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「生きてるだけで偉い」をめぐる議論

 少し前に、「『生きてるだけで偉い』のミーム化」という題のnoteを書いたところ、有難いことにこれが比較的反響の大きい記事となって、Twitterのリプライや引用リツイートでも様々なご意見をいただきましたので、改めてこのnoteで考えを整理してみたいと思います。



 上のnoteの要旨は、「存在するだけで満ち足りている」ということを言うのに、「偉さ」を持ち出されてはたまったもんじゃない、ということでした。「偉い」で満たされるインスタントな効用は、決して長くは続きません。そもそも、「偉い」というのは非対称な言葉です。先輩や上司や親や先生に向かって、「偉い」なんて言うことはふつうありません。発言者がたとえ無自覚であったとしても、ここに力関係の勾配を感じるのが、「生きてるだけで偉い」という言葉に抱く違和感の一つでしょう。

 だから、「生きてるだけで偉い」なんて言われた時にはちゃんとムカついてほしい。逆に、「偉くなくていいよ」なんて言われてもムカついてほしい。何様なんだよ、と。お前に何がわかるんだよ、と。てかSuzukiって誰だよ、と。 

 「逃げていいよ」「辞めていいよ」「頑張らなくていいよ」。そんな甘い言葉の裏で、何が隠蔽されているのかを考えてほしい。それは、あなたのことを真に想ってくれる人間の言葉なのか。あなたの人生の責任を取る必要がないから、適当なことを言っているだけではないのかと勘繰ってほしい。 

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 それにしたって、「生きる」という特別な事象を、偉いとか凄いとか、そういった価値評価の俎上で論じるのはおかしいと思う。生きることは、ただ、生きることです。「いや、ここで言う『偉い』というのは絶対評価で、価値の肯定ではなく、存在そのものの肯定なんですよ」という意見もよく分かるけど、それでも、そこで「偉い」という言葉は使わない方がいいとハッキリ思う。

 人間は言葉に規定される生き物だから、頭では分かっていても、「偉さ」で足元を固めていると、いつか必ずその地盤が揺らぐ時がくる。これは強者の理論なんかじゃなくて、別のnoteでも書いた通り、自分自身がある種の“弱さ”を抱えた人間だからこそよく分かることです。

 本当に、生きる気力が底の底まで落ちている時、その「偉さ」に照らし合わせて、「やっぱり自分って何にも偉くないじゃん」とさらに自己嫌悪に陥ってしまうのが何より恐ろしい。「生きてるだけで偉い」というお守りが、そのまま呪いに転じる瞬間が怖い。同じような経験があるからこそ、それをもっとも危惧する。

 考えて、考えて、考え抜いて、言葉を吟味して、再検討した上で、「私」という存在を肯定するのは、「生きてるだけで偉い」という言葉でしかありえないというなら、それは全く構わないけれど、そうでないなら、もう一度、自分の中に深く潜って考えてみてほしい。他の誰でもない「私/あなた」という存在を肯定するとき、ほんとうに「偉さ」なんかに立脚する必要があるのかということを。

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 とにかく、何が言いたかったのかというと、あなただけの切実な悲しみや、あなただけの固有の苦しみを、分かった風でいる他者に、簡単に明け渡さないでほしいということです。

 インターネットの向こうの人間は、どれだけ口の上手くても、決してあなたを代弁することはできません。あなたを助けてくれることもありません。あなたを救えるのは、あなたのことを本気で想ってくれる家族であり、友人であり、恋人であり、そして、あなた自身に他なりません。


 だからこそ、見栄えのいいようにコーティングされたニセモノの善意が、あなたの優しい心につけ込もうとするのを拒んでほしい。“意味”や“価値”から少し距離をとって、むき出しの世界をそのまま見つめてみてほしい。自分の気持ちを、自分の言葉で表現することを諦めないでほしい。それをまとめて先のnoteから引用すると、

 そのために、我々は人と話す必要があり、時に街に出る必要があり、本を開く必要があり、例えば生きる必要があるのだ。 

  ということです。しかしどんな言葉も超えて、あなたが「あなた」としていま生きている(存在している)というただそれだけの事実が、私にとってはとても不思議で、真に驚くべきことのように思えます。

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