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初稿の連載小説「もっと遠くへ」1-2

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ただ、ここは違う。

コーヒーと煙草の香りを楽しむ中年の男性もいれば、ソウルミュージックに耽る老人、一人読書をする学生、友人と先週行った、鳥羽一郎のコンサートの話をするマダム達。そして僕のように、原稿用紙をテーブル一杯に広げて小説を書く男。目的は様々だが、共通して言えることは誰にも邪魔されることがないということだ。

もちろん、マダム達の話が思った以上に盛り上がり、店内がその笑い声で包まれれば、隣に座っている学生が怪訝そうに横目で様子を確認することや、中年男性の煙草の煙を嫌がる老人が

「ちょっと控えてもらっていいかな」

と、あからさまに振る舞うこともある。原稿の厚さはかまぼこ板ほどになっていた。

一度、原稿を持ち上げ、テーブルに数回叩き付け、角を揃える。隣に座っている女性二人組が一瞬こちらを見たが、すぐに互いに向き合い、話の続きを始めた。

これをしないと始まらない気がする。この鈍い音すら僕には心地よく、このジュン喫茶には気持ちが良い程似合うのだ。

いわばルーチンのようなものを行い、膨れ上がった原稿用紙の一枚目(表題が書かれた頁)をめくる。

ここからは本編が始まるわけだが、小説の書き出しを読みながら、ここを書いたのは確か二カ月前のことで、そう考えたら、あれからもう二カ月も経ったのか、いやまだそれだけしか経っていないのかと不思議な気持ちになる。

ただ、確実に言えることは鉛筆で書かれたこの文字は確かに二カ月前の自分が書き記したものであり、間違いなく僕は二カ月前にもこの世界に存在していて、このジュン喫茶で、この席に座り、今と同じようにブレンドコーヒーを頼んだということだ。

そして、その後も僕がちゃんと生き続けてきた証拠に、原稿用紙のちょうど真ん中あたりの頁に小さな茶色のシミが出来ている。

これは一カ月程前のシミだと記憶している。

いつもと違うことはやるものじゃないなと改めて思った日でもあった。普段はブラックで飲むコーヒーも、その日はテーブルに置かれた角砂糖に妙に引かれてひとつ入れた。何を思ったのか、いや、何も考えていなかったからだと思うが、ティースプーンを右手でつかみ、何故か反対の左の人差し指でかき混ぜてしまった。このシミは咄嗟に指を引き抜いた時に飛び散って出来たものだ。

そういう馬鹿らしいことは幾度もある。

その時は煙草を吸いながら店の前を歩く人々を目で追っていた。僕がいつも座るこの席は窓際で、外の様子がよく見える。

ここから外を眺めていると大型水槽で飼われている魚たちを見ている錯覚に陥ってしまう。水槽の魚とは違い、一度駅の方へ向かった人間がこちらに戻ってくることはまれだ。

だからこそ、忘れ物をしたことに気が付いたのか、どこかのお店を探していて、あちこち歩き回っているのか、そういった人間がいると、「あっ」と自分に聞こえるには十分な声をあげ、さっきも見た、と嬉しくなってしまう。

だが、物事というのは見方を少し変えるだけで全く別のものになってしまうことも僕は知っている。

僕が魚だと錯覚している人たちからすれば、僕は全く動かず、変化のないイソギンチャクに見えるだろうか。朝通りかかった人間が、夕方に帰ってきて、窓の向こうにいる僕を見て、

「この人はなんて退屈な人生なんだ」

と考えているのかもしれない。同じ水槽に飼われていれば、僕はカクレクマノミの引き立て役であり、彼らの方に関心が集まるに違いないな、と思う。

小説を書いていると「ふと」何かが浮かんでくることがまれにある。

だからと言って、その気まぐれにくる「ふと」をあてにし過ぎると痛い目に合うわけだが。

「ふと」浮かんだ僕は、慌てて煙草を灰皿に置いて原稿用紙に書き出した。

しばらくすると、その手も止まり「よし休憩」と、煙草に火をつける。先程吸っていた煙草はまだ現役で燃え続けているにも関わらず。

そのことに気が付くのは新しい煙草の灰を灰皿に落とす時だ。そんなことが僕には頻繁にある。没頭しているからだと、格好よく言えば済む話だが、何をどう考えてもそれとは違う。

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