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一人の街

 私はこの湖からとても遠い土地で育ちました。
現在住んでいる土地も、この湖から車で二、三時間は掛かる所にあり、正直私には何の所縁も無く、やっとの思いで見つけ出した街の名前も星がよく見えることが分かるだけで、特に秀でた一部も無いことから、私がこの土地へ足を運ぶ事になったこの葉書がない限り一生立ち寄ることはないであろう、山奥の台地に湖はありました。
 私の友人に訊ねると、この湖の街で生まれも育ちもこの街である人間は大変珍しく、此処の土地に建っている建物の殆どがホテル、釣り堀またはキャンプ場などと、此処を訪れる観光客の為に有るものばかりと聞きました。
また、湖を囲む様に街が展開されている為、当たり前ですがこの街の歴史は湖の事ばかり関わっているようで、特に昭和初期の時代、此処に住む人々は、何かしらの作物を育てて経営するのが一般的だそうで、湖はそんな農業用の溜め池として人工的に作られ、のちに活躍しました。
 一見理にかなっている様に見えますが、私は変な所を突く癖があり、今回も
『短い草ばかり生えているのだから酪農もやればいいのに』
と森林限界を迎えるほどの高度ではないのに何故か短い草しか生やしていない山で囲まれているものですからふとそんな感想を持ちました。
 しかし昔は溜め池とはいえ、そもそも昭和初期にこの街の様な標高が高い盆地に農業をする訳がない様な気がするのです。どちらにせよ、街が完成する前にはもう既に観光目的で開拓されたと聞いている為、歴史などの類は一切感じない、そんな街なのです。
          二
 この街を訪れるきっかけとなったこの十四枚の葉書には、生き生きとこの湖の街の風景を細かく書き留め、どのようで過ごし、異常な事に街の外には一歩も出たことがない事が語られていました。
 朝は誰よりも早く起き、鳥の囀りと水の靡く音を聞く。彼女は沢山の友達に囲まれながら、細長い大きな建物に住んでいます。
 彼女は毎日湖の絵を描いたり、友人と食事をしたり、山に生える山菜を摘んだり穏やかな暮らしをしていました。
私は“彼女”に導かれながらここへ来ました。
 仕事病なのか、私は違法でカウンセリングを行なっており、その拠点となるビルの2階には偶にカウンセリングをする様に相談が来るとがあります。
 しかし、今回この葉書が送られてきたのは私の自宅でした。内容だって思わず
“で、君は何を言いたかったんだい?”
と聞きたくなるほど、何かこちらに要求することも無い、なんの強弱もないただの日常でした。そんな風に続くものですから、何かしら症状を訴えている訳ではない限り私の患者では無いとしらを切っていました。
 しかし、まるで強弱がないっていうのはいつまでも続いて、ちょうど一年と数ヶ月前から月の初めの今日まで、毎回ご丁寧に封筒に包んで此方に届くものですならとうとう好奇心が抑えきれなくなってしまったのです。特に
『湖に氷が張っている。』
現在八月一日、湖の手前のバスにいるのですが、この葉書はちょうど一カ月前の七日一日に送られてきました。気温は二十二度。
私の地域も冬は雪が降ってやや寒いのですが、夏が近づく頃、いくら山の上だからと言ってあり得るのでしょうか。
 私はともかく、それを確かめに行かなければならないと思います。
          三
 交通の便が悪く、湖に着くまでに三時間を超えたものの、待ち侘びていた湖は自転車で30分漕いでいたら一周できてしまう、阿国様に見たら小さな水溜まりですが、私の地方だとかなり大きい湖でした。エンジン音が止んで外に出ると、窓越しから見て分かってはいましたがやはり氷は張っていませんでした。それはそうと静かで優美な景色はため息が出る程研ぎ澄まされた完璧な美しさがあり、がっかりと気を落とす事はありませんでした。
 しかし、此処が農場だった頃は本当に溜め池としか使っていない様で、ケチな私は少し気に食わなかったのですが、今の湖は釣り堀があったり、カヌーを体験する事が出来たりとにかく私がケチをつける隙がないほど、賑やかな雰囲気が有りました。
 最近になるとホテルも大きくなっていった様で、その辺りはもうホテルでは無くテーマパークの様でした。私も幾つか乗り物に乗りたかったのですが、流石にお金も払わないで無断で乗るのは気がひけるので乗らなかったのですが、代わりに学生が何かのイベントで作ったらしいニスの塗っていない白樺のベンチに腰掛けてみました。ベンチはギシギシと音を鳴らして少々不安になりながらも、不器用な子供が必死になって支えてくれている様な気がして少し愛らしく感じました。
 目線を上にやると湖は魚の銀鱗の様にチカチカと光が煌めきあい、心地よく風が靡くものですから、私もいい気になっていつまでも此処に揺られていたい様な気がしました。葉巻が欲しいとも思いましたがその煙ですらこの白樺に良くない気がするので今回はやめる事にしました。
        四
 私は彼女を追い求めてとうとう此処まで来ましたが、やはり“彼女”は遠い街に住んでいたと言わざるを得ないと思うのです。
 しかし、場所などの情報は何も知り得無いもので、遠い街とは湖のとても近くな所かもしれないし、私の全く知らない本当に遠い場所かもしれない。
現実的な話をすると、もし彼女が私の患者で有り、葉書を通して受診を希望しているのならば彼女は“統合失調症”を患っている可能性が高く、何故私なのかよく分かりませんが、やはり湖の街へ行く必要はあったのだと思います。
 しかし、とりあえず街へ着いたものの結局彼女を探す旅一日目は、こうして湖の周りをぶらぶら歩いて終わってしまいました。今日分かった事は彼女の言う一般的な一軒家より細長く大きい建物は存在しない事。
        五
 五時になると“蛍の光”が流れていたので、今日の散策はやめにして、予約していたペンションにチェックインする事にしました。
 ペンションは湖の脇の道を辿って自転車のレンタルがされている建物の左側にある所で、暗めのセピア色をしたログハウスが私を出迎えてくれました。少し坂を登りステンドグラスをはめた重たい木の扉を開けてみるとそこは、見かけに寄らず木の匂いがする暖かみのある空間でした。私はすぐさま受付にてチェックインを済ませた後、鍵を受け取り自分の部屋へ向かおうと階段を登りました。
 床は真紅のカーペットが敷いてあり、自宅のものより随分と厚く一歩踏み込む度に足がゆっくりと沈み、もう既にこの家ごと丸々私を包み込んでいる様な気がしました。
 そんな風に部屋に入るとまず最初に私を包み込む大きなベットが目に入りました。質素ながらも何処か暖かみがあり、太陽をうんと吸い込んだ匂いがします。
 とりあえず風に当たりたくて窓を開けるとまだ遠くで音楽が流れており、何時迄も流れているものですから流石に長すぎるなとは思っていたのですがどうやら音楽の出所はまだ明るいうちに訪れたテーマパークから流れていることが分かりました。私の地元の遊園地でもこの蛍の光が流れていたので、私は妙に納得していました。
           六
 すっかり日も沈んで音楽も聴こえなくなったので、夜ご飯を食べる前に温泉に入る事にしました。
温泉はホテルより規模が小さく一度に一組しか入れない仕様でした。しかし、私が下に降りた時には利用している様子は無いようなので入る事にしました。
精神科の人間は座って作業をする仕事が多く、こんなにも歩く事は中々無かった様でいつもより体が汗でべとべとしていて、いつもよりも洗った後の清々しさが桁違いな様な気がしました。
温泉の後はそのまま一階にある食堂で夕食を摂りました。名前は長ったらしくてよく覚えていませんがまだ手元に夕食で出た料理名がズラッと並べてある紙を持っています。此処ではバイキング形式では無いので結局デザートまで美味しく食べましたが途中で吐いてしまうのでは無いかと心配する程食後は苦しい思いをしました。
部屋に戻るとすぐ寝てしまおうかとも考えたのですが、どうやら横になる方が苦しく感じたのでしばらく机に向かっている事にしました。と言っても何もする事が無かったので、湖へ向かう前にポストに入っていた真新しい葉書を読む事にしました。
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 こんにちは、お元気ですか。今日は土用の丑の日らしいのでうなぎをいただきました。本当は外へお出かけして湖の側で頂きたいのですが、若いお姉さんに止められて今日のところは自宅で食べる事にしました。
その後は小さな子供たちと球投げをしました。皆さんとても元気でなりよりです。私はずっと椅子に座っていましたが一つ玉が入ってよかったです。次は子供達と湖へ行って遊びに行きたいです。
私は幸せ物です。                        
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相変わらずの平和ぶりには少し羨ましい気もしますが、そんな事よりもこの葉書にはもっと重大で、非日常的なパンチを喰らうような大きな事実がありました。それはまた新たな推測へと導き、確信へと変化したのです。
今すぐにでも確かめに行きたい所でしたが
今日はとりあえず寝ることにした。
          七
次の朝、私は小学校、中学校が無いか確認しました。
やはりそんな物は存在しなかったのです。
彼女の指す建物が存在しない事、それはまだ言葉足らずだったり色々勘違いが起こり得るかもしれません。働いている様子が見えないのだって彼女が老人だからかもしれない。しかし、夏に氷が張っていると発言した事。そして極め付けは小学校、中学校が無く、事実と矛盾している事。
これだけだとやはり最初の推測が一番可能性として近く、探偵でも雇ってなんとしてでも彼女の居場所を知らなければならないが
“私は幸せものです”
どうやら私は深読みし過ぎたようです。
今日ここで撮った写真を何枚か贈りたい気もしたのですが、彼女の街にお邪魔するのも違う気がしたので辞めることにしました。
私の推測では彼女は安楽椅子に深く腰掛けて一人の街をゆっくり生きている。                               

燈台ひつじ

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