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コロナ禍の花見は近場の桜の下、二人でビールとおつまみの質素なものだった【KOZUKA 513 shop paper vol23 2021/4】

春の花見と夏の花火見物はどこか似ていて、やるとなれば盛大に一等地?
でやりたいし、やらないと決めれば家でのんびりするのだけれど「今頃どこかで盛大に楽しんでいる人々がいるんだろうな」と心落ち着かなかったりする。「踊らにゃ損」じゃないけれど、花見も花火見物も、やらないと損したような気分になる。

コロナ禍にあっては、何から何まで自粛の波に飲み込まれていたから、当然、大勢で盛大な花見などできるはずもなかった。
昔は砧公園や目黒川沿いや、穴場である調布市の某公園とかで、毎年欠かさず盛大な(盛大に飲んで騒ぐ)花見をしていたんだけどね。

2021年の花見は、店から数メートル、鴨川沿いの桜並木を眺めながら、ビールと簡単なつまみ(ほぼ店の総菜の残り物・・・)を用意して、共同経営者の友人と二人(と1匹)で、ささやかに。
いつかまた、盛大な花見をしたいものだ。



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「花は桜木、人は武士、柱は桧、魚は鯛、小袖はもみじ、花はみよしの」
(一休宗純師)
「花」と言えば日本では古来「桜」のことを指すらしい
一休宗純師は 最後に再び「花は」と言葉を継ぎ「みよしの」と結んでいるけれど
「みよしの」は「美吉野」であり奈良県吉野町を指し そこは桜の名所だからやっぱり桜
花も人も散り際の美しさが大事… というのはあまりに古い日本人的な感覚だろうけれど
桜を日本の花の代表ととらえる感覚はなんとなくわかるような気がする
やっぱり桜が満開になれば心が躍るし 散れば散ったで桜吹雪や花筏に心動かされる
 
「桜を家の敷地に植えてはいけない」と聞くことがある そのわけはいろいろあるようで
若葉の頃に大発生する毛虫の始末が大変なこと
土中の養分をものすごく吸い取るため土地がやせ他の植物の成長が悪くなること
根張りが強く建築物の基礎を痛めてしまうほどになること
「桜の木の下には死体が埋まっている」というフレーズもよく聞くけれど
これは梶井基次郎の小説『櫻の樹の下には』に由来する半ば都市伝説
でも江戸時代頃にはパッと散る姿が縁起の悪いものと考えられていたらしいし
戦後は「咲いた花なら散るのは覚悟」的な負のイメージがつきまとう
桜に罪がある訳もなく 今年も鴨川の土手の桜や佐久間ダム親水公園の桜は咲き誇り ようやく訪れた春の喜びを味わわせてくれた
以前のような盛大な花見はできないけれど それでも桜の下で飲むビールは格別
 
今年の桜は例年より早く咲いたような気がし すでに桜の花びらも散り若葉が茂っている
新年度の始まり 季節の巡り 時の流れを 一番実感するのがこの時期
踏み出した新しい一歩が より素晴らしいより実りのあるものになりますように
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昔の仕事柄、桜はいつ咲くのか、ということがけっこう気になっていた。
つまり、卒業式あたりに咲くのか、入学式あたりに咲くのか。
地域によりその年の気象条件により違うし、それは人力の及ぶものではないのだけれど、桜吹雪の中の卒業式はなんだかとても哀しく美しいと思うし、桜満開の中の入学式は希望に満ちて美しいと思うのだ。

桜の標準木は九段の靖国神社の境内にある。たまたま今年の春、開花宣言が出そうな頃にそこにいたのだけれど、報道陣やカメラマンがそれはそれは大勢、標準木の周りを陣取っていて、「それはそうだよな」と思った。
(その日に開花宣言が出た、と、あとからテレビのニュースでみた。)
その昔、靖国神社が避難訓練の二次避難場所であるような学校に勤めていたので。標準木や千鳥ヶ淵の桜、お堀の花筏が懐かしい。

やっぱり春は桜だな、と心の底から思うのだ。


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