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「現代俳句」2021年9月号


列島春秋

黍嵐山猫軒の客となる  鎌倉道彦(岩手)
 黍嵐とは収穫間近の黍が倒れんばかりに吹く風のこと。強い秋風にハッと顔を上げると、目の前には山猫軒が。恐る恐る中に入り客となったそのあとは……と思わずあの名作が頭をよぎる。黍の存在感もまたノスタルジーを生んでいる。
 春秋余滴でも取り上げられているが、わたしもレストランとして実在する山猫軒のことは以前から知っていた。今年行く予定だったからだ。岩手に住む友人に「えぬさんが好きそうなところがある」と教えてもらったのが、宮沢賢治童話村だった。きっとどこかに、わたしと似たような境遇――行きたくても行けなかった人がいる。いつか黍嵐が吹いたとき、そんなわたしたちも山猫軒の客になれるだろうか。


第2回 ITを使った俳句生活のすすめ
青年部 内野義悠

 地区会長インタビューの紹介記事。内野さん自身も「少し緊張していました」と書いている。その点については納得しかないので安心していただきたい(?)
 埼玉では月イチネット句会がはじまったそうだ。好きなことのためなら、新しいこともはじめられる。こういう学びの機会はどんな年齢でもあるし、一歩踏み込んで「やってみよう」と思える環境があるのはしあわせなことだ。わからないことがあればお互いに教え合う。コミュニティというのは、やっぱりこうでないと、なんて生意気なことを思う。
 「映像として見られるのは印象に残るのでしょう」とある。もちろん、視覚的効果は絶大で、印象に残りやすい。一方で、わたしはシンプルに「いつでも見られるアーカイブ」という点が気楽でありがたい。ライブ配信はリアルタイム視聴のために予定を立てる必要がある。そのための予定というのもまた一興ではあるが、やはり限界もある。
 わたしはインタビューをラジオのように「聴く」ことをおすすめしたい。「今の、もっかい聴こ」もできるし、一時停止してべつのこともできる。ながら作業で聴くというのは一見失礼な行動にも思えるかもしれないが、動画をどう見るかは個人の自由なので、まずは「見るきっかけを作る」ことが大事なのではないかと思う。
 現代俳句協会は青年部のチャンネルもある。今後ライブ配信もあるようなので、ぜひ登録を。いつも運営・制作に携わっている会員各位に感謝しつつ、アップロードを待つ日々だ。


直線曲線
 日本語のおいしい切字論  柳生正名

 「日本語のおいしさ」という言葉が興味深く、わたしにしては珍しく(と言ったらどこからか苦笑いされそうだ)丁寧に読んだ。
 大体のことは記事を詠めばわかるので、内容は割愛するとして、「切れ字」の持つ包み込む力と主観について少し考えてみよう。

 早速わたしの話になって恐縮だが、俳句をはじめた頃「客観写生」という言葉をよく聞いた。もちろん今でも聞く言葉ではあるが、はじめた頃は客観写生を意識するよう言われることもあった。強要ではなく、飽くまで「初学」としての学びのうちだとわかっていたので、わたしも真面目に考えた。
 すると、不思議なことに切れ字から遠のいた。おそらくわたしが不出来なだけなのだろうが、切れ字を使うと「客観性」から遠ざかるように感じていたのではないかと思う。切れ字を入れれば俳句らしくなるというのに。

 柳生さんの切字論の中にもこんな文章があった。省略するとわたしが必死で説明しなければならないので引用させていただく。

(前略)古今の俳人は主客を混然として一つの「情+景」に溶かし込む日本語の特殊性と「おいしさ」を自覚し、意識的な方法論として位置付けてきたのではないか。
 遠山に日の当りたる枯野かな  高浜虚子
 だから、この「客観写生句」に主体表現はないという説に賛成できない。「かな」という切字で示された高浜虚子の主観が景を大きく包み込んで生まれた「心+象」の句である。

 わたしは三十路を迎えてから「わたしが見たもの・感じたものはすべてわたしだけのものだ」と強く意識するようになった。それはある種の「客観性のなさ」への諦めでもあり、「主観的思考」への責任感でもあった。
 切れ字を使うことで感じていた主観的ななにか、というものは柳生さんの論においてはなまじ的外れな感覚でもなかったということだろうか。飽くまで情景は客観的に描写し、その情景への心象を切れ字に委ねる――と言うのが、「おいしさ」ということかと思うが、さて、きちんと読み切れているだろうか。
 「季語が動く」という話にしても、おそらく「本当にこうだったから詠んだのだが」というときもあるだろう。そうなったとき、俳句は「より説得力のある言葉を選ぶ」という不思議な感覚を必要とする。誰もが、とは言わないまでも、読んだ人を意図した景色へ誘うことが、作句の言葉選びでのおもしろさでもあり、難しさでもあり、「おいしさ」なのかもしれない。
 余談が過ぎたので、この話はこの辺で。


「翌檜篇」(33) 関西青年部 編

渡邉イツキ  自薦5句より

不知火やシーラカンスの血の温度
 不知火は、九州の八代海と有明海の沖、深夜無数に火が点滅する現象で、妖怪の名前にもなっている大気光学現象のひとつ。シーラカンスもまた古来より姿を変えずに生きているという深海魚だ。そんな不確かで、しかし確かに存在するもの同士の温度とは、果たしてどういうものなのだろうか。
 その不思議な温度のおもしろさと、「しらぬい」「シーラカンス」の「し」の音感のよさに惹かれた。

カルピスとドナーカードと青簾
 青簾の香りが心地よい夏の昼。簾の青さに目を奪われながら、カルピスのグラスにある氷がカランと音を立てる。
「ドナー提供者になろうと思う」
 ずっと子どもだと思っていたあの子の言葉が胸に刺さる。家族署名欄にすぐに名前を書けない未熟さに気づかされるような、夏の日。
 ちょうどドラマでドナーカードがテーマの放送回を見たところで、すっかりその気になってしまった。さわやかに見えるカルピスの白濁にもほんのりとした重さを感じる心象風景だ。


姫小松一樹  自薦5句より

青みどろ生き生きとして死魚孕む
 青みどろに死魚が絡まっている(というか埋もれている、だろうか)光景の句。「孕む」という言葉の強さが際立つが、「生き生きとして」があるからこそ、とも思う。比喩だとわかっていても感じる生々しさは、「生き生き」と「死魚」の相反したものが同時に存在するからでもあり、直感的に生と死が表裏一体であることを認識しているからでもある。
 そして同時に、残酷さというものもまた、うつくしさと紙一重の存在なのかもしれない。

筍の層部屋として貸せさうな
 筍をスパっと切ってみると、何層にもなっていることがわかる。これが筍のおもしろい食感のひとつでもある。てっぺんのほうは必然的に狭くなるが、タワーマンションとは違い狭くてとても住めそうにない。とは言え、上階は上階。隣家のないワンフロア一戸と言ったところか。
 「貸せさうな」というただの思いつきではあるものの、筍の住人というものについてふと考えてみたくなる、そんな小気味よく、かわいらしい句。


最近読んだ句集佐藤文香『菊は雪』(左右社)について  佐々木紺

 紺さんの鑑賞文の冒頭にあったので、引用させていただく。石原ユキオさんのこのTweetに思わず「あ~~~」という深い納得があった。正しくは、佐藤文香さんのちょっと変な句に対して、というより歌舞伎役者のワンシーンへの納得。
 さて、そんな納得からはじまったわけだが、わたしの手元にこの句集がないため紺さんの鑑賞文を読んだ。紺さんは、句集にあった作者の雑記(か、エッセイか、はたまた説明文か。「菊雪日記」という項があるようだ)を読んで、「そこまで手のうちを明かしてよいのかと思う部分もあった」と述べている。
 手のうちというものが具体的になんなのかは読まなければわからないだろうが、考えられるのは「なぜその句を作ったか(句の背景)」と「施された仕掛け(句の構造)」だろうか。いずれにせよ、どちらも明かせば明かすほど「そこまで言っていいの?」と感じるだろう。
 紺さんの鑑賞の中にあった「読みぶりに軽み」という言葉がおもしろく、鑑賞文と関係なく「紺さんだなぁ」という感慨に耽ってしまった。感慨に耽ってどうする、という話なんだがまあ、知人友人、親しい人の書く文章というものはいろいろと思いが募るもの――だと思うのはわたしだけだろうか。


第13回 現代俳句の風より

SDGs紅玉りんご丸かじり  小林邦子(関東)
 持続可能社会へ、というCMを見ながら「つまりこういうことでしょ」とりんごを齧る。「りんごってそもそも前から齧ってたと思う」と言われながらも「紅玉はね、アップルパイになるために生まれてくるのよ」なんて適当なことを返す。SDGsと耳にはするが、実際に句で目にするのははじめてで、ニューノーマルとはこういうことか、と妙な説得力を感じた。

銀河から帰ったように哭く夜汽車  渡邊弘美(東海)
 「哭く」とはまた大仰な、と思ったが、夜汽車にはそれだけのエネルギーがあるとも思う。銀河から帰ってきたような力強さと哀愁を纏った夜汽車は、暗い大地をただひたすらに終着駅へ向かって走り続ける。


 と、言うわけで。今月はいつものゆるふわを封印して(あれがゆるふわであるかは今は問わないでください)少し背伸びして書いてみました。大学ノートに感想を書き殴り、推敲しながらnoteに書き起こすという作業。いつもは思いつくままにぶわーっと書いていたので、言葉を選ぶ作業が大変で「これだと偉そうに聞こえるかな」「あ~~どうしても生意気に感じる。わたしだからか?」と持ち前のポジティブがネガティブに蹴り倒される始末でした。
 いつものひとりごとから、少しは文章らしくなったでしょうか。なっているとうれしいです。いつものほうが読みやすい気もするけど、たまには「意識して書く」ということをしないと、とも思うので、これもまた学びということで。

 万が一、冒頭の「近況報告」を楽しみにしていた人がいたら申し訳ないので軽くお伝えすると、部署の先輩によるとこれから業務が激化するようです。とは言え、なんとなく大丈夫そうな気がするので(というか大丈夫じゃないとだめなんですが)どうにかなるやろ、と楽観的に受け止めてます。まだこの仕事は一年目(というか三か月経っただけ)ですが、すでに「これは改善の余地あり」と思うことが山ほどあるので、効率アップのアイデアを考える日々です。俳句で言う「季語が動く」じゃないですが「それって○○じゃないとだめなんですか?」と思うことがあって、なかなかおもしろいです。精査って大事。

 余談が長いのはいつものことですね。最後までお付き合いいただきありがとうございました。それではまた来月。

 


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