星野源の音楽と共約不可能性
科学哲学の分野には、「共約不可能性」という概念がある。もともとは、“いかなる整数比によっても表現することのできない量的関係”を表すための数学用語であったが、人文科学ではしばしば、この「共約不可能性(通約不可能性とも)」という用語が、別のパラダイムを背景に持つ他者との分かりあえなさや、他者理解、共感の限界を示す言葉として使われる。
そして私は、“共約不可能”という事態について考えるとき、ふと、星野源(敬称略)のソロデビューアルバムの一曲目、「ばらばら」(2010)のことを思い出す。曲の歌い出しはこうである。
歌詞だけを見ればどこか悲観的で、世界に対する大きな諦めも感じられるようなこの曲は、それに反して、ゆったりとしたテンポと穏やかなメロディで牧歌的に歌いあげられる。これはニヒリズムともシニシズムとも立場を異にして、「わたし」と「あなた」という存在の唯一性を優しく肯定するような歌である。最後には、「ぼくらはひとつになれない そのままどこかにいこう」と結ばれる。
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映画監督の作家性は、その監督の第一作(処女作)に滲み出るとはよく言ったもので、同じように、この「ばらばら」という曲には、星野源という人間の価値観、ものの捉え方が最も端的に、色濃く反映されているように感じる。そして何より驚くべきは、1stアルバムで打ち出したこの姿勢を、現在まで崩すことなく、彼の進化した楽曲の中で貫いているという、その頑固なまでの変わらなさだ。
いつだったか、動画配信サイトに上げられた彼の曲について、「星野源の歌ってなんか全部同じように聞こえる」というコメントがついているのを見かけたことがある。これに対して、数人のファンは鼻息を荒くして反論を試みていたものの、このコメントは案外的を射ているように思う。事実、星野源は初めから今まで、形を変えてずっと同じことを歌っている。言い換えならぬ、歌い換えである。
例えば、『ばらばら』で「ぼくらはひとつになれない」と歌ったのを、『肌』(2017)では「どんな近づいても ひとつにはなれないから」と歌い換えている。『地獄でなぜ悪い』(2013)で「生まれ落ちた時から 居場所などないさ」と書いたのを、『喜劇』(2022)では「探し諦めた 私の居場所は作るものだった」と歌い直している。コメント主の耳はなかなか鋭い。
それじゃあ、星野源の一貫した哲学がもっと分かりやすい曲はないだろうか。
メジャーデビューから10年余りが経って、また壮絶な闘病生活と、私生活における大きな変化を経て、彼の楽曲の世界観がより高い次元で結実したのが、2021年にリリースされた『不思議』である。これは恋愛ドラマのタイアップでありながら、星野源ism、星野哲学とでも呼べるような「星野源らしさ」が凝縮された一曲であった。この曲の歌詞を敷き写しにしながら、彼の楽曲の核にある部分、つまりは、最初に示した「共約不可能性」というテーマに迫りたいと思う。
♦︎ 星野源『不思議』(2021)
まず冒頭。「この水の中」というのは、星野源流の“浮世(憂世)”の表現であって、そのすぐあとに「希望あふれた この檻の中で」「きらきらはしゃぐ この地獄の中で」と言い換えているように、息もまともにできないような社会の比喩である。
「共約不可能性」というテーマと並んで、星野源の楽曲の中では、現世がどれだけ凄絶で地獄的であるかということが繰り返し歌われている。分かりやすく上で挙げた二つの曲を引き合いに出すと、『地獄でなぜ悪い』で「無駄だ ここは元から楽しい地獄だ」と、『喜劇』で「争い合って 壊れかかったこのお茶目な星で」と歌っている。そして「希望溢れたこの檻」「楽しい地獄」というように、相反する意味の言葉を掛け合わせた、いい意味でちぐはぐな言語感覚、明るすぎも暗すぎもしない絶妙な歌詞のバランス感覚が、星野源の音楽の一つの大きな魅力でもある。
次に、少し飛んでサビ前の歌詞。もうすでにここでこの曲の、いやもっといえば、星野源の音楽の核心である、「他人」との分かりえなさ、通じ合えなさという主題が、いかにも素朴な言葉で表現されている。生まれも、バックグラウンドも違う。相手の考えていることも分からない。それでも「あなた」と一緒にいたい、そばに居たいと願う、その不思議を綴った歌詞だ。
この“他人だけの不思議”は、2015年にリリースされた4thアルバムのトリを飾る『Friend Ship』の中で、こう歌われている。
「わからないまま わかりあった」ってなんだよ、どういうことだよ、矛盾してるだろ、と思われる方もいるだろうが、これは、わからないままでいることをそのままにしてわかりあったという意味である。フリッパーズ・ギターの小沢健二も、『全ての言葉はさよなら』(1990)という曲の中で、「分かりあえやしないってことだけを分かりあうのさ」と書いている。これもまた「共約不可能」という前提を、平易な言葉で端的にあらわしたクールな表現だ。
話は戻って、「不思議」のラストフレーズ。「孤独」というのがミソで、結局のところ、誰といようが、それが「あなた」という特別な人であろうが、人は本質的には孤独であるという達観した姿勢を崩さない。その考えは、たとえタイアップであっても、ラブソングであっても変わらない。
星野源の音楽の中で「孤独」が軸となるのは必然で、なぜならば、他人と通じ合えないということを訴える時、誰とも「わかりあえないこと」と「孤独」の問題は当然表裏の関係になるからである。しかし、彼の歌う「孤独」は決して悲観的で寂しいだけのものではない。それを2020年の紅白歌合戦で披露した『うちで踊ろう』では、「ぼくらずっと独りだと 諦め進もう」と歌ってみせた。「諦めよう」ではなく、「諦め進もう」と表現する。それが星野源のもつ優しさであり、独特の柔らかさでもある。
「愛に足る想い」というのも面白い。星野源は“愛”をそのまま「愛」とは書かない。埋められない距離がある中で、こんなに違う中で、それでも側に居たいと感じるなら、その可笑しな「不思議」こそが「愛」じゃないのか。そういうことを歌っている。
最後の「二人をいま 歩き出す」という歌詞。これもまたすごい。普通ならば、ここは「二人“で”」としてしまうところだ。そこをわざわざ「二人“を”」と書いている。助詞がひっかかって少し意味が取りづらい部分ではあるが、英訳版の歌詞を見ると言いたいことがよくわかる。
ここまで近づいても、二人はあくまで「strangeres」であり、どこまでも「他人」同士である。そして、星野源の3rdアルバムのタイトルは「Stranger」。一番初めに書いたように、彼は何度も何度も、同じことを違う形で歌い換える名手である。どこまでいってもぼくら独りだよね、わかりあえないよね、そういうメッセージを、手を替え品を替え、言葉を尽くして伝えようとする、さみしくて、それでいて誰よりも真摯な人間だ。
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現在、地球にはおよそ80億人の人間が住んでいる。それは同時に、80億通りの世界が並行して存在することを意味する。「世界」は「80億人の<私>の価値観」と言い換えてもいいかもしれない。
「価値観の違いから・・・」という言葉によくあらわれるように、お互いの共通項を探り合って確かめるような関係の築き方は、対人間における衝突や破滅を招きやすい。どんなに親しい間柄であっても、価値観なんて全員違うのが当たり前だ。
だからこそ、その出発点を「わかりあえない」というところまでもってくる。「わかりあう」ことはないとわかった上で、お互いの「違い」を楽しむ。コミュニケーションの本懐も、決して「わかりあう」ことではない。むしろその真髄は、対話を通して、他者との“差異”が微細にわかるようになること、それこそにある。
そして、その差異を慈しむという境地を地で行くのが星野源の音楽である。彼の歌はそんなに壮大なものではない。どれも人間関係の瑣末を歌った素朴な曲ばかりである。しかし、だからこそ、そこに写された彼の人生哲学が、平熱ながらに熱く、またフラットに、聴く人の心にスッと沁みるのだ。
『ばらばら』と同じ1stアルバムに収録された『くせのうた』の中で、星野源はこういう風にも歌っている。
その不思議な謎は解けないことを知りながら、それでも、「わかりあえない」他者と向き合うことをやめない。「知りたい」と思う気持ちは捨てない。そんな彼のまっすぐな姿勢があらわれた愚直な歌詞に、多くの人が惹きつけられる。彼は歌う。歌い換える。色んな歌で繰り返す。「知りたいと思うには、全部違うと知ること」なのだと。