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不幸の果実

つれづれ音楽雑感 第18回


申し訳ない気もするけど
ベートベンの不幸が実らせた果実をおいしく頂いています。

外形的には不幸だったように思える作曲家はたくさんいる。
モーツアルト、ショパン、シューベルト、チャイコフスキー、ラベル・・・

彼は第9番交響曲によって、当時の音楽家としては考え得る限りの大変な栄誉を手にしたから、はた目には幸福かもしれない。
しかし、若い頃の彼は才能にあふれ、社交家で、
”もてたい”がモチベーションだったようだ。
だから、ハイリゲンシュタットの遺書に書かれた苦悩を押し殺して
強い意志で音楽に打ち込んだのだろう。

他の芸術や文学でも
特に文学では、夏目漱石、川端康成、ヘミングウエイ・・・
作家の不幸と作品のすばらしさは反比例していると言われる。

最近、ハイリゲンシュタットの遺書の全文の素晴らしい朗読を車田さんのYouTubeで拝見した。
ベートベンの一次資料から生身の苦悩と彼の知性に感銘を受けた。

彼はかなり強い絶望の淵から
ただ素晴らしい音楽を作る使命だけに生きる意味を見出したようだ。
時代背景もあるが、使命感を支えに生きれるだろうか。
意地の悪い考えかもしれないが、彼自身、
神に選ばれし天才で、使命を果たす責任を感じたのか
今日も、人間は生きる意味を必要とするのかもしれない。

私ごとで恐縮だが
20代後半から中途の難聴が進行した者として
すこし同感な部分もあった。
聞こえるふりの時期を過ぎて、補聴器を使用しだしてからの方が楽だった。
もともと、おしゃべりの私には聞こえるふりが心労だった。
”音楽家にとっては難聴は屈辱的” 
と彼は表現しているから、同列ではないけど

今や雷鳴も聞こえない難聴老人の私でも
Bluetoothストリーミング補聴器のお陰で
YouTubeの様々な音楽を楽しんでいる。
時代とは、ある意味、残酷かもしれない。
この時代の日本に生まれた偶然ですごく幸せを頂いている。

もちろん、彼もコーヒーやワインを楽しんでいたようだ。
使命感だけで生き続けるにしては人生は長すぎるのかなあ

9番交響曲でついに彼は神の使命を果たした
と、自分を褒めたのだろうか。
車田さんの解説では、その後に作曲された弦楽四重奏の緩徐楽章もすばらしいらしい。
使命を果たし終えた、安堵、安らぎ、憩いがあるのかな
聴いてみよう

ベートーヴェンにも補聴器を使わせたかったなあ



大変に素晴らしい朗読です。おススメ


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