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「夏みかん酢つぱしいまさら純潔など」鈴木しづ子

 わたしが鈴木しづ子の表題句に出会ったのは、伊丹の俳句ラボという講座でした。名句として紹介された句の中に、しづ子の句がありました。わたしはこの句にある「いまさら純潔など」という表現に惹かれ、好きな句のひとつとしています。
 句集を読むことで夏みかんの句にはない句への印象や、しづ子の表現を知れると思い、この本を買いました。正直、知りたくないと思うこともありますし、知りえる範囲は限られているとも思います。でも、わたしはわたしの「好き」のために、この句集を読みました。好きな句とともにしづ子への雑感を綴ります。

 幻の俳人。娼婦俳人。しづ子について調べると、いきさつやエピソードからそう呼ばれていることを知りました。「ここにひとりの少女がいる。」ではじまる松村巨湫の序文。しづ子は句集『春雷』を出版したとき、しづ子は25歳。少女と言うには……と思わなくもないですが、巨湫にとってはそういう存在だったのでしょうか。ちょっと末尾もキザすぎる気が。いろんな師匠がいますね。

守衛所や昼の闌けたる福寿草
冬うららすがたひとしき畦の木木
かぜ凪いでひとしくともる雪の郷
さくらはなびら踏まじとおもふ憂きこころ
落日にきらめき立てり野の新樹
あめ去れば月の端居となりにけり

 『春雷』は、平明な句が多く読みやすい印象です。冬うららの句と、かぜ凪いでの句は、どちらにも「ひとしき(く)」という表現があります。畦の木木は同じような木が等間隔に並んでいる様、雪の郷はいっせいに明かりが灯る様だと読みました。どちらの句も「等しい」というニュアンスが句をほんのりとあたたかくしている気がします。

夫ならぬひとによりそふ青嵐
東京と生死をちかふ盛夏かな
炎天の葉智慧灼けり壕に佇つ

 前書に「爆撃はげし」とある盛夏の句。炎天の句では、なにもかも焼けてしまったという戦後を生きる人の心のありようが描かれています。
 しづ子、あるいはしづ子の句が支持される中には、この句のような激情的な表現が好まれているからではないかと思います。
 「跋にかえて」でしづ子が、

句はわたしの生命でございます。

『夏みかん酢つぱしいまさら純潔など』「春雷」78頁

 と表現しているように、俳句に対して真摯に向き合っている姿勢を見ると、その後のスキャンダラスなエピソードだけがしづ子ではないのだと思わされます。

 句集『指環』の序は古谷綱武。「これは序文ではない。鈴木しづ子の師巨湫先生にすすめられるままに書いた一愛読者の手記である。」としめくくられているこの序文は、しづ子の句は感傷的であるという話をしています。
 しづ子はこの句集の出版の後、失踪した言われています。俳壇からの失踪。消息を絶ちたいという衝動は、わたしも幾度となく経験しましたが、実際に踏み切ることはできませんでした。しづ子は行動力もある人なんだな、と月並みなことを思います。どれだけ期待されていたって、いたくない場所にはいなくていいと思うんですよね。

 表題の句は『指環』に収録されています。センセーショナルなことが取りざたされるしづ子ですが、『指環』にも棘のない句はちらほら見つけられました。

春さむし髪に結ひたるリボンの紺
わが頬にゑくぼさづかり春隣
炎天のポストは橋のむかう側

 えくぼの句は、春が近づいていることと相まってかわいらしい句だと思います。
 とは言え、やはり取り上げられるのはこういう句なのかな、と思います。

ダンサーになろか凍夜の駅間歩く
恋の精算春たつまきに捲かるる紙片
すでに恋ふたつありたる雪崩かな
紫雲英みたりあなたの胸に投げようか
まぐはひのしづかなるあめ居とりまく
コスモスなどやさしく吹けば死ねないよ

 この本を読んでも、インターネットにある鑑賞を読んでも、見受けられるのは「蓮っ葉」「投げやり」という言葉です。投げやりに見える表現が、すべて投げやりかはわかりません。わたしには、コスモスの句は語りかけているように思えます。わたしはそれでいいと思っています。

 様々な伝説を残したと言われるしづ子ですが、『春雷』と『指環』でかなりカラーが違うと感じます。おそらくしづ子に限った話ではなく、そういう傾向はどの俳人にもあると思いますが、しづ子は顕著なタイプだったのでは、と。『指環』が巨湫が選をして編んだ句集だからということもありそうです。
 巻末の、正津勉という方の「鈴木しづ子というひと」という頁にいちいちツッコミをしたくなってしまいましたが、ここでは割愛しておきます。「なりはてた」って失礼な表現ですね。久しぶりに目にしました。
 帯の「椎名林檎 推薦」もいかにもで笑ってしまいましたが、ファンということなら、それはそれでファン冥利に尽きるかも。

 これはひとりごとなのですが、句より作家に関心が向くのは、なんとも皮肉なことではないかと思うのです。モーツァルトが姉への手紙に「う○こ」と書いた話は有名ですが、それが独り歩きしてう○こ作曲家ということがあったなら、それはなかなかひどい話です。しづ子の句を鑑賞する際に多かれ少なかれしづ子を知ることは、わたしにはすこし窮屈です。
(作品を鑑賞する上で、作者のことを知ることも必要である、バックボーンを知ることも大事であるというのは、先述のモーツァルトから察していただけるかと思います。まがいなりにも音楽を演奏してきた人間ですので、作品研究における情報の必要性は理解しています)

大阪へ五時間でつく晩夏かな

 こんななんでもない句のほうこそ、よっぽど投げやりで愛くるしいと思うのはわたしだけでしょうか。しづ子がどんな人物だったかはやはりわかりようもないことですが、それでも他愛ない句を残す平凡さをいとおしく思います。

 長い。思っていたより長くなってしまいました。最後までお付き合いいただきありがとうございました。しづ子の本は他にもあるので、また読んでみたいと思います。


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