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小宮果穂が嫌いだった

倫理観という言葉が嫌いだった。

人の物を盗んではいけない。人に暴力を振るってはいけない。子供を大切にしなければならない。

そういった、人の社会を成立させるために生まれたものが本当に、心の底から嫌いだった。

小宮果穂という人間を見ていると、「こんなに正しい子供は守られるべきだ」というような言葉が場外から聞こえてくる。

本当にうんざりだった。

社会的に正しいから、彼女に正しい報いがあるべきだと言われている気がして、見る度に吐き気がした。

そこに小宮果穂という人間による落ち度など、何もないはずなのに。


小宮果穂さんと出会うまで

自分の目の前に小宮果穂さんがおり、そして花の入った花瓶があったとして、あなたならどうするだろうか。

小学生の僕は、彼女の前で無邪気に花瓶を割ってみせただろう。

中学生の僕は、悪意を持って花瓶の水を彼女の頭にかけただろう。

高校生の僕は、悔しさから手に持った花瓶で彼女を殴りつけただろう。


小学生の僕は、彼女のことが好きだったのだと思う。

中学生の僕は、彼女のことが嫌いだったのだと思う。

高校生の僕は、彼女のことが妬ましくてたまらなかったのだと思う。

小学生の時、僕は小宮果穂さんと同じクラスではなかった。

でも、小宮果穂さんのように元気いっぱいの女の子はいたし、そういう女の子ともそれなりに仲良くできていたように感じる。

小学生の時の僕は気が弱いこと以外はまっすぐで、ある時までは人の優しさを信じていた人間だった。

小宮果穂さんと同じように、ヒーローになりたいと思っていた。

学校でいじめが起きていることがわかるまでは、そう思っていた。

中学生の僕は、大人が嫌いだった。

通っていた中学校は教師も生徒も貧しく、そして荒れた人間ばかりだった。

生徒が問題を起こす度に体育館に全員が集められ、教師から罵声を浴びせられる集会が続き、誰一人として学校を好きな生徒はいなかった。

そうして荒れた環境で過ごす中で、問題児たちの背景として明確に虐待というものを意識するようになった。

僕は両親が忙しかったことや長男として下の弟妹の面倒を見ていたおかげで半分ネグレクト状態だったが、それでも周囲と比べれば遥かにマシだった。

親からの虐待を受けて外部の近づいてはいけない人間に助けを求め、そのまま学校に来なくなった生徒がいた。

親からの虐待を受けながらも学校で友人を作って楽しそうにしていた生徒は、ある日教師から「そんなんだからお前はバカのまんまなんだよ」と人格を否定され、そのままドロップアウトした。

そして、僕が小さい頃から関わりがあった従兄弟は親の虐待から逃れるために僕の家に入り込んで盗みを働き、その結果少年院へと送られた。

周囲の誰もが嫌な思い、辛い思いをしていた。

だが、子供みんなが大変だったからこそお互いに手を取り合うこともできていた。

僕にとっての社会規範は、この時に生まれたのだと思う。

高校生の僕は、初めて憧れられる大人と出会った。

その人は「生きていても意味はないじゃないか」と考えていた僕に対して「生きたいと思ってみてもいい」という旨の言葉をかけてみせた人だった。

僕は中学生だった時よりも少しだけ、前を向いて生きられるようになった。

そして僕は相変わらずヒーローというものが好きだった。

だから、これまで目の前で苦しい思いをしてきた人々がどうすれば救われるのだろう、どうすれば僕の従兄弟は少年院へ行かずに済んだのだろう、と考えた。


だが、考えても答えは出なかった。

そしてその疑問が「ヒーローは人を救えるのか」というものに変わっていくまでに、さほど時間はかからなかった。

ヒーローは、人を救えるのだろうか。

矛盾

僕の中に倫理観として芽生えていった考え方は大別して二つあった。

子供を不幸にしてはいけない」「困っている人を助けなければならない

別段、普通の意識だと思う。

義務教育の間に幾度となく不幸になっていった子供たちを見てきたのだからそうあってほしいと思うことは普通だと思うし、僕は(両親を尊敬していない代わりに)弟や妹には幸せになってほしいと思う。


そんな風に書くと聞こえはいいかもしれないが、そう思っていることとは別に性格までは良くならなかった。

性格の根幹部分では他人の幸運を喜べもしないが、一方で子供を守らなければという規範だけは強くなった、矛盾の塊のような大人になった。

そんな僕は、4年ほど前に『アイドルマスターシャイニーカラーズ』を開始し、小宮果穂さんと偶然出会ってしまった。

彼女は一言で表すとしたら、類稀なる善性による明朗快活さを備えた女の子だった。

他人の善性を心から信じられて、特撮ヒーローが好きで、元気で活発な女の子。

ところで僕は元来、他人を表す際に用いられる「いい子」という表現は嫌いだ。

人間をその個人が持つ善性の面だけで決めつけて語るべきではないし、その決めつけには「子供の持つ人格はそうした側面程度でしかない」というような発育発達への短慮が表れているように僕は感じる。

だから、僕は小宮果穂さんのことを「いい子」と表現したくはない。

ただ、彼女のことを「いい子」だと表現してしまう人を否定したいわけでもない。

なぜかと言えば、小宮果穂という人間のアイデンティティはその善性に深く根差しているからだ。

例えば、このやり取りだけでも彼女がいかに聡く善なる心を持っているかが伺える。

大の大人に「宿題をやっていていいよ」と言われて「ありがとうございます!」と返せる小学生が、いったいどれほどいるのだろうか。

学校の宿題なんてそもそもやりたくもないものを、それもただ作業する許しを得ただけで、大人に対して「ありがとうございます」などという言葉を発せるだろうか。

少なくとも僕には無理だ。小学生の僕には無理とかいう話ではなく、今の大人の僕が同じ立場でも無理だ。


だから、僕は小宮果穂さんを見ていてこう思う。

「彼女は自分の善意を相手に支払うのが当たり前だと思っており、そう教えられ、その通りに成功体験を積み重ねて生きてきたのだろう」と。

それはこの世で最も貴い行いであり、何があろうとどんな場所でも善いとされるものだ

僕は彼女のそういうところが、何よりも大嫌いだった。

正しい事を正しいものとして教えられる場所に生まれて、正しい行いを積み重ねることで成長してきた彼女が、周囲の人間もそうであろうと思って笑顔でいることに、僕は耐えられなかった。

無論、これは妬み嫉み以外の何でもない。

僕は善い事をしたら善いとされる世界で生きたかったし、他人に善意で接したら善意が返ってくる世界で生きたかった。

それは紛れもない僕の純粋な、そして今となっては醜い願いだ。

ただ、そういった思いを僕が小宮果穂さんにぶつけるということは、他ならぬ僕自身の価値観において大きく矛盾する行いだった。

なぜなら、僕にとって「子供を不幸にしてはいけない」という価値観は揺るぎなく大切な倫理観であるからだ。

小宮果穂さんと出会った僕は、その時点で疑いようもなく、矛盾していたのだ。

フルスロットルエイジ!

僕は小宮果穂さんに対して、どうしようもなく後ろ暗い気持ちを抱えている。

本当は理不尽な目に遭ってほしい。本当は幸せになんかなってほしくない。本当は彼女の人生が苦しいものであってほしい。

本当は、生まれてきたことを後悔してほしい。

そんな気持ちに呼応するかのように、それは現れた。

あんなにも下卑た笑みを浮かべたのは、いつぶりだっただろうか。

この【フルスロットルエイジ!】コミュ「3、2、1で君を想い」では、小宮果穂さんに容赦なく理不尽を振りかざす大人が現れる。

ハッキリ言おう。僕はこれが滅茶苦茶に、嬉しかった。

小宮果穂さんに幸せになってほしくないと思っている方の僕にとって、この上ない理不尽だった。

けれど同時に、傷付いている小宮果穂さんに対して悲しくもあった。

欺瞞だと思われるのも致し方ないが、卑しい笑みを浮かべるのと同時に僕は小宮果穂さんを一人の子供として不幸になどなってほしくはないとも思っている。

だから、本当に大事なのはこの後だった。

楽屋に戻ったプロデューサー(以下シャニP)はすぐさま彼女の異変に気付き、楽屋に置いてあったドーナツの話を広げ始める。

小宮果穂さんはその気遣いに気付きながら、だんだんといつもの笑みを取り戻していく。社会への一抹の不安を隠して。

シャニPは小宮果穂さんの味方だった。

この時、僕の中で一つ、何か重くのしかかっていた物がフッと消えたような気がした。

小宮果穂さんは、確かに正しい事を正しいものとして教えられる場所に生まれて、正しい行いを積み重ねることで成長してきた人間かもしれない。

けれど、この時唯一彼女を守ってくれたシャニPとの関係は明確に、これまでの小宮果穂さんという個が掴んだ善意だった。

シャニマスの利点は、ここにあったのだ。

僕という邪悪な人間と、アイドルを守るべきプロデューサー像が切り分けられ、独立した個であるシャニPがアイドルを守る。

僕はもう、小宮果穂さんと出会わなくていいのだ。

小宮果穂さんを嫌いな自分を、アイドルに不幸になってほしいと願う自分を矛盾しない落としどころはここしかなかったのだと思うほどに、この時の僕は涙を流していた。

この日、僕は初めて小宮果穂さんに対して心から「どうか幸せになってほしい」と思えた気がした。

小宮果穂さんとヒーローの間

時に、それまで別々の人生を歩んでいた人と他人でなくなることは、恐ろしいことだと思う。

例えば僕が人間として持ち得る倫理観とは真逆の願いを抱いていたり、持ち合わせた価値観が絶対に許し合えないものであったりした時、当人同士において諍いが起こるかもしれない。少なくとも、僕はそれ自体を幸福な出来事だとは思わない。

ヒーローとは、そうした人と人の間に切り込んでいくことを要求される存在だと思う。

ヒーローに被虐待児を救えるか?ヒーローは既に許されざる罪を犯した人間を救えるか?

多くの議論を重ねてなお、僕の知りたい結論は未だ出ないままだ。

小宮果穂さんも、いずれはそんなことを考えるようになるのだろうか。

尤も、今やシャニPと小宮果穂さんとの間にあるものを覗き込むだけになった僕がそんなことを考えても意味のないことではあるのだが。


今の僕に言えることがあるとすれば、それは小宮果穂さんと他人になれて嬉しかったということだけだ。

そして、僕はこれからも矛盾しながら生きて、苦しみながら落としどころを探していくのだと思う。

小宮果穂さんの人生を背負い込むシャニP(や、彼女の家族)はきっとこれから沢山苦しむだろう。

どうか、小宮果穂さんには幸せになってほしい。

そしてどうか、彼女の周りに最大限の苦しみがあらんことを。

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