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(短編小説)身過ぎ


自力で暮らすようになって、四半世紀以上。
彩は、自分にしか読めない歪んだ字で、家計簿をつける。
スマホは持っていないから紙のやつだ。
人付き合いが悪いのであまりやりとりの必要もなく、携帯で用が足りる。
「そこそこの見た目なんだから、今のうちに相手を見つけないと結婚できないよ」
などと余計なおせっかいを焼く人が、かつてはいた。
彩は思う。
相手になんの気もないのに付き合おうとするのは不誠実ではないか。
何にでも真面目だった。恋愛もだ。
だから、遊びたいだけの男には、彩の誠実さは重いのだ。
いつのまにか、適齢期は大幅に過ぎていた。

散歩に出かける。日曜の夕方だ。
家族団らんをする人が減ったのか、各自が自由になっただけなのか、道を歩く人が多い。みな、一人だ。
幸せそうではないが、寂しそうでもない。
街の景色はいつだって感情を持たず、ニュートラルだ。
彩は思う。そして苦笑いする。
自分自身が、何の感情も持っていないから、街もそう見えるだけかもしれない。

「つまり、人界と別な世界を隔てていたものが、そいつらのせいで破れたんだな?」
「そうさ。これから向かうが、敵は厄介だ。今井も呼ぼう」
「うわー戦闘か!やだなー!」
ゲームの話でもしているのか、若い男性二人が大声で叫びながら横を通り抜けていった。

趣味の話ができる友達なんてうらやましい。

彩には友達がいなかった。
貧乏すぎてみんなに馬鹿にされていたから。
話題にする趣味もなかった。
本を買うお金も、借りて読む時間も。

働いて生きるのに手一杯で、気がつけば中年ももうすぐ終わる。
彩の世界には出世もボーナスも、男性との出会いもない。
日本では、それは珍しいことではない。
一部の恵まれた、あるいは運のいい人を除けば、だいたいが彩のように、生活だけで手一杯の人生を生きている。

彩はいつか聞いた話を思い出していた。

『誰でも、一生に1つは小説が書ける』

つまり、小説になるような出来事が誰でも1つはあるだろうと言いたいのだろう。

彩は考えてる。
何かなかったか、思い出そうとする。

しかし、そこには、
何もない。
生活と仕事に追われる日々以外、何も。



きっと自分にはそういう感性がないのだろう。公園で立ち止まって木を眺めるふりをしながら、彩は考えた。できる人は、たとえ家に引きこもっていても、なにがしかの物語を紡ぎ出せるものだ。実際、昔の文豪は、家の近くから離れることなく名作を書いた。

なぜ自分は、こんなに『書く』という言葉にこだわるのだろう。

道を歩く人が不審そうにこちらを見ていた。彩はふたたび歩き出した。
家計簿と会社の書類以外で、自分が何かを書いたことはない。
自分の人生は惨めで空っぽだ。
書くようなネタはない。

しかし、なぜか、
自分は何かを書きたいと思っているようだ。

帰り道で、雑貨屋のハサミが目に入って足を止めた。
見切り品なのか、外のワゴンに無造作に投げ込まれていた。
あまり実用的ではない、虫や動物の形をしたものだった。子供向けだろう。
いつもならそのまま通りすぎるのに、彩はすうっと、予定があったかのように店の中に吸い込まれ、
気がついた時には、
ノートと鉛筆の入った袋を抱えて、
帰り道を歩いていた。

こんなもの買って、どうするの?

明日からはまた仕事だ。
低賃金で残業もあるのに給料は『生かさず殺さず』の、
要するによくある日本の職場。
ノートに何かを書く時間や、
気力が残るとは思えない。
なのに、なぜ?

机がわりの小さな座卓にノートを広げ、
彩は、しばらく迷ったのち、
最初の一行を書いた。

『私の人生は、誰が見ても惨めです』

それから、少し悩んで、こう足した。

『でも、それの何がいけないんでしょう?』

そこからは迷う必要はなかった。
気づいたからだ。
自分の人生にも書くことはたくさんあると。
いかに貧乏は抜け出しがたいか、会社の男性がいかに立場の弱いパートに冷たいか。正社員の女性たちがいかに『男性以上に』ワーキングプアの自分を差別してくるか、世の中が歳のいった独身女性にどのような偏見を持っているか。掃除のおばさんがどれだけおしゃべりに飢えているかとか、生活は苦しいが、自分にはささやかな楽しみがたくさんあるとか……。


人生が空っぽなんて、嘘だった。
彩が自分につきつづけていた嘘。
自分なんて内容がなくて、取るに足りなくて、書くようなこともない。
でもそれは間違っていた。
毎日、いろんな事を考えて、
いろんな事をちゃんと感じていたのに。

結局は、自分も、
世の中の『なんとなく』に、
価値観を流されていたたけだと、知った。




一度溢れ出したそれは、
なかなか止まらない。




彩が書き終わったのは、夜中の3時を過ぎた頃だった。
ノートをパラパラとめくる。
うわあ!ひどい文章!なにこれ!
ただのオバサンの愚痴じゃん!
うわあ、こんな人いたっけ?
すっかり忘れてた!

彩は自分の支離滅裂な文章を見ながら、何かを企む人のように口を歪ませて笑った。
考えようによっては、頭がおかしいと言えなくもない行動だ。



彩は生き延びた。
決して優しくない世界で、
危なげながら、生活を立ててきた。


ノートに愚痴を並べ、笑う。
彩にできるのはそれだけだ。





でも、きっと、それでいい。
だって、心はまだ生きている。


まだ、しばらくは生き延びるだろう。







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