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「現代俳句」2022年9月号

 ずれにずれている感想noteですが、ああ年内に終わればええやろというどんぶり勘定でいきたいと思います。11月号がそろそろ届くってときにまだ9月号の話してるよ……っていうことで、9月号の話をします(そうだね)

 第77回現代俳句協会賞受賞という見出しもあり、なかなかなボリュームだったんですが、ボリュームがありすぎて絞り切れませんでした。
 なので、久しぶりに気になった句を引用して感想を言うスタイルで行こうと思います。相変わらずゆるっとしてますが、お付き合いいただけるとうれしいです。

百景共吟

獣に檻人間に枷麦の秋  津久井紀代

 そこまで言う……? と思わず怯んだ一句。「獣に檻」「人間に枷」という対になった表現が、ずっしりと重くのしかかります。それはおそらく実感があるからなんでしょうが、そんな現実にも、実りはあるということなんでしょうか。それとも、そういう現実とは関係なく穂は実るということなんでしょうか。
 ざざん、と風が吹くたびに熟しきらない麦が揺れる景色に、そんな感傷を抱いてしまう。でも、麦の秋なら、この感情も受け止めてくれるような気がします。

列島春秋

星飛んで小さな螺子が落ちている  岩田典子/三重

 流星ってすごく好きな季語なんですよね。アイドルに「流星」って名前の子がいるんですけど。どの流星くんも、違う「流星」の雰囲気があって好きなんですよね。っていうのも、流星って「夜這い星」「星飛ぶ」って傍題でかなりイメージが違うというか。特に「星飛んで」のかわいらしさって、「流星」にないと思っていて。だから、「星飛んで」と「螺子」のかわいさの質量が似ていていいな、と思いました。
 なんとなく、螺子式の流れ星なのかな、って思って。からくりで出来た宇宙の流れ星っていうのもおもしろいなと思いました。素直に、工場に落ちている螺子と流れ星の夜の世界を想像しても、しんとした静寂があって好きでした。

作品10句

生きること飽きずにバナナだけの朝  岡部博「深耕」

 バナナっていろんなところに登場する季語だな、と思います。わたしはフルーツアレルギーなので、バナナは食べられません。すっかり縁が遠くなってしまって、果実を見る機会も減りました。だから、バナナを食べていた朝を懐かしく感じてしまいます。
 この句は、どこで切るのが正解なんでしょうか。「生きること/飽きずにバナナだけの朝」だったら、生きること=バナナ(飽きてない)だけの朝 ってことになるんですけど、「生きること飽きずに/バナナだけの朝」だとしたら、生きることに飽きていないから、バナナだけの朝がある、みたいなことなのかな、と思って。いずれにせよ、バナナだけの朝が「生きること」に作用しているんですよね。バナナに飽きようがいなかろうが、生きることに飽きていようがいなかろうが。バナナは生きることの中に必ず存在する。
 バナナは平凡の象徴なのか、はたまた問題提起のアイテムなのか。なんでこんなにミステリアスに思えるのか、まったくもってわかりません(ばくしょう)

第14回現代俳句の風

片言のあのねそいでね七五三  あべまさる/九州

 つい先日、七五三の家族連れとすれ違いました。お姉ちゃんのほうは疲れた様子で、妹ちゃんのほうはまだ元気にはしゃいでいました。わたしも妹も七五三の写真がいまいち乗り気でない表情をしていたもで、お姉ちゃんの気持ちはよくわかります。お化粧がすごくいやで、最後までごねた気がします。
 この句は、はしゃいでいた妹ちゃんのことを思い出しました。親御さん、あるいはおじいちゃん、おばあちゃんに手を引かれて、なにか一生懸命話そうとする無邪気さが伝わる、あたたかい句だなと思いました。


 現代俳句協会賞のページは、ゆっくりじっくり読みたいと思います。もともと句集の賞ですし、選考経過や選後評なんかも鑑賞の勉強になりそうだな、と。読んで真似してもなんだか気持ち悪くて、結局こんなふうにぼやっとした感想になってしまうんですが、いつかかっちりしたことを言い出したりするのかな。想像できないですけど(ばくしょう)
 相変わらず的外れなことを言っていそうですが、興味をひく句に出会うと「おお!」と思います。そういう心の動きがあるって、日常生活でも大事にしていることなので、俳句を読む楽しみは「出会い」からはじまっているんだな、と改めて思いました。

 11月号が来る前に10月号に着手したいところですが、さてどうなることやら。それではまた次回。最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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