「生きてるだけで偉い」のミーム化

「生きてるだけで偉い」のミーム化

Suzuki


 「生きてるだけで偉い」は今や他者肯定、自己肯定の常套句となっている。現実世界でこの決まり文句を耳にする機会は少ないから、むしろインターネット・ミームと言った方が適切かもしれない。例えば、Twitterの検索窓に「生きてる」と入力すると、「生きてるだけで偉い」がすぐ下にサジェストされる。


 確かに当初は、「生きてるだけで偉い」が生の肯定たり得たのかもしれない。しかし、いつしかこの言葉は、“インフルエンサー”が人生に疲弊し切ったネットユーザーをたらし込んでアクセスを稼ぐためだけの都合のいいクリシェに成り下がった。またその瞬間に、「生きてるだけで偉い」という定型句はただの「文字列」となり、その“意味”を消失した。無意味に反復され、無思考・無批判に発出された言葉には重さがないから、人の心には深く響かない。予定調和的な言葉遣いは、言葉を殺してしまうのだ。現在のこうした言論状況の貧困に、自分は危惧の念を抱かずにはいられない。


 次に、「生きてるだけで偉い」というお題目自体の真偽について。「生きてるだけで偉い」を検討していくと、「偉くなければならない」という前提が共有されている事実にまず突き当たる。本来なら、「偉くなくてもいい」と言ってやるべきところだ。「偉い/偉くない」といった強迫観念的な規範に縛られている以上、「生きてるだけで偉い」もその域を抜け出せないことがわかる。だったらいっそ、こう言ってのければいい。


「生きていてもいいし、生きていなくてもいいし、偉くても、偉くなくてもいい。」


 これが真の“全”肯定である。言葉は科学ではないから、こんなメチャクチャな文章でもどうにか成立するわけだ。また、今はこの世にいない人もひっくるめて肯定することで、人間存在そのものへの言祝ぎを可能にしてみせた。

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  便利な常套句やミームに寄りかからず、自分の方法で、自分の言葉で、自身や他者を肯定する術を模索する。もがきながら、苦しみながら、思索する。そしてそのために、我々は人と話す必要があり、街に出る必要があり、本を開く必要があり、例えば生きる必要があるのだ。 

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Suzuki
映画紹介、書評、エッセイ、その他。