲が描かれています。左隻はフラットに金箔を貼っただけの普通の瑞雲ですが、右隻の瑞雲がどうもおかしいのです。壊れてバラバラになって落ちているように見えます。

この不思議な“砕けた瑞雲”は《日月山水図屏風》の魅力になっています。橋本治さんは※「陸地が海に流れ込むのなら、空が砕けて海にこぼれ落ちたっていいだろう」と仰り、※小林泰三さんは“砕けた瑞雲”からキャロル・キングの「空が落ちてくる」が頭に流れてくると仰っています。

超現実的な絵のように思えましたが、この謎も四国が描かれていると仮説したことにより解くことができました。

空海が修行した四国が描かれているため“砕けた瑞雲”は空海が室戸岬で悟りを開いた明星のエピソードを表します。

室戸岬の神明窟で太平洋に向かって読経していると、明星が口の中に飛び込んできて大宇宙(=明星)と小宇宙(=空海)が一体となり、悟りを開きました。洞窟の中で空海が目にしていたのは空と海だけであったため、空海と名乗りはじめました。このエピソードは空海が『三教指帰』や『御遺告』に書き残しています。

右隻だけ見ても読み解くことが難しいですが、二層置きにした屏風を少しずらして見るとすっきりと理解できます。

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《日月山水図屏風》模型 明星を表す瑞雲

2層置きを少しずらす事により、神明窟の手前に明星があることになります。

絵師は明星の表現にやまと絵技法をふんだんに使っています。砕けた金箔から砕けた銀箔になり、銀砂子を散らし、さらに細かく截金と砂子の組み合わせで空海の体内に入りやすいよう粉々サラサラにする心づかいをしています。

神明窟の上には瑞雲があります。それは空海の悟りを祝福しているかのようです。

絵師の技量やアイデアは尋常ではありません。絵師は屏風が一双(1ペア)であることの面白さを最大限に活かして鑑賞の幅を広げています。

二層置きで導線を作り出し、季節のバーチャル体験ができます。2隻の屏風に、つながり合う図像を描き、重なりあうよう組み合わせれば、鑑賞者に謎かけをすることもできます。

銀閣寺と同じく、《日月山水図屏風》はアイデアのてんこ盛りです。

※ひらがな日本美術史2 橋本治 p138
※国宝 よみがえる色彩 デジタル復元でここまで見えた 小林泰三著 p90




謎6 仏様を描いてないけど・・・(新説)

《日月山水図屏風》は仏を描かずに風景を描き、自然崇拝の昔の姿に還ったと白洲正子さんは予想されていました。

しかし、お寺の儀式に使う屏風に仏様が描かれていないのは不思議なことです。(私の読み解きでは空海の前半生が描かれているので間接的に仏教美術かもしれません)

“インド由来の仏教寺院“に“やまと絵屏風”が置かれているのは奇異に感じます。インドカレーのお店でお刺身が提供されるイメージです。

仏様が描かれていないことをずっと考えていましたが、灌頂の儀式に使われたことを組み合わせて考えると明案が浮かびました。

現在では《日月山水図屏風》を鑑賞するには美術館での展覧会か、もしくは所有している天野山金剛寺の公開日に和室で見るしかありません。

灌頂の儀式で使われていた室町時代は、屏風はお寺の金堂に置かれていたはずです。金堂には《大日如来》が鎮座しています。大日如来の前に《日月山水図屏風》を置くと仏様と日月山水図を組み合わせることができます。

山より大きな仏様を表す道具になります。その図様を《山越え阿弥陀》と言います。鎌倉時代に流行った日本独自の仏画になります。

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《デジタル復元 山越え阿弥陀》©小林美術科学

国宝《山越え阿弥陀》鎌倉時代・13世紀 禅林寺蔵

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筆者イラスト 《大日如来》の前に設置した《日月山水図屏風》のイメージ

上記のような相似関係になります。これを見て「それはそうだけど、こんなバカバカしい見方はないだろう」と思うかもしれません。

《山越え阿弥陀》は元々の鑑賞方法がバカバカしいのです。仏様が描かれている“絵”だけではありません。

この屏風は貴族や僧侶のための「来世はどうしても極楽浄土に行きたい!」という欲望のために描かれた屏風になります。

貴族や高僧の死に際に、この屏風を西側(西方浄土のため)に置きます。そして描かれた仏様の手には穴が空いています。この穴から5色の紐が出ています。仏様の手から伸びた5色の紐は死に際の高僧の手に結びつけられ、亡くなったと同時に極楽浄土へと引っ張ってもらおうという魂胆です。

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日本美術は壁に飾ったらおしまいではありません。鑑賞の没入が半端ないのです。いじり倒して、睨みつけるように向き合って、トロトロになるまで愛でて、仮想世界に転生するのです。日本人の鑑賞はねちっこいのです。

西洋美術の絵画は見事な写実表現です。それは写真のように止まっています。絵を額に納め、時を止めて存在します。日本美術の表現はスカスカです。写実表現とは言えません。しかし、余白に鑑賞者の感情を埋め込むとアニメーションの如く動き出します。余白に何を埋め込むか?これが日本美術鑑賞の極意です。

仏像の前に屏風を置き、《山越え阿弥陀》を生み出す程度で、呆れてはいけません。この屏風は置き方と余白への埋め込みにより、灌頂の儀式でエンターテイメントに使われていた、と予想してます。


謎7  灌頂の儀式でどのように使われた?(新説)

鎌倉時代の山水屏風は儀式を行う阿闍梨の後ろに置かれて背障の役割をしていました。背障とは仏像の光背と同じで人物の格式を上げる役割があります。婚約記者会見で金屏風が置かれるのも同じ役割になります。

室町時代に作られた《日月山水図屏風》はどうやら背障の役割ではなかったようです。描かれた四季の順序から配置は小林泰三さんの二層置きの可能性があります。屏風は儀式で“めぐる季節”を体感すること、“四国遍路”を体感することを目的にしていたと思われます。

さらに全ての要素を組み合わせて、屏風の配置や置き方を再考します。

そのために“屏風の構造”から説明します。


屏風はフレキシブル

屏風はパタパタと折りたたみ、広げることができます。この可動部は平安時代まで金具のヒンジや革ひもでつなぎ合わせていました。この部分に大発明がありました。それは紙蝶番(かみちょうつがい)です。これは鎌倉時代に生み出された日本人の発明になります。意外と知られていないことですが※屏風の蝶番はどちらにも曲がります。紙蝶番の構造は図のようになります。

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この蝶番の素晴らしいことは目立たないことです。この大発明により、一扇にひとつの絵柄が描かれていたのが、大画面を描けるようになりました。折りたたみ部分から金具が消えたのです。紙蝶番の革新性を重要視すべきだと主張します!

※『表装を楽しむ 掛軸、屏風をつくる』 麻殖生素子著 NHK出版  

フレキシブルであることを利用して自分の作品で円筒の屏風を作ってみました。このくらい屏風は自由な置き方で鑑賞することができます。

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そこで《日月山水図屏風》をアーチ型にすると、どうなるか試しました。アーチ型は画中画でも確認できます。《かるた遊び図》江戸時代 京都・藤井永観文庫蔵にはアーチ型に置かれた屏風が描かれています。

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アーチ型に置いた《日月山水図屏風》 右隻 模型

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通常のジグザグに置いた《日月山水図屏風》 右隻 模型

ジグザグ置きは見慣れているため、屏風鑑賞において問題ないように見えますが絵を描く身としては“描かれた内容”と“画面形式”の親和性を再確認してしまいます。

ジグザグ置きでは山の形が崩れる事、波の動きが阻害されることが私には気になります。

アーチ型は山の稜線がより引き立ち、波の文様が波打つように感じます。上記の写真は模型になりますが、小林泰三さんが復元された原寸サイズの《日月山水図屏風》を鑑賞体験する機会がありました。

アーチ型に置いた屏風の中央に※座るとどうなるのか小林さんと試しました。

※屏風や掛け軸は立って見てはいけません。必ず座って見ましょう。屏風は床に置かれているため、立って見ると作品を見下ろす視点になってしまいます。座って大きな山を見上げる視点で鑑賞しましょう。座ることにより身体が固定されます。特に正座・座禅は瞑想の座り方になります。適度な身体拘束により意識を覚醒させ、鑑賞に集中できます。筆者

絵が鑑賞者を取り囲み、空の大気と波打つ潮流、動き出しそうな山が上昇スパイラルを引き起こし、トンデモナイ鑑賞体験をすることになりました。

本当の《日月山水図屏風》が牙を剥いたような恐ろしさでした。ジグザグ置きでは作品の意図を半減していると確信できました。

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アーチ型に置いた日月山水図屏風 右隻 模型 ローアングル撮影

しかしアーチ型には問題点もあります。2層置きには向いていませんでした。鑑賞者を囲み、鑑賞者を固定させ、お尻に根が張ってしまうのです。次の屏風へと動き出す気持ちが起きません。

そこで屏風を更に立て回しました。するとすぐに、より可能性を感じる型を見つけ出しました。それは3面スクリーン置きです。

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日月山水図屏風 3面スクリーン置き 模型

観音開きとも通じる、シンメトリー(左右対称)な置き方です。より宗教儀式で使う荘厳な置き方を見つけることができました。これは《山越え阿弥陀》と同じ形式になります。

続いて秋冬の左隻も3面スクリーン置きにします。それから、真後ろには置かず、ずらして置きます。画面左側には空海の室戸岬での明星が体内に入った奇跡が描かれていますから左側にずらします。

屏風は儀式を行う金堂に置かれ、《大日如来》の前に置かれていたと考えます。

以下が総合した配置図になります。

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図は私が予想する《日月山水図屏風》の配置になります。

描かれた内容、屏風のフレキシブルな特性、金堂に置かれたこと、灌頂の儀式で使われたことを総合させました。


いかがでしょうか?私はだいぶ気に入ってます。以上により、屏風の配置が確定しましたので、本題の灌頂の儀式について調べました。

天野山金剛寺では“木喰結縁灌頂の儀式”が行われ、儀式に参加した人の名前が残されていました。

木喰結縁灌頂を3つに分割します
木喰(もくじき)五穀を断ち、火食、肉食を避け、木の実・草のみを食べる修行
結縁(けちえん)仏道に入る縁を結ぶこと
灌頂(かんじょう)菩薩が仏になる時、その頭に諸仏が水を注ぎ、仏の位に達したことを証明すること。

儀式の内容は詳しくは口外してはならないようですが、現在では一般の方も結縁灌頂の儀式を授かることもできます。

高野山真言宗 金剛峯寺 結縁灌頂 参照

ウェブサイトや動画から木喰結縁灌頂の儀式をわかる範囲で文字起こしすると、儀式までの10日間は木喰(五穀断ち)をする。米・麦・大豆など糖質をほぼ完全排除した食生活を続けます。
儀式の当日は、ありがたいお話を聞く
目隠しをする。真言の呪文を何度も唱え続ける。
繰り返す呪文と視界が閉ざされたことにより一種のトランス状態になる。
参加者は縦一列に並び、手は印を結び、しきみの葉を持ち、指先を前の人の背中に押し当て、前に進む。
到着した先では、手に持った葉を床に投げる。目隠しを外すと床には曼荼羅があり、投げた葉が落ちている。葉の落ちた曼荼羅には仏が描かれていて、その仏と縁が結ばれたことになる。これが結縁
その後は次の場で高僧から真言・印・独鈷杵を使った秘法を授けられ、最後に頭に水を注がれる。これを灌頂と言います。修行僧と仏が一体化する儀式が木喰結縁灌頂になります。

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木喰結縁灌頂の儀式と金堂に置かれた屏風の組み合わせ予想図

灌頂の儀式は空海が唐から持ち帰った最新のスピリチュアルイニシエーションになります。平安時代の天皇や貴族、最澄がこぞって受けたいセミナーでした。
密教は儀礼の効果を上げるため様々な密教法具を使用します。密教は道具をたくさん使用する宗派です。座禅して瞑想するだけ、お経を唱えるだけでは完成しません。

仏像、曼荼羅、金剛杵、金剛鈴、線香、暗闇、護摩、炎、蝋燭、灯り、目隠し
視覚、聴覚、嗅覚などを最大限に活かす儀礼を行います。

現在も密教系寺院では灌頂の儀式は行われ、熱心な信徒でなくとも簡略化した儀式を体験できるようになっています。検索すると現代では昼間に行われている画像が多く見ることができました。

しかし中世には儀式の効果を最大限に引き出すため、夕方から始まり、深夜に終わる儀式ではなかったかと考えています。この時間帯なら蝋燭を使った灯りの効果も期待できます。

それでは《日月山水図屏風》はどのように儀式で使用されていたのかを予想します。ここで大切なのは、芸術作品は美術館で見るなら“静的”な状態です。一般的には大音量の音が響き渡る絵画展はありませんし、暗闇に蝋燭一本で絵画鑑賞することも一般的ではありません。明るく静かな美術館でゆったりと鑑賞できることがよいこととされます。しかし、作られた当時の《日月山水図屏風》は“動的”な状態でした。なぜなら屏風は調度品であり、儀式のための密教法具だからです。儀式の効果を最大限に引き出すため山水屏風(せんずいびょうぶ)として存在します。


 それでは灌頂の儀式を授かる気持ちになって鑑賞しましょう。テレビもスマホも無い室町時代に意識を転生させましょう。身分は公家のお姫さまでも、武家の跡取り長男坊でも、仏門に入った三男坊でも好きなポジションで構いません。でもこの儀式はそれなりのお布施は必要かもしれませんから、そのつもりで。

 儀式までの10日間、五穀立ちをします。米・麦・大豆など糖質をほぼ完全排除した食生活です。木喰です。食べ慣れたお米を口にしないことは物足りずボーッとしました。3日目に狂おしいほど体が糖質を求めている状態になり、甘味を手に入れたい衝動が起こりました。
4日目に峠を越え、糖質制限食に体が慣れてきました。すると身の回りを感じる感度が上がり、耳は多くの音を拾い、視野は広がり、集中力も持続しました。
ようやく10日が過ぎ、修行を得た僧侶・貴族が木喰結縁灌頂の儀式を授かる日がやってきました。
寺の高僧が労いの言葉とこれから赴く儀式の心構えを諭していただきました。

儀式は始まり、真言密教における重要な“理趣経”の読経が鳴り響きます。

ここからは目隠しをします。
視界は閉ざされ、読経に満たされます。一時間は続いたでしょうか、静止しているつもりでしたが体がゆっくりと回り始めました。
ようやく動くように促され、手は印を組み、指先にしきみの葉をはさみます。
印を組んだ指先は前を歩く僧侶の背中に押し当てます。目隠しをしているため指先が離れれば行き先はわからなくなります。指先にすべてを集中し、暗闇を進みます。
自分がどこにいるかはわかりません。ずいぶん歩いた気がします。前を歩く僧侶が止まり、後ろを歩く者たちも止まりました。
目隠しのまま金堂に到着しました。座って待つように促されます。今も読経は鳴り響きます。ようやく自分の番が回ってきました。進行役の僧侶が手を取ってくれて前に進みます。
腕を伸ばし、手に持った樒(しきみ)の葉を落としました。目隠しを外すと曼荼羅の上に葉が落ちていました。描かれた仏様との結縁がなされました。
次に金堂中央に鎮座する大日如来坐像の前に進み、座るように指示されました。
仏像の前には屏風が置かれています。
屏風の前には燭台が置かれ、長かった暗闇のため、蝋燭の灯りがまぶしく焦点が合いません。薄ぼんやりと見えてきたのは蝋燭に照らされた夏山の景色でした。

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蝋燭による鑑賞状況 模型

初めて見る屏風でした。屏風は自分を取り囲むように置かれています。目隠しされた暗闇から日月山水の仮想世界に転生した心持になりました。
目の前の夏山は青々と生い茂り、世界は静止せず動いています。山の麓には荒々しく波が流れ、砂浜には強い風にあたり、ねじれた松の木が踊っています。
焦点が合って目を凝らすと山には緻密に描かれた一本一本の木々が見えてきました。視線を右上にずらすと春の山桜があります。どちらの山も蝋燭のゆらめきにより揺れ動き、膨張収縮を繰り返しているように見えます。

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空も静止せず大気が動いています。不定形な金箔が転がり流れていきます。

ふと見上げると夏山の上には《大日如来》のご尊顔を拝すことができました。それは《山越え阿弥陀》のようでした。

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屏風を見ていると進行役の僧侶から屏風の裏に回るように促されます。

左側の屏風に目が向きます。滝と瑞雲がありました。秋が描かれているようです。

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正座のまま、にじって進み出ます。秋景色の前に進み出ると滝が描かれています。奥山から水が流れ海へと注がれる様子は巡り巡って元に戻っていく水の循環を表すことを理解しました。
砂浜にはまた踊り狂ったような松林があります。松の形状も視線を誘導するように右奥へと進められます。

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遠くには冬山の景色があります。雪が降り積もり緑を覆い隠そうとしています。夜空には月が薄ぼんやり輝いています。
屏風に促されるように秋冬を通り抜けると阿闍梨が灌頂の儀式を授けるために待っていました。

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前に座るように指示されます。阿闍梨は独鈷杵を振り回しながら真言を唱えます。最後に首を垂れるようにいわれ、頭を差し出すと頭頂部に水が注がれました。灌頂です。

高揚した状態から頭が冷やされ一気に覚醒する体験になります。体を起こすと濡れた頭から水が滴り落ち、耳の裏を通り、首筋、背筋をつたいました。冷やされた部分のみが際立ちます。

阿闍梨に感謝を伝え、にじって進み、もう一度、春夏の景色に戻ります。見上げて大日如来の御尊顔を再度拝みました。次の僧に場を譲ります。読経は続き、儀式のすべてが終わりました。

以上が木喰結縁灌頂の儀式で《日月山水図屏風》を鑑賞体験した状況です。
もちろん予想の域はでませんが、これに近い体験をしたのではないかと思います。美術館に置かれた鑑賞体験とは大きく異なります。スピリチュアルイニシエーションのアトラクションです。

これが橋本治さんが予想した「とっても新しい“なにか”がある。」の”なにか“だと予想します。

《日月山水図屏風》は灌頂の儀式において
・日月による陰陽を体感すること
・四季が巡り繰り返すこと
・水と大気は循環すること
・四国遍路を追体験すること
・阿闍梨を遮蔽し、儀礼に劇的効果を促すこと
・大日如来の前に置き《山越阿弥陀図》を模すこと
以上6点の効果を狙い密教法具の役割をになっていたと考えます。

絵師は風除けと背障の調度品でしかなかった屏風に大きな可能性を感じ取り、新しい表現を模索していたと思います。一双(1ペア)の屏風は置き方に無限の可能性があります。今回のように重ねれば導線を作ることもできます。鑑賞者を包み込むように置けば仮想世界に引き込むことができます。



謎8  なぜ描かれたのか?(新説)

 特殊な使い方をする屏風はなぜ描かれたのでしょうか? 妄想謎解きになります。

屏風を所有している天野山金剛寺から始めます。
奈良時代に行基によって金剛寺の前身となる寺院が開かれました。行基は民衆へ仏教を布教することを禁止されていた当時、その禁を破って行基集団を形成し、畿内を中心に民衆や豪族に広く布教しました。

平安時代初期に空海が修行をした伝来があります。しかし、その後400年間は荒廃してしまいます。

平安時代後期に阿観上人によって再興され、真言密教寺院の体裁を整えます。この時期に末法思想が流行し大日如来坐像が建立されました。高野山は女人禁制ですが、金剛寺は女性も仏教に帰依できる“女人高野”になりました。 

鎌倉時代の終わりから南北朝時代は南朝方の拠点になります。南北朝が終わると、南朝への負担がなくなり、寺領から産出される米や木材、炭が商品作物として、寺の経済を潤し、子院が90以上を数えるほどに興隆しました。

ここまで金剛寺の由緒を見ると宗派は真言密教ですが教義にガチガチの寺院には思えません。民衆に仏教を布教したり、女人高野になったり、面倒な南北朝まで引き受けてます。時代に即した大阪の人情深い寺院に思えます。

 次に《日月山水図屏風》はやまと絵屏風なので土佐派の絵師が描いたと仮定します。時代は応仁の乱から戦国時代にかけて活動していたと設定します。

 室町時代後期に応仁の乱が勃発します。10年にわたる京都を舞台とした大義もない、勝者も敗者もよくわからない戦が続きました。京都は焼き尽くされ貴族は逃げ出し、民衆は飢餓に苦しみました。以後、戦国時代になります。応仁の乱は絵師たちの仕事を奪いました。雪舟の仕事が京都に少ないのは応仁の乱を避けて地方にいたためです。”やまと絵“を注文する公家は京都から逃げ出してしまいました。
土佐派は宮廷絵所預の役職でしたが戦で仕事がありません。公家が散り散りになった状態ですから仕事がきません、京都以外からの仕事を探さなければなりません。新しい顧客として寺院からの仕事を請け負ったとします。

面倒見の良い金剛寺が、応仁の乱によって仕事のなくなった土佐派を救うため、仕事を依頼した。これが私が考える制作の始まりです。

依頼を受けた土佐派の絵師はいつも描くやまと絵とは違う仏画へのチャレンジです。やまと絵の手法(図像の見立てや金銀の装飾技法)を全面に打ち出した新しい仏画を描く目標があったと思います。

仏画なら《平家納経》や《聖衆来迎図》《山越阿弥陀図》《早来迎》など

※垂迹画なら《那智滝図》《富士参詣曼荼羅》など日本独自の仏画・宗教画を参考にしていたはずです。

※垂迹画は、神社社頭の景観や神像を描いたものです。 神の姿を表すのは、本来は憚られるものであったようですが、仏教の影響を受けてから流行するようになりました。 垂迹画は、定期的に信徒が集まって祈りを捧げる講などの場で本尊として掛けられたものです。  京都国立博物館ウェブサイトから引用

今までにどのような作品があり、次に発展してどのような作品が生み出せるか?絵師や画家は考えます。何も無いところからいきなり天啓があり大芸術が生まれる!とよく期待されますが、そんな事はありません。

絵師が真面目に勉強してから新しい絵画は創造できます。その挑戦が結実したのが《日月山水図屏風》であったと考えます。



謎9 なぜ伝来は途絶えたのか?(新説)

こだわりの鑑賞法はなぜ途絶えたのでしょうか?

現世が乱世であれば、来世に“救い”を求める気持ちになります。この気持ちを救うのが浄土信仰になります。それは阿弥陀如来に救いを求めることになります。限りなくウェルカムに人々の心を受け止めます。

室町時代後期から戦国時代にかけて金剛寺は金堂の大日如来に浄土信仰の阿弥陀如来をあわせ持った役割を託したのではないでしょうか?人々は乱世で金剛寺に“救い”を求めていたと思われます。荒んだ現世で灌頂の儀式を授けてもらい、来世の浄土を約束してもらう役割を担っていた。

もちろんこれは真言密教の考え方にはなりません。本来は即身成仏です。真言密教は現世における肉体のまま、修行で悟りを開くことを目指します。来世に救いを求めるのは浄土信仰になります。時代に合わせて思想をミックスしていたのでは?と考えています。

金堂の三尊形式の仏像は正直に言えば、密教っぽく無いです。密教導入以前の古い仏教寺院を感じさせます。本来の密教における仏像配置は東寺に見られるような“仏像で曼荼羅“を作ります。それは大日如来を中心にした密教戦隊フォーメーションです。コテコテです。三尊形式は極めてオーソドックスな配置になり、他宗派の教義をミックスする事も可能かもしれません。

乱世の時代は救われたい気持ちが増しますが、安定の時代なら個人的に仏教へ帰依し、即身成仏を目指すことになります。

乱世の時代は金堂の《大日如来坐像》は阿弥陀如来の役割を併せ持ち、救いを求める人々の心の拠り所になります。安定の時代には本来の真言密教の大日如来(真理そのもの現れ)としてのみ存在します。

“こだわりの鑑賞法”(=儀礼のための密教法具)はなぜ伝来が途絶えてしまったのか?それは真言密教と浄土真宗は宗派が違うからです。

真言密教では大日如来になりますが
浄土真宗では阿弥陀如来になります。
宗派が違えば意味も変わります。

日本における仏教の展開には教義の同一化と厳密な区分けが何度も繰り返されています。

「密教では大日如来と阿弥陀如来は同体異名で、阿弥陀如来の極楽浄土と大日如来の密厳浄土は、名前は違うが同じ」  ※覚鑁(かくばん) ※平安時代後期の真言宗の僧。「密厳浄土」思想を唱え、「密教的浄土教」を大成した。Wikipediaから

と言い切っちゃうお坊さんもいました。あとで保守派から反発されます。時代により教義の解釈は揺れ動きます。

《日月山水図屏風》を使って《大日如来坐像》を《山越え阿弥陀》に見立てる鑑賞は密教の教義を原則的に捉える僧侶には許しがたい行為になります。

そのような保守的で教義に忠実な住職が続けば伝来は途絶えます。

そして、なんでも知ることができる現代だと忘れがちですが、本来なら“灌頂の儀式”は口外禁止です。



謎10  誰が描いたのか?(新説)

 誰が描いたのか、まったく手立てがないと思っていましたが、金剛寺がある河内長野市のウェブサイトに下記のように書かれていました。

江戸時代に書かれた「河内名所図会」には、金剛寺の屏風のことが書かれており「雪村筆一双、元信筆一双、土佐光信女筆一双」とあり、この内いずれかが日月山水図に相当するという説もあります。参考文献:河内長野市役所(1973)『河内長野市史 第十巻 別編二』河内長野市のウェブサイトから

 雪村にやまと絵の技法があるとは思えません、狩野元信は漢画や水墨画の名手ですから筆法が違います。土佐光信なら足利義政とのつながりもあるので室町時代の“いぶし銀”精神を継承しているかもしれません。しかし光信筆で確定している作品と比べると全く絵が違います。どれも確証がありません。

しかし、よく見ると気になる箇所があります。土佐光信“女”筆です。“女”の一文字があります。

どういう事でしょうか?

国会図書館所蔵の『河内名所図会6巻』を確認すると間違いなく“女”の文字があります。

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『河内名所図会6巻』秋里籬嶋著 国会図書館から

インターネット公開(保護期間満了)

しかも光信と女の間に“ノ”の文字も確認できます。土佐光信ではなく土佐光信ノ女(トサミツノブのオンナ)でしょうか。さらに調べるとこの場合は“オンナ”ではなく“ムスメ”と読むのが正しいことが分かりました。昭和の文献でも“娘”ではなく“女”の漢字を当て“むすめ”と読ませます。

土佐光信の娘は“千代”になります。

《日月山水図屏風》は“土佐千代”が描いたかもしれません。

『日本美術史年表 増訂版』源豊宗著 座右宝刊行会 参照     
『土佐家資料』京都市立芸術大学蔵 筆者未見

日本美術のグランドマザー

父 土佐光信が宮廷絵所預についた文明元年(1469)は応仁の乱のさ中でした。

光信の子供は二人います。光茂と千代です。跡を継いだのが土佐光茂になります。60歳を越えてからの跡継ぎでした。

千代は光信の年齢を考えると第一子だと思います。第二子が光茂と考えるのが妥当です。光茂の生まれる前に年齢を重ねた光信が千代に絵の手ほどきをしていてもおかしくはありません。名門土佐家の技術を血のつながる親族に伝承させる必要があります。千代は絵を描いていました。

《源氏物語図屏風》伝土佐千代筆 出光美術館蔵

上記の屏風絵だけで《日月山水図屛風》の作者だとは断定はできませんが、土佐千代が絵を描いていたことは確かです。


この当時、名門土佐家は宮廷絵所預の役職です。勃興し始めた狩野家は狩野正信により幕府絵所預の役職まで上り詰めました。

狩野正信の子、狩野元信はさらに狩野派を盤石にするため、大量生産できるシステマティックなマニュアルを作りました。これにより武士好みの画風を大量生産しました。

狩野派は漢画・水墨画や仏画を得意とした集団です。元信はさらに“やまと絵”も描くようになります。和漢の融合を果たした屏風が《四季花鳥図屏風》になります。

重文《四季花鳥図屏風》狩野元信筆 室町時代・16世紀 白鶴美術館蔵

この元信に嫁いだ女性こそ“千代”になります。名門土佐家から勃興した狩野家との縁組でした。これにより狩野家はやまと絵を描く土佐家を吸収し、やまと絵も描く狩野派となりました。

この縁組は狩野家の家格を上げるため、やまと絵技術の吸収の為ではないかと考えられていました。千代の人格や能力は取り上げられることはありませんでした。

当時のジェンダーから考えれば女性が絵を描いていたことだけでも驚きですが、それだけでなく《日月山水図屛風》が千代によって描かれたならば、

土佐千代は天才です。

元信の技術は素晴らしいです。端正な画風です。千代の画風はぶっ飛んでます。破格の画風です。溢れ出るアイデアを持っています。私は研究者ではないので個人的感想になりますが、元信は千代の天才に惚れ込んでいたと思います。和漢の融合を果たした《四季花鳥図屏風》は元信が74歳の署名があります。元信が生涯をかけて求めたのは狩野派と土佐派の画風を融合させる試みでした。

元信・千代夫婦によって日本美術はバージョンアップしました。この二人から生まれたのが狩野松栄です。彼は時代をリードするような画風は生み出しませんでしたが、その長男が桃山時代に大活躍する天才・狩野永徳です。永徳には端正と破格が入り混じっています。

狩野永徳を二つの要素で分析します。

お祖父ちゃんリスペクトとお祖母ちゃんリスペクトです。

永徳は父 松栄からではなく祖父 狩野元信から絵の手ほどきを受けています。そのためお祖父ちゃんリスペクトは先達の研究で分析済みです。私の着眼点はお祖母ちゃんリスペクトになります。そこが永徳を天才と認識する部分になります。

永徳は安土桃山時代に活躍したため織田信長・豊臣秀吉という最高権力者から発注を受けました。最高の栄誉ですが、そのために天守閣が焼かれ、作品の大部分も焼かれてしまいました。少ない作品が残るだけです。それでも天才の片鱗がうかがえます。

その一つが《花鳥図襖》になります。ここに千代へのリスペクトが確認できました。それは描かれた巨樹の“根張り”です。根元の部分が《日月山水図屛風》に描かれた踊る松の木と同じ根張りで描かれています。樹木が動き出しそうな根張りのアイデアを永徳は各所で使っています。永徳画を表す“カイカイキキ”は千代のアイデアが元にあります。

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国宝《花鳥図襖》狩野永徳筆 室町時代 聚光院蔵 (筆者イラスト)

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《花鳥図襖》イラスト 部分

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《日月山水図屏風》左隻イラスト 部分

その他《檜図屏風》にもお祖母ちゃんリスペクトが確認できます。こちらも擬人化されたような檜の樹形が描かれています。

国宝《檜図屏風》狩野永徳筆 室町時代・16世紀 東京国立博物館蔵

これらの威圧するような、意志を感じる枝ぶりの巨樹を大画面に描くことは永徳から始まります。

『芸術新潮2007.11.ミスター桃山天下の狩野永徳!』新潮社 桃山巨木伝 解説 美術史家 山本英男 参照

《楓図壁貼付》長谷川等伯、 

《紅白梅図襖》狩野山楽、 

《老梅図襖》狩野山楽、 

《松に孔雀図襖・壁貼》狩野探幽 

など狩野派の門人だけでなくライバル長谷川等伯にも影響を与えてます。


その他、

《源氏物語図屏風》伝土佐千代筆 出光美術館蔵

《源氏物語図屏風》狩野永徳筆 宮内庁三の丸尚蔵館蔵

の類似性も気になります。

永徳は端正だけではなく破格の表現で桃山時代を駆け抜けました。その破格は千代へのリスペクトがあるかもしれません。

永徳は48歳で亡くなります。過労だといわれています。永徳の子は狩野光信になります。千代の父 土佐光信と同じ名“光信”になります。そんなところにも土佐派や祖母へのリスペクトを感じます。

千代の影響力は狩野派だけではありません。白洲正子さんの直感「宗達には大きな影響を与えたに違いない。」は現在、美術界の共通認識になります。

『芸術新潮2018.5 永久保存版これだけはみておきたい最強の日本絵画100』新潮社 65ページ 参照

俵屋宗達の《松島図屏風》には破格の表現があります。

宗達の影響から尾形光琳の画風が生まれ、琳派が生まれたのも通説になっています。

千代は狩野派・琳派に影響を与えています。土佐千代は日本美術のグランドマザーになります。最後にまとめます。

《日月山水図屏風》は応仁の乱から始まる戦国時代に土佐派の絵師“千代”によって描かれ、やまと絵の可能性、そして屏風の可能性を押し広げた。灌頂の儀式では《大日如来坐像》と組み合わさり、人々の”救い“を受け止めていた。

これが私の謎解きになります。





あとがき

現代美術では、近代以降に絵画表現はやり尽くされてしまい“絵画”はデッドエンドを迎え、死んでしまった事になっています。終わりを認めてから描いた絵画でなければ現代的だと認められない状況です。

絵画は終わってしまったのでしょうか?

室町時代を生きた千代さんのアイデアは現在を生きる私にも刺激的です。円筒絵画を描く私には《日月山水図屏風》から大きな勇気を貰いました。

 今回調べた鑑賞に辿り着くためには、奈良時代に行基が寺を開き、平安時代に末法思想の流行により《大日如来坐像》が建立され、脇侍の《不動明王》と《降三世明王》が鎌倉時代に建立されました。《日月山水図屏風》は室町時代に制作されました。およそ800年にわたる仏僧・仏師・絵師が産み出した組み合わせが、この鑑賞になります。

この鑑賞を試したいなら、金剛寺金堂に《日月山水図屏風》を持っていけば、すぐ可能となります。

しかも、現在の金剛寺は平成の大修理を終えて創建当初の彩りに戻っています。《大日如来坐像》も洗浄されて元の黄金色に輝いています。《日月山水図屏風》は小林泰三さんのデジタル復元データから高精細印刷により凹凸まで再現された復元屏風があります。

 すべてを組み合わせて1300年の時を超えた屏風鑑賞を体験したいものです。

もちろん、この読み解きはひとりよがりかもしれません。わたしには一次資料の漢文を読み解く能力がありませんので、ここまでが限界でした。研究者の方々に可能性を感じていただき、土佐千代に関する調査していただけることを願っています。

 日本美術は古いものだけを指している言葉でなく現在の取り組みを含めて活き活きと存在します。この文章は多くがデジタル復元師小林泰三さんの鑑賞方法を参考にさせてもらいました。復元屏風を使って、蝋燭で鑑賞することは驚きに満ちています。ぜひ皆さんに体感してもらいたいです。

 日本美術の人気は続いています。美術館で見るだけでなく、これからはもっとねちっこく!日本美術を味わい尽くしましょう。



令和4年 1月16日   

画家 白井忠俊




補足

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応仁の乱から始まる年表 人物生没年

夫・狩野元信(1476〜1559)、三男・狩野松栄(1519〜1592)の生没年から土佐千代の生年を割り出します。

狩野松栄を土佐千代が35歳で出産したとすると上記の年表になります。

《日月山水図屏風》を婚前に描いたとすると、1510年〜1515年に制作されたと予想します。

1490年に銀閣寺が創建されます。足利義政が生み出した“東山文化”を狩野元信・土佐千代は子供時代に京都で体感しています。応仁の乱からの戦後復興と最新の美意識である東山文化が2人の精神形成に関わっていると考えられます。



参考資料

[国宝へようこそ] 4K 謎の名画 日月山水図屏風 天野山金剛寺


協力 

小林美術科学  


画像提供 

天野山金剛寺 四国開拓日誌 幸野つみ 阿波おどり会館 


参考文献
『かくれ里 愛蔵版』 白洲正子著 新潮社
『ひらがな日本美術史2』 橋本治著  新潮社
『日本の国宝、最初はこんな色だった』 小林泰三著 光文社新書
『誤解だらけの日本美術』 小林泰三著 光文社新書
『国宝よみがえる色彩デジタル復元でここまで見えた!』小林泰三著 双葉社
『空海の風景(上・下)』 司馬遼太郎著 中公文庫
『銀閣の人』 門井慶喜著 角川書店
『足利義政と銀閣寺』 ドナルド・キーン著 角地幸男訳 中公文庫    『ワイドで楽しむ奇想の屛風絵』 安村敏信著 東京美術
『日本の美術247 土佐光信と土佐派の系譜』 宮島新一著 至文堂     『日本の美術485   初期狩野派ー正信・元信』 山本英男著 至文堂
『NHK美の壺 屏風』 NHK出版
『表装を楽しむ 掛軸、屏風をつくる』 麻殖生素子著 NHK出版        『日本美術史年表』 源豊宗著 座右宝刊行会
『芸術新潮5・1984 特集 人間弘法大師を説く10章』 新潮社       『芸術新潮11・2007特集 ミスター桃山 天下の狩野永徳!』 新潮社
『芸術新潮8・2011 大特集 空海 花ひらく密教宇宙』 新潮社
『芸術新潮5・2018 特集これだけは見ておきたい最強の日本絵画100』 新潮社
『芸術新潮5・2019 特集オールアバウト東寺』 新潮社
『別冊太陽 やまと絵 日本絵画の原点』 201   平凡社          『別冊太陽 狩野派決定版』 131 平凡社                『続日本の絵巻15 北野天神縁起』 中央公論社
『原色日本の意匠⒓風月山水』 京都書院
『原色日本の意匠8.人』 京都書院
『よくわかる茶道の歴史』 谷端昭夫著 淡交社
『図解千利休99の謎』 日本歴史楽会著 宝島社

【「国華」創刊100年記念特別展 室町時代の屏風絵】 東京国立博物館1989
【特別展やまと絵 雅の系譜】 東京国立博物館1993
【国宝伴大納言絵巻】 出光美術館2006
【東山御物の美 足利将軍家の至宝】 三井記念美術館2014
【室町時代のやまと絵 絵師と作品】 東京国立博物館2017

その他たくさんの先行研究と画像に助けられて執筆することができました。末筆となりますが皆様に感謝を申し上げます。
















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