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澱の川 (3) (最終回)

 ようやく雨も上がったので、来た道を戻ることにした。前方にさっきの表具店が見える。再び主人に呼び止められるかと警戒しながら通り過ぎた。
 僕はふと足を止めた。視線の端に「青柳」という名が見えたのだ。
 自転車を降りて表具店の表札を確かめた。やはり母の旧姓と同じだ。もしや手がかりがあるのではないか。
 ついさっきまで自分は余所者で、人から後ろ指を刺されているのではと腰が引けていた。
 だが、抜け落ちた記憶を取り戻したい。そう思えるようになった。
 僕は店の前から奥を覗き込んだ。主人の姿はなかったが、思いきって呼び鈴を押してみた。
「あれ、あんたはさっきの」
 奥から出てきた主人は目を大きく見開いた。
「こちらは青柳さんと仰るのですね。お尋ねしたいことがありまして」
 店の中には山水画や禅画の掛け軸がところ狭しと掛けられていた。めずらしい仕事道具に目を奪われる。
「軸が珍しいのかい」
 主人に小さな椅子を勧められ、慌てて腰を下ろす。上がり框に腰を下ろした主人は、ふぅーと呼吸してから僕を見た。
「わしは、あんたの母親、道子の従兄妹にあたる」
 母の従兄妹――やはり親戚だったか。固唾をのんで次の言葉を待つ。
「あんたの父親が商売で借金をつくってな。それと大酒飲みやった。あんたの母親は苦労したんや。可哀想やったが金のことでな。何もしてやれんかった」
 黙って耳を傾けた。身内の失態を聴くのは恥ずかしいものだが、昔のことを知る人も居ない。
「堪忍な。わしの知っとることなら、何でも教えたる」
 主人はそう言って頭を垂れた。僕は躊躇した。知るのが怖い。それでも二度と機会は訪れないと自分を強く奮い立たせた。
「実は、亡くなった妹のことを訊きたいのです。遺骨が納められた墓をご存じないですか」
 主人は目を瞠ったが、腕組みをしたままで上を向く。
「あんたの妹か。道子の娘……」
 記憶を辿っているのだろう。僕は膝に置いた手をぎゅっと握りしめた。
「昔のことだ。はっきりと覚えておらんが、あんたの妹は一度だけ店に来た。道子に手を引かれてな。実家で貰い受けた軸の表具を頼みにきた」
 躰の芯がジンと痺れ、動悸が激しくなった。顔が紅潮するのが自分でも分かる。
「その時の妹は、どんなでしたか」
「おかっぱ頭の可愛い子じゃった。目もまん丸で、母親によぉ似ておったな」
 雨粒が音を立てて硝子戸を打ちつけ始めた。地面に白い水煙が上がり、外に停めた自転車のサドルに水しぶきが勢いよく跳ねる。
 そのとき僕は気配を感じていた。妹がすぐそこに居るような気がした。
 すべてを掻き消すほどの雨音の中、母娘二人の姿が映像のように蘇った。小さな妹はどことなく嬉しげで、しっかりと母の手を握りしめている。丸くつぶらな瞳、はにかむように僕を見つめた。
 マユミ、ああマユミだ。僕の妹――マユミと母の姿を、表情を、僕はたしかに受けとめた。胸の奥から温かいものがこみ上げ、僕を包みこむ。そして何かが躰中を駆け巡ってゆく。無意識に立ち上がった僕は、右の手をマユミに差し伸べた。マユミは静かに微笑む。
 それはほんの一瞬のことだった。
                 *
 雨は急に弱まり、目の前に靄がかかったように白くなった。
「通り雨か」
 主人の声でハッとした。今のは何だ。夢でも見ていたのだろうか。
「あの子が急な病いで亡くなって、墓が間に合わんでな。ひとまず本家の墓に入れたんじゃった」
 僕は主人に訊いた。
「どこにありますか、本家の墓は――」
 主人は僕の目を鋭く、怪訝そうに見つめた。
「今さらどうするんじゃ」
「両親と離したままでは可哀想なので、墓を一緒にしたいのです。無理ならせめて墓参りをしてやりたい」
「そうか。あんたの両親も、遠い地で亡くなったんだな」
 主人は黙とうするように目を瞑った。それからひとつ大きく息を吐く。
「よし、教えてやる。じゃがな、実家も跡継ぎが居らんで、墓守りすらできんようになっておる」
「そうでしたか、跡継ぎが……」
「今はわし一人で管理しておる。見ての通り、わしにも限界があるからな」
 僕の脳裏に、墓仕舞い、という言葉が浮かんだ。この問題はますます深刻さを増すんだろう。
 妹の墓は千光寺にあるという。せめて僕が生きている間は供養してやりたい。今後の相談は必要となるが、ひとまず墓参りに向かうことにした。
 水溜まりの反射光があたり、表の硝子戸がきらきらと光る。雨はすっかり上がった。僕は主人に礼を言って店を後にした。

 戻る途中で花屋に寄り、一束だけの供花を買う。母が好きだった紫陽花を入れてもらった。妹も喜んでくれるだろう。
 妹は許してくれるだろうか。いや、僕が自身を許せるのか。この町での過去は負い目となり、僕をずっと拗らせてきた。殻に閉じ籠ることで自分を守ってきたのかもしれない。しかし、ここで出逢った人たちは僕を懐かしみ、温かく迎え入れてくれた。
 このままでいい。大丈夫だ。これまで頑張ったことを糧として、留まっていた心の澱を流せるだろう。

 レンタサイクルを戻して川沿いを歩く。水の流れは抗うことなく、静かに海へと向かっていく。
 向こうに観光客らしい家族が見えた。手を繋ぐ両親と男の子。目が合った男の子はこちらに向かって無邪気に手を振った。僕も手にした供花を揺らして返事をする。
 ふと、遊覧船に乗っていた女の子を思いだす。あの時の女の子は妹だったのではないか。情けない兄の前に姿を見せてくれたのか。
 こんな風に思うのは歳を重ねたせいだろう。僕は少しだけ自分のことを嗤った。
 川面が眩しい。梅雨明けも近いのだろう。海鳥がゆっくりと羽ばたいていく。

〈終わり〉

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