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「現代俳句」2023年2月号

 気づかないうちに5月が目の前になってしまいました。毎月言っているこのくだり、挨拶だと思ってください(笑)うっかり3月すら飛ばしてしまうあたり、時の流れに身を任せまくりな生活になっております。
 しばらく翌檜篇に絞って、一句感想スタイルで。相変わらず、句そのものというよりそこからぼんやり広がっている世界の話ばかりしています。すいません。続けることに意味がある、と勝手に信じて続けます。

「翌檜篇」(46) 青年部 編

雑感  金野克典

人焼ける匂いは同じ春の風
 今のご時世だと、戦争が過ります。あるいは、火葬場でしょうか。とは言え火葬場は、確かに亡骸を燃やしますが、匂いはしません。戦場であれば、人の焼ける匂いもしてくるかもしれません。
 春はうきうきするばかりではなく、ヒリヒリとした緊張感や、ハラハラする不安も抱えています。春の風がいつもすてきなことを運ぶとは限りません。時に残酷な現実を、何食わぬ顔で運んでくることもあるでしょう。そんなとき、わたしは目を逸らさずにその現実を受け止めなければならないような気がします。死なばもろとも。どんな人であれ同じ匂いを放っている。絶望のように思えますが、どこか救いにも思える不思議な句でした。

てのひらを  千葉みずほ

ひとつずつどんぐり笑いだす真昼
 どんぐりが笑う、という擬人化と真昼の明るさが目をひきました。ひとつずつ、と書かれているので、並べているのでしょうか。テーブルの上にひとつずつ丁寧に並べていくのだけれど、どうしてもコロコロと転がってしまう。笑っているのは、並べている人やそれを見ている人なのかもしれません。でも、一緒にどんぐりも笑っているような朗らかな光景を想像をしました。
 ひとつずつどんぐりが笑っていたら、それはなかなかのホラーなのですが、真昼にそんなホラーがあってはたまりませんね。楽しい光景であることを祈っています(願望)

試走  飯干ゆかり

言訳も声変りして夏休
 夏休み前後に男の子が声変わりする、というのはよくわかります。中学生の頃、クラスメイトの声変わりに「これが声変わりかぁ」とのんきに思ったことがあります。その声変わりを「言訳」で感じるというのがおもしろいと思いました。子ども同士でもいいし、親子でもいいですね。わたしが「これが声変わりか」と気づいたように、同級生でも大人でも、誰かの成長や変化に触れる瞬間、というのはハッとするものがあります。それが例え、憎たらしい言い訳であっても。
 夏休みという季語が、声変わりが憂鬱なものではなく明るい変化であることを示唆しているようですてきな句でした。

横田空域  坂本空

つぶやきの監視されたるマスクかな
 わたしがTwitterをはじめたのは13年ほど前になりますが、今ほどタイムラインの流れも速くなく、穏やかなものだったと記憶しています。今や、日常に当たり前に存在するSNSの中でも、Twitterは日々、炎上や○○警察やと不穏な気配を漂わせています。
 マスクという季語も、今ではすっかり冬の装いを失いつつあり、年中(わたしは花粉症なので、そもそも一年の半分はマスクでしたが)つけている状態。「監視」というのは大袈裟ではなく、コロナ禍における日常の転覆そのものであるように思います。俳句は因果をきらうと言いますが、直接表現していないからこそ、思わずそう読み取ってしまったわたし自身への自戒も込めて、この句を選んでおきます。お互いに監視するかのような生活が、早く終わることを願って。

 2月は、プライベート(いや、俳句もがっつりプライベートだけれども)の中でも「建前(公のわたし)」がへとへとになってしまっていて、会誌が届いてもしばらく開けもせず、という状態でした。3月が届いても、やはり積読になってしまい、こんな時期にまでダラダラと延びてしまいました。
 読んでもいいし、読まなくてもいいと頭ではわかっていても、どこかで俳句とのつながりを求めて、現俳の会誌を読んでいる気がします。青年部の「翌檜篇」は、同じ青年部であるわたしにとっては励みになっています。

 そんな感じで、引き続き3月号、4月号と未読の「翌檜篇」を読みたいと思います。
 お付き合いいただきありがとうございました。また次回。

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