虫歯の苦しみを知らない者は (エッセイ)

—虫歯の苦しみを知らない者は、人生の苦しみの半分も知らない—
とは、誰の言葉だっただろうか。
古代ギリシアだがローマだかの哲学者が残したそれだった気がする。そうか、虫歯の苦しみというのはそれほどのものなのか、と長く虫歯の痛みを知らぬまま生きてきたぼくはえらく感嘆した覚えがある。
虫歯は痛い。本当に、深刻に痛い。ぼくがそれを身を持って知ったのは三十八歳の時であった。
お前は三十八年も虫歯にならなかったのか、といわれる。
そうなのだ。ぼくは三十八年もの長きに渡り虫歯になったことがなく、その痛みも知らなかった。それまで歯医者にいったことは二度あったが、一度目は中学の頃、空手をやっている男子と殴り合って口許に拳のクリーンヒットを食らい、歯の神経を損傷した時。二度目は二十代の終わりごろ、歯の並ぶ狭いスペースに親不知が生えてきて他の歯を圧迫したときだけである。
つまり、虫歯の治療を目的として歯医者を訪れたのは生まれて初めての体験だったわけだ。
歯が痛み、やはりまず虫歯を疑った。しかしどうにも解せない。先述の通りぼくはそれまで虫歯になどなったことがなく、自分は虫歯になりにくい体質で、虫歯を経験することなくこのまま生涯を終えるのではないか、と信じていたのだ。
ところが、である。
どうにも歯が痛い。殴られた覚えはなく、狭いところに親不知がムリヤリに生えてきて他の歯を圧迫しているのでもない。単純に歯が痛むのだ。
しかし歯医者というのは恐ろしい場所であり、過去にはぼくがそう思い込んで歯科医院を忌避するきっかけとなった体験があった。
初めて歯医者を訪れた中学二年の時である。
極真だか正道会館だか知らないが空手を習っている生徒と殴り合い、ぼくはものの見事に拳を口許へとぶち込まれた。頬や唇、そして歯も痛んだが、とりあえず放っておいた。ごはんを食べて寝ていれば治る、というバカな中学生ならではのアホ理論だが、半分は正解といえよう。実際、しばらくすると唇の裂傷は治癒し、頬の腫れも治まったのだ。だがどうにも下の前歯二本のうち左側の一本が痛い。じんじんと疼痛が続き、夜も眠れないほどの痛みであった。殴られはしたが、鏡に映してみてもその歯がぐらついているのでもない。これはひょっとして虫歯か?これが虫歯の痛みなのか?虫歯というのはごはんを食べて寝ていても治らないのか?となると歯医者にいくしかないのか?とバカはバカなりに考えた。しかしまあ耐え難い痛みである。このままでは治りそうもなく、ぼくはたまらず近所の歯科医院に飛び込んだ。歯医者になど初めて訪れたのだが、そのシステムも作法もわからず、だがそんな物事はどうでもいいからすぐにこの虫歯を治してくれ、この激痛をどうにかしてくれ、とぼくは受付のおばちゃんに懇願したのだった。
診察室に通され、ぼくは診察台で仰向けになった。そこへ現れたのがサイコドクター・本橋(仮名)である。もうなんか、明らかに精神を病んでいそうな気配と風貌であった。例えるならば、映画「羊たちの沈黙」に出てくるレクター博士みたいな感じである。後年ぼくは伝聞で知ったのだが、当時ドクター本橋(仮名)は奥さんが子供を連れて逃げてしまい、本当に精神を病んでいたそうだ。相当に壊れていたらしく、ぼくの同級生など麻酔を忘れられたまま虫歯の治療をされたこともあるそうだ。
そんな危険な雰囲気プンプンのサイコな医者が、ぼくの口内を観察し、問題の前歯を謎の器具でコツコツと叩き、ぼくの反応を見る。叩かれた途端、とんでもない痛みが歯から全身を貫いた。
レクター博士、じゃなかった、本橋医師(仮名)がいう。
「ああ・・・、これはね・・・虫歯じゃないね・・・何らかの衝撃によって神経が傷ついているんだよ・・・格闘技でもやっているのかな?クックック・・・」
気味の悪い笑い声をマスクから漏らし、目を細めるサイコな歯科医。
「じゃあ・・・そうだね・・・麻酔を打って、それから歯に穴をあけて・・・神経を取ってしまおうか・・・大丈夫。麻酔はするからね、麻酔は・・・、クックック・・・」
こわい。なんなんだ、この不気味な笑いを漏らすサイコな医者は、という感じであった。
すると、ドクターはなんだか冗談みたいに大きな注射器を取り出し、ぼくの口へとその針先を挿し込んだ。瞬く間に麻酔が効き、ぼくは顎から下の感覚を失ったが、本当に恐ろしかったのはその後である。
「さあ・・・ドリルで穴をあけるよお・・・クックック」
想像して頂きたい。
「羊たちの沈黙」に出てくるレクター博士がドリルをチュインチュインと鳴らしながら急速にこちらの顔面へと迫ってくるのである。戦慄したぼくはたまらず目を閉じ、恐怖に耐えた。
問題の歯に穴をあけられ、なにやら螺旋状の細かな金具で神経をからめとられ、穴はどうにかセメント状の物で埋められた。すでに痛みはなかったが、やはり顎から下の感覚がない。
「もう大丈夫だよお・・・クックック・・・」
失禁しそうなほど恐ろしかった。二度と来たくない。乱暴な真似はもうよそう、とぼくは心に決め、帰途についたが、自転車を漕ぐと走行風が下唇に当たり、口から顎にかけてがびろろろーんと波打つ感覚があった。
とにかくもう二度と御免被りたい恐怖体験である。
それから四半世紀近くが経過し、どうやらぼくは三十八歳にしてとうとう本当に、今度こそ虫歯になってしまったようなのだ。
痛みへの耐性はそれなりにあったため、痛みを堪えつつ当時勤めていた職場の終業時刻を待ち、それを過ぎるとダッシュで近隣の歯医者に向かった。あれは吉祥寺の端、武蔵野八幡宮の近くだっただろうか。
受付のおばちゃんに診察室へ案内され、ぼくは診察台で仰向けになって医師の登場を待ったが、登場したその医者がこれまた胡散臭い。ヨレヨレの白衣には幾筋もの皺が寄り、おまけに何日か風呂に入っていないのだろうか、微かに体臭が漂っていた。
「あー、それじゃーね、ちゃちゃっとね」
ちゃちゃっとでも何でもいいからこの痛みをなんとかしてくれい。
しかしその歯科医、ぼくの歯を治療していたかと思えば度々下腹部からクピーとか謎の音を出し、そのつどトイレへと消えるのである。人の歯を治す前に自分の腹を治せよ、といいたい。その歯科医は治療中、なんと合計で四度もトイレへと消えた。一体どれだけひどく腹を壊しているのだろうか。
しかしまあどうにか治療は終わり、ぼくはようやく歯痛から解放され、そして三十八歳にしてようやく虫歯の痛みを知ったというわけなのだった。
読者諸君、歯は大事に、ね。


                               (了)

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