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澱の川 (2) (全3話)

 その晩は地元のビジネスホテルに宿をとった。シャワーを浴びてベッドに転がり、昔のことを思い浮かべる。妹を思いだせるヒントはないか……記憶の欠片を探した。
 そういえば家族と町を出て気づいたことがある。
 母はいつも本に挟んだ写真を眺めていた。僕が近づくと隠してしまう。どうしても気になった僕は、母が不在の時に盗み見たことがあった。帽子を被る小さな女の子の写真、後ろに船も映っていた気もする。あれが妹だったのではないか。
 それから――僕は誰かの手を引いて神社に遊びに行った。小さな柔らかい手。あれは妹の手ではなかったか。
 どうして忘れたのか。悔やまれたが今ではどうしようもない。申し訳ない気持ちで胸が一杯になった。
(ねぇ、妹さんのお墓はどうなってるの? こっちにあるよね?)
 倉田さんの言葉を思いだした。確かにこの地で亡くなったなら墓が有るかもしれない。僕は先祖の墓が何処にあるかを知らない。妹の葬儀すら記憶にないのだ。
 両親は引っ越してから妹のことを口に出すことはなかった。余程悲しかったのだろうか。
 この地を離れて両親が立て続けに亡くなり、僕は途方に暮れた。それでも何とか役所を頼り、遺骨は集団墓地に納めてもらった。
 妹の墓がこの町にあり、両親と離れ離れなら、放っておく訳にもいかない。妹の墓を探そう。僕はそう決めて瞼を閉じた。
                 *
 翌朝、菩提寺を探すためにホテルを出た。
 鈍色の空が重く圧し掛かり、今にも雨粒が堕ちてきそうだ。七月に墓参りをする寺は幾つあるだろう。見つからなければ親戚に頼るほかないが、先方も嫌がるだろうし、できれば避けたい。
 檀家名簿があれば一番の近道だが、個人情報云々でそれも難しいのではないか。
 僕の妹の名は確か、マユミ、だったと倉田さんが話してくれた。上手くいけば手がかりが掴めるかもしれないと考え、まずは神社に寄ることにした。
 倉田さんはすぐに妹さんと連絡をとってくれた。しかし残念ながら手がかりはないようだった。
 同級生か――僕はあることを思いついた。
「もしかして妹さんの同級生に、寺院の子が居たりしないかな。もし判れば教えて欲しい」
 倉田さんは幾度も頷いて、再び妹さんに連絡してくれた。田舎では縁の薄い者に情報を開示してくれないだろう。でも同級生という繋がりがあれば話は別だ。倉田さんは走り書きのメモを僕にくれた。
――千光寺、円通寺――
 僕は彼女にお礼を言って神社を後にした。
 まずは一軒目の千光寺を尋ねてみることに決めた。川からほど近い千光寺は、僕が住んでいた家からも近い場所だった。墓地はそこまで広くない。
「ごめんください」
 寺務所で何度か呼んでみたが、返事はなかった。墓地に回ってみても気配がない。諦めてもう一つの寺を尋ねることにした。
 町で観光用にレンタサイクルが用意されていると知り、借りることにした。自転車はどれくらいぶりだろう。
 昔と雰囲気が変わらない懐かしい町。微風を感じて進むと、趣きある建屋に目が留まる。古い家だが横に長く、縦格子がたくさんあって京町家のような造りだ。この辺りの家は一般的に間口が狭く、奥に長い。間口が横に広いということは、この家は名家だったのかもしれない。
「珍しいかい。ここは昔、呉服屋をしてたんや」
 老齢の男性が声を掛けてきた。ウロウロする僕を見かねたようだった。
「なるほど、呉服屋。道理で」
 男性は道向かいにある間口の狭い店の主人だった。表のガラス戸に「表具や」と書かれている。今でも商売をしているのだろうか。
「あんた、冷たい茶でも飲んでいかんか」
「いえ、僕は……」
 細身で腰の曲がった主人は返事を待たずに奥に向かい、コップに麦茶を汲んできた。
「ありがとうございます。頂戴します」
 無下にもできず頂くことにした。麦茶は生温かったが、香ばしくて喉をスルリと通りすぎた。
「何処から来たんや」
「東京です。ここへは里帰りというか、昔、この町に住んでたことがあって」
 主人はこちらを真っ直ぐに見た。知り合いではないかと勘ぐるような目だ。僕は自分の軽口を悔いた。
「御馳走さまでした。これで失礼します」
 コップを手渡して素早く自転車にまたがった。主人は僕の背中に声を掛けた。
「あんた、なんて名や」
「北野……浩一といいます」
 四十年も経つとはいえ、年配者ならば昔の噂も覚えているだろう。余計な詮索はされたくない。僕は振りかえらずにペダルを漕ぎだした。
 温かい湿気が額辺りに絡みつく。じきに降りだすかもしれない。爪先に力を込めると二軒目の寺が見えてきた。
 通りの道幅は狭いが、寺の間口は広い。本堂前の片隅で自転車を降りた。
 すぐ傍で女性が竹箒を持ったままこちらを窺っている。僕より少し若いくらいか。
「ちょっとお伺いしたいのですが」
 僕が声掛けすると、女性は「何でしょうか」と首を傾げた。
「実は妹の墓を探しておりまして」
「妹さんの……ご苦労さまです」
 女性は深々と頭を下げた。僕もつられてお辞儀した。
「お探ししますので、名字を教えていただけますか」
「北野です。もしかすると、母の旧姓になっている可能性もあります。旧姓は青柳です」
 住職の妻だという女性は、心得たように本堂脇の玄関口に消えた。
 本堂が開け放たれていた。中央に経の掛け軸が下がり、前には木彫りの仏像も見える。両側の立派な供花は奥さんが活けたのだろうか。僕は手を合わせて妹の墓が見つかるようにお願いした。
 それから左手にある墓地の入り口も確認した。墓地は広いようで、もしやと期待も膨らむ。
「北野さん、お待たせしました」
 奥さんが小走りで戻ってきた。
「墓は三つありました。青柳さんはひとつです」
「納めてある遺骨は生前の名前で判ったりはしませんか?」
 奥さんはすこし考えてから、
「法名なら、お調べできるのですが」
 法名か……この場で法名がわかる筈もない。
「急に思い立ったもので、法名まではわからないんです。北野と青柳の墓を教えてもらえますか。墓石に名が刻まれている可能性もあるかと」
 奥さんに場所を教えてもらったが、墓石にマユミという名は刻まれていなかった。残念だが仕方ない。
 雨がポツポツと落ちはじめる。少しの雨ならこのまま寺を出るつもりだったが、雨足が速くなってきた。本堂の軒下を借りて小雨になるのを待つことにした。
 白いセダンがゆっくりと敷地に入ってくる。袈裟姿の男性がウインドウを下げて顔を出した。
「どうなされました。雨宿りですか」
「お邪魔しています。身内の墓を探しにきたのですが、これから戻るところです」
「そこでは濡れます。よかったら中へどうぞ」
 目が細く温和そうなこの男性が、倉田さんの妹の友人だろうか。雨は当分止みそうにないのでご厚意に甘えることにした。
 廊下奥の応接間に通される。竹の敷き物が冷やりとして気持ちよく、苔むす庭が見た目にも涼しげだ。作務衣に着替えた住職が僕の前に座り、奥さんがおしぼりと冷茶を運んできた。
「妻から事情は聞きました。昔の話であまり覚えていませんが、亡くなった母が葬儀に参列したかと思います」
「そうでしたか。どちらの寺院かご存知ないですか」
「申し訳ない。そこまでは……」
 僕は少しだけ落胆したが、雨が上がるのを待って戻ることにした。奥さんが見送りに出てくれた。
「あの、少しよろしいですか」
 ペダルに脚を掛けた時、奥さんが僕を呼び止めた。何の用だろう。僕は黙って言葉を待った。
「これは勝手な思いなのですが……実は私も二人目の子を病気で亡くしました。ですので、お母様のお気持ちはわかる気がいたします」
「母の気持ち?」
 すこし唐突な感じがした。母の気持ちがどうだというのか。
「妹さんのことはお母様が一番ショックをお受けになったと思うのです。でも息子さんに心配させないよう、気丈に振る舞われたことでしょう」
「――そうですね」
 奥さんの言う通りだと思った。
 中学の時、夜中に母の嗚咽を聞いたことがあった。当時は父と喧嘩したのかと思っていたが、妹を思い出したのかもしれない。
「それと……北野さんが妹さんのことをよく覚えていないと仰ったのは、きっと理由があるんです」
「どういうことです?」
「人は本当に哀しいことがあると、自衛本能が働いて記憶を消そうとするそうです」
 自分で自分の記憶を消す? 僕は愕然とした。
「北野さんは妹さん思いの、優しいお兄さまだったのでしょう。小さい頃もよく妹さんの面倒を見ていたのではないですか。そんな時期に妹さんが亡くなったら、自衛したとしても不思議はないです」
 深い哀しみやストレスが原因で記憶が抜け落ちたというのか。にわかには信じられない話だが、ひとつひとつ現実に当てはめると、そうかもしれないと思えてきた。

〈続く〉

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