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(小説)次期修道院長のお話

 ハーモトームは、大富豪シュタイナーの次女である。

 物心ついたころから女神イライザに忠誠を誓い、修道女を目指していた。大富豪の令嬢でありながら、メイドたちに交じってキッチンに立ち、床を磨き、宗教書ばかり読む彼女を、姉と、たくさんいる妹たちはほとんど軽蔑していた(シュタイナーには娘が13人もいる!)。
 ただ一人、ヘリオドールという賢い妹だけが、時々こう言って姉を慰めた。

「わたくし、お姉さまの真似はとてもできませんが、女神イライザに忠誠を誓う気高いお心には深く共感いたします。わたくしも他のお姉さまのようになりたくはありません。遊び惚けてばかりでみな気が狂ったようです……ハーモトームお姉さまとは違う形で、ここから出てひとり立ちしたいと、わたくしは父上に何度でも申し上げるつもりです。さきほども言い争いをしてきたばかりですわ。お姉さまがいなくなってとても悔しがっているご様子でした。まともな娘はハーモトームだけだと口にしておりましたもの。本当に」

 修道院に入った直後に来た手紙にこんなことが書いてあった。本名で送ったら父親に見つかると思ったのだろう。封筒には別な名前が差出人として書かれていたが、無残にも、誰かが先に開封して検閲した跡があった。ハーモトームが住んでいるのは、そういうことが日常的に行われている国である。

 ハーモトームは明日、修道院長の座につくことが決まっている。本来ならばもっと高齢の修道女が選ばれるはずだったが、彼女の人柄を知る人々はみな、口々にこう言った。

「堕落した教会から神の乙女たちを守り、影の支配者であるシュタイナーの権力から女神を守れる者は、あなたしかいない」

 自分がそのシュタイナーの娘だからだ。実力より、信仰心の深さより、その事実、出自だけが、権力者の娘であるということが求められているのだ。ハーモトームに思い上がりの心はない。ただ恐れ多いことだった。初めてここに来たときには『金持ちの娘』というだけで嫌悪をあらわにしていた他の修道女たちも、ハーモトームの日々の敬虔な暮らしぶりに心打たれ、数年後には『あの方は生まれる場所を間違えた女神の使いに違いない』とまで言われるようになっていた。
 ハーモトームにとっては、女神がすべて。女神への忠誠が人生そのものであった。

 しかし、本来女神イライザに忠誠を誓っているはずの教会の上層部は、異教徒の国イシュハの成金たちのように、贅沢に、堕落した生活をしていた。嘆かわしい話が、この神聖な首都修道院までも届いてくる。ハーモトームは若い頃から何度も上層部の男たちに接しているが、もはや女神の教えはこの修道院でしか通用しないのではないかと思われるほどだ。

 堕落。そう。
 あれが堕落でなくて何であろう。
 財が全て。
 学ぶことも高みを目指すこともない。
 女神への畏敬は、完全に失われている。

 しかも、その原因は父だけではない。
 元から堕落しかけていたこの国に、
 父が贅沢を持ち込んでしまったのだ。

 

 ハーモトームはいつも以上に熱心に、かつ、穏やかさを求めて祈りを捧げていた。


 女神様、なぜこのような重大な、困難な試練をわたくしに与えるのですか。




 もはや彼女に選択の余地はない。 


 わたくしは明日、あなたさまの本当の意思を伝えるべく与えられた地位につくでしょう。どうかお力を、冷静さを改めてお与えください。


 ハーモトームの思考に、不意に、何年も前の光景が浮かんだ。ドゥーシンが不意に訪ねてきたときのことだ。
 ドゥーシンの本名はデューク・シュタイナー。長女カルセドニーと同じ母親から産まれ、ハーモトームにとっては異母弟である。彼は本名で呼ばれることを激しく嫌っており、母親がつけたドゥーシンというあだ名を終生使い続けていた。

「姉上を初めて見たときは、メイドだと思いましたよ。使用人と一緒に石畳を磨いてましたよね。薄汚れたエプロン姿で」

 ドゥーシンは実の姉カルセドニーを嫌っていた。いや、全ての姉や妹たちを嫌悪していた。贅沢に慣れて頭がおかしくなっていると断言し、同じ意見のヘリオドールすら「貴様も同類だ!」と罵っていた。ヘリオドールは服飾が趣味で、宝石を好んでいたからだ。
 まだシュタイナー邸にいた若い頃、ハーモトームが図書室で聖書を読んでいると、ドゥーシンが近づいてきてこう言った。
「メイドのくせに文字が読めるのか。まさか女神なんか信じちゃいないだろうな」
「わたくし、あなたの姉ですわ。シュタイナーの次女ですの」
 ハーモトームは間髪入れずに答えた。
「お父様に直々にご紹介いただいたのに、もう忘れてしまったのね。無理もないわ。信仰を忘れた哀れな娘たちがあんなにたくさん並んでいては、未来の修道女の姿は霞んで見えないでしょうからね。そうでしょう?デューク・シュタイナー」
 ドゥーシンは驚いて口ごもり、ハーモトームは不信心さを咎めるような説教を一時間近く続けた。
 なんて子供じみた仕返し!当時を思い出して笑い、すぐに真顔に戻った。ハーモトームが館を脱走して修道院に入ったとき、ここまで連れて来てくれたのはドゥーシンだった。父親への仕返しも兼ねているから気にするなと言っていた。
 ドゥーシンは結局、信仰を取り戻せなかった。
 目の前で母親を殺されたせいだ。幼くして殺し屋の世界に入ってしまったせいだ。発見されたときにはもう手遅れだった。彼は父を激しく憎んでいた。生きていたらいずれ、ドゥーシンは父を殺していただろう!

 ハーモトームはドゥーシンについて考えるのをやめようとした。しかし、あれはあらゆる不幸を背負った神の使いで、救えなかった咎が今自分にかかっているような、そんな罪悪感が拭えなかった。神話によると女神イライザは、自ら貧しい少女の姿になり、物乞いをして人々の良心を試していたと言われている。そして、ドゥーシンのように悲惨な人生を送って死ぬ人々がこの国には無数にいる。上層部は彼らを救おうとすらしていない。治安が悪く、修道女が救済活動中に襲われる事件もよく起こる。ハーモトームの同期の何人かが、実際に犠牲になって天に召された。
 犠牲。
 女神はまだ、私に考えろと言うのか。


「マイ・ディア・シスター。俺についてどんな話を聞いてる?いや、前も話したとは言うなよ?俺が説明する前に一度聞きたい。シュタイナー殿がどんな話を娘たちに吹き込んだか」
 最後に、突然訪ねてきたドゥーシンは、ハーモトームの顔を見るなりこう尋ねたのだった。いつもは忌み嫌って使わない名『デューク・シュタイナー』を名乗って正装で現れ、出迎えた若い修道女たちを震え上がらせた。
「カルセドニーお姉さまと、お母さまと一緒に慎ましく暮らしていたそうですね。ところがある日夜盗が現れ、お母さまを殺して金品を奪って行ったと聞いています。それがきっかけでお父様は、各地にいた子供たちを館に集めて保護することに決めたそうです。しかし、あなたを迎えに行ったときには、カルセドニーお姉さましか見つからなかったと」
「金持ちなんかに囲われるのは嫌だったからな。逃げたのさ。しかも、この国の治安が悪いのは国の上層部が何もしないからだと近所の親父たちが言っていた。つまり、俺の母親は上層部に殺されたも同然だ。上層部って言葉が誰を指しているかはわかるだろう?」
「あなたは逃亡したのち、飢えて倒れていたところを、名の通った殺し屋に拾われた。殺し屋はあなたを手下として利用し……」
「違うね。俺が殺しを教えてくれって頼んだのさ。誰を殺したいかは知っているだろう」
「まだ実行したいと思っているのですか?」
「いつだって思っているができそうにない。相手が悪すぎてね」
「私の立場では、やめてくださいとしか言えません」
「わかってる。それで、その後どうなったか聞いてるか?」
「何年か殺しや強盗をしたあと、警官に捕まりそうになった殺し屋をあなたが始末し、警官は死んだ殺し屋の代わりにあなたを逮捕した」
「捕まりそうになったらすぐに殺してくれ。刑務所も死刑もごめんだ。そう俺に言っていたからさ。それが技術を教えてくれる条件だった。あいつはいいやつだったよ。実はさみしがりで、気に入った女を争って仲間内でバカみたいなけんかをしていた。飢えた仲間を助けていることもよくあったしな。実は普通の人間と大して変わらない。そう思っているのは俺だけだとは思うがね。なんであんな連中がこの国に次から次へと現れるかわかるか?政治が腐敗しているからだ。誰かがどうにかしなければならない。でもそれができるのは俺じゃない。エブニーザならできると思って俺はあいつに協力した。でも」
「彼はそういう人間ではなかったと」
「そうさ。残念だが、俺もあいつも力及ばずだ。俺たちはもうすぐシュタイナーに殺されることになるだろうな。そこでマイ・ディア・シスター、お願いがあるのですが」
「わたくしにできる事であれば」
「あの館に残される女たち、特にクラハに目をかけてやってくれ」
「クラハというと、あなたが助けた女の子ね」
「森の修道会の生き残りさ。焼き討ちにあってみんな死んだが、クラハは伝統の女神の火をろうそくに移し替えて、消えないようにしながら森の中を逃げ回っていたのさ。俺に会った時はろうそくがなくなりかけていて『早くろうそくを持ってきて!燃えるものを持ってきて!どうしてこんなときに雨が降るの!?女神さまも殺されてしまったのよ!きっとそうなのよ!』と泣き叫んでいた。俺はお気に入りの帽子とマントに火をつけて近所の店までろうそくを探しに行く羽目になった。まだ10歳かそこらの孤児だったのに、修道女たちがならず者に皆殺しにされたのを見たんだ。ひどい話だろう?いいことを教えてやるよ。あのならず者たちは、俺の手下のカーチャって女がな、一人残らず血祭りにあげたよ。殺された修道女のなかに昔世話になった女がいたらしい。どうだ?殺し屋も義理堅いところがあるだろう?上の連中より俺たちのほうがよほど敬虔だと思わないか?」
「あの火はここと協会本部で分けて保管され、今も女神を讃えながら燃えています」
 質問に答えたくなかったハーモトームは、話をそらした。
「本来ならクラハはここで保護するべきでした。今でもお望みなら……」
「いや、やめてくれ。修道女には向いてない。クラハは街で男でもひっかけて遊んで暮らすほうが向いている、俗な女の子だよ。いい子だがいたずらが過ぎる。俺も時々ついていけないくらい変なことをするからな。ここに入っても窮屈ですぐ脱走しちまうだろうな。エブニーザに気に入られているのは、女神を信じていないからだ」
 ドゥーシンはここで気まずく顔を伏せた。
「女神を信じていないものを救えと修道女に頼むのが、後ろめたいということですか?」
「実はそういうことだ。俺も女神なんか信じていないからな」
「御心配には及びません。ここに保護できなくても、手助けをする方法はいくらでもあります」
「そう言ってくれると嬉しいよ」
 ドゥーシン、いや、デューク・シュタイナーが立ち上がった。
「俺はもう戻らなければならない。マイ・グレート・シスター。もう会うこともないでしょう。エブニーザに伝えたいことはありますか。あいつは今、残される女たちの心配をしなくてはいけないくらい、自分が追い込まれてどうしようもない状態だと知っているようでね」
「信仰を取り戻してほしいのですが、無理でしょうね」
「取り戻す前に、元からないんだからしょうがないだろう」
「ならば、私からは『女神のご加護を』としか言えません」
「だろうな。もう失礼するよ」
 ドゥーシンは部屋から出るときに振り返り、
「俺が家族だと思えたのは、あんたとクラハだけなんだ。それは覚えておいてくれ」
 と言って、姿を消した。
 それが、最後だった。のちにドゥーシンは何者かに殺され、エブニーザも死に、屋敷と財産は愛人だった女性が引き継いだと聞いた。クラハという女の子は今でもその女性に仕えているという。ハーモトームは何度かクラハに使いを送り、手紙のやり取りをした。彼女は遺品の日記を見てドゥーシンの正体を知ったと、内容を写して送ってくれた。実は今でも交流は続いている。



 一人は望まず、もう一人は望んだ道で、やはり生まれついた家の権力に翻弄される。自分の番はこれから来るのだ、ハーモトームはそう思っていた。これから、最も恐ろしい敵と対峙せねばならない。伝統を振りかざしながら腐敗した管轄区、支配者となった父シュタイナー。そして、自身の境遇からくる恐れ。


 女神様。わたくしは明日、この国の乙女たちの頂点に立ちます。とうてい敵わない者たちと戦わなくてはならないのです。どうか勇気を、力をお与えください。最も恐ろしい身内に打ち勝つ力を。このすばらしい、恐れ多いほどの地位を与えてくださった貴女と、わたくし以上に敬虔な年上の女性たちの控えめさと献身に感謝いたします。
 どうか、わたくしと、わたくしの家族のような哀れな者どもをお救いください。わたくしを救済のためにお使いください。


 ハーモトームの祈りは、いつまでも続いた。 





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