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視野の広さで「どうでもいい」は決まる


2023年1月3日(火)朝の6:00になりました。

先ほど夜行バスを降りたばかりです。

どうも、高倉大希です。




子どもの喧嘩を見て、大人は「どうでもいいことで怒るなよ」と言います。

しかし、子どもからしてみると、まったく「どうでもいいこと」ではありません。

あの子が「バカ」と言ってきたこと。
あの子が順番を抜かしてきたこと。

すべては、今すぐにどうにかしなければならない至上命題です。


子どもと大人のちがいは、視野の広さです。

要するに、見ている「全体」がちがうわけです。


ある問題に対して「ドーデモイイ」という解決法のある事に気の付かぬ人がある。何事でもただ一つしか正しい道がないと思っているからである。「ドーデモイイ」という事は必ずしも無責任という事を意味するのではない。 

by 寺田寅彦


「全体」によって「部分」の役割は変わります。

じゃがバターにおけるじゃがいもと、
カレーにおけるじゃがいもとでは、
じゃがいものもつ意味合いがまったくちがいます。


「全体の目的」が明確になれば、「こだわるべき部分」が明確になります。

そして、「こだわるべき部分」が明確になれば、その裏側で「どうでもいい部分」も明確になります。


子どもたちには、広い「全体」が見えていません。

ゆえに、すべてのできごとが、じゃがバターにおけるじゃがいもです。


一方で大人には、子どもよりも広い「全体」が見えています。

だからこそ、たとえじゃがいもが入っていなかったとしても、楽しくカレーを食べることができます。


「目的と手段の混同」は、特に「手段として行われている活動」そのものに「価値がある」と思われているときに起こりがちですが、「教育」というのはまさにその典型でしょう。

岡本薫(2001)『教育論議を「かみ合わせる」ための35のカギ』明治図書


よく陥ってしまうのが、「全体」に紐づけないまま、極めて主観的な判断で「部分」にこだわってしまうパターンです。

言わば、本当は「どうでもいいはずの部分」に、不必要なコストを割いてしまうわけです。

先ほどから述べているとおり、「全体の目的」さえ明確いなっていれば、「こだわるべき部分」は必然的に決まっていきます。

「全体」に紐づかない「部分」へのこだわりは、ただの博打であり、時として大きな足枷になります。


早く行きたければ、ひとりで進め。
遠くまで行きたければ、みんなで進め。

アフリカのことわざ


いまあなたの目の前にある「部分」は、どのような「全体」に紐づいていますか。

そしてあなた自身は、どのような「全体」における「部分」としての役割を果たしていますか。





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