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本気で選んだ最も偉大なアーティストランキング 〖後編〗50~1位

後編です‼️
前編は淡々とアーティストを紹介してたんだけれども、流石に後半になってくると、その偉大さとともに熱量を帯びてきてかなり文量が多くなってしまった。別にマニアを唸らせるような豆知識などなく、むしろミーハーっぽい文章なのだが、それでも読んでくれるとありがたい。

ちなみに前回(前編)の記事はこちら↓↓

50位 ミッシーエリオット(+ティンバランド)

R&Bの持つ前衛さを極限まで煮詰めた存在が彼らなのかもしれない。
元々、2人はソングライターとしてアリーヤやSWVに楽曲提供を行い一目を置かれるヒットメイカーとして活躍していた。不気味な音色が鳴るビートと多様なSEが融合したトラックは、もはや電子音楽全般通してみても斬新でオルタナティブなものだっただろう。

その後ミッシーはラッパーとしてティンバランドの支援の元、ソロデビュー。斬新なビートはもちろん、奇抜な衣装を着たミュージックビデオ、堂々としたラップ表現は他のアーティストと比べて余りにも独自の世界観だった。
彼女の卓越した自己プロデュース能力によって作り上げた新たなアーティスト像は、ニッキー・ミナージュや FKA twigs、バンクスなど、個性派女性アーティストが登場しやすい下地を作ったと言える。

そしてティンバランドはプロデュース業としてのキャリアをより突き進み、中毒性の高い彼流のダンスチューンを次々とつくりあげていく。
彼の提供した「sexyback」はジャスティン・ティンバーレイクのソロキャリアを後押しする名曲になった。
その多彩なサウンドメイキングはKPOPのプロデューサーが非常に参考にしており、今後も影響力と評価は上がっていくことだろう。

49位 ヴェルベットアンダーグラウンド

現代音楽に精通しておりノイズに興味があるジョン・ケイルと、都会の人々の生活の有り様を如実に描く詩人 ルーリードが出会い、結成されたバンド。
活動当初はほとんど売れなかったにもかかわらず、今ではオルタナティブロックのあらゆる系譜の祖にあたるとされてる偉大な存在だ。

彼らがここまでの評価を得た理由は、その類まれなる個性と飽くなき挑戦心ゆえだろう。
曲の面で見ても詩の面で見ても、前衛的なアプローチが豊富で、文学や絵画とも度々比較されるほどだ。アンディ・ウォーホルとの密な関わりを持っていたことも彼らの価値をぐっと高めているのだろう。
演奏力自体は割と低い中で、アイデアを編み出してるので楽器初心者でも初期衝動のままに彼らのコピーを出来るのも、彼らがカルト的人気を集める理由だ。実際、インディーロックのミュージシャン達はヴェルベットのアイデアを丸パクリしてることが多い。余りにも汎用性が高すぎるからだ。
「彼らの作品は売れなかったが、彼らの作品を買った者は誰もがバンドを始めた」というブライアン・イーノの至言はまさに説得力があるものだろう。

48位 ノトーリアスB.I.G

1990年代の東海岸のHIPHOPシーンのリーダー格であるラッパーであり、死後もなお2pacのライバルと称される圧倒的な存在感を放つ。1度聞けば忘れない野太い声と小気味いいフロウが特徴で、体型も含め貫禄ありまくりだ。
そしてビギーはとにかく売れた。スキルでいえばNasやウータン・クランも比肩しただろうが、セールス面ではビギーの圧勝だ。
デビューアルバム『Ready to die』は文字通り彼のハードボイルドな生き様と哲学を詰め込んだ、聴く人を選ぶハードな音楽性なのにも関わらず、めちゃくちゃ売れた。
「juicy」「Big poppa」などの冷徹で生々しい歌詞とメロウなビートとのギャップがウケたのかもしれない。R&Bのリスナーからも比較的入りやすい歌が多かったのだろう。

JayZや50セントと並んで屈指のHIPHOPドリームの体現者であり、彼のような才能を下らない東西抗争のせいで失ってしまったのは痛い。ビギーのレコード会社であるBad BoyRecordsも未だに彼の遺産を擦っているし、実際出したら出したで凄まじい売上を記録してしまう。
2pacと並び、この手の存在感を発揮するスターはこの先現れるのだろうか。

47位 ブラック・サバス

未だに世界中で熱狂的に支持され、数多くの音楽ジャンルの中でも一際異質な存在感を放ち続けているヘヴィメタル。その始祖たる存在が、他でもないブラック・サバスである。イギリスという国は、ゴシック様式の文化が深く根付いており、悪魔や闇、そして超自然的なものへの興味が、音楽のみならずイギリスのあらゆる創作物に顕著に表れている。ブラック・サバスの音楽は、そのような文化背景を強く反映していると言える。

オジー・オズボーンの呪詛のような独特のヴォーカルと、トニー・アイオミが奏でる重厚で歪んだギターサウンドが織りなす世界観は、当時の誰もが見たことのない新たな音楽性であり、それまでのロックとは一線を画していた。その暗く、重く、そして不吉なサウンドが、瞬く間にイギリス中で熱狂を巻き起こし、やがてヘヴィメタルという一大ジャンルを確立するに至ったのは、ある意味で必然だったのかもしれない。

だが彼らのばら蒔いた種は、直系のハードロックやヘヴィメタルに留まらず、ハードコア・パンクやグランジなどオルタナティブなジャンルにおいても、源流として扱われることが多い。

46位 ザ・フー

60年代UKロックバンド四天王の一角。破壊的なライブパフォーマンスを見せたかと思えば、コンセプチュアルなロックアルバムを作る芸術性も見られるこの二面性が最大の魅力。
特にライブパフォーマンスは歴代でもツェッペリンに次ぐ墓入りを持ち合わせており、キース・ムーンの破天荒すぎるドラムス、ジョン・エントウィッスルの超攻撃的なベース、ピート・タウンゼントの奔放なギターが織り成すサウンドはステージをかき乱す。さらにはライブ後にホテルの部屋を破壊したなど数々の奇行も持つ。
ザ・フーに常に通底してあったのは、「青春」なのかもしれない。怒れる若者として初期衝動のままに演奏していたモッズ期から、『Who's next』期でみられる大人の立場からかつての葛藤してた自分へのエールまで、バンドの歴史を通して味わい深いものがあるのだ。

45位 ディアンジェロ

この世で1番オシャレな気分になれる音楽ジャンル ネオソウルの第一人者。当時の打ち込み中心のR&Bシーンにあえて生演奏中心のサウンドを持ち込み新たな風を吹き込んだ。何も彼は奇を衒った訳ではなく、打ち込みでは再現しえない緻密なズレが起こすグルーヴの探求が目的であり、それが究極の域に達したのが2000年に発表された大名盤『Voodoo』である。リズムの探求を行う者は確かにスライやプリンスなど先人はいたものの、HIPHOPを経由したミニマムな感覚でそれを実践するものは彼しかいなかった。だから革新的だったのだ。そしてこのアルバムでやりたかった事が一通り終えてしまったのか、その後2014年までほとんど表舞台に出ない生活を送る。ほんと、何から何までオシャレな男である。

44位 バート・バカラック

ビートルズを始めとする自作自演のアーティストが活躍していく一方で、専属作曲家の立ち位置はどんどん追いやられていったが、その中でもバート・バカラックという存在は確かな輝きを放っていた。
「バカラックサウンド」とも呼ばれるプロフェッショナルを感じさせる転調や弦楽器の扱いが非常に長けていて、どの曲も豊潤な温もりを持ち合わせている。ディオンヌ・ワーウィックに提供した楽曲からまた映画音楽やミュージカルの分野にも進出し、特に『明日に向かって撃て!』の主題歌まで多岐にわたって名曲を送り出したその手腕は歴代でも屈指の作曲能力と影響力を誇ってるだろう。

43位 Jay.Z

東西戦争後のNYシーンで天下を取った、HIPHOPドリームの体現者。
彼は人の扱い方が非常に上手く、「The blueprint」や「Black album」を始めとするアルバムはどれも豪華なプロダクションで構成されてい業界の話題を常にかっさらう。
特に「The blueprint」では当時新進気鋭のプロデューサーだったカニエ・ウェストを大抜擢しており、後の成功を考えるとやはりJay.Zの人を見る力というのはアーティストの枠に収まらない人間力の凄みを感じさせる。
それは、かつてビーフを繰り広げていたNasとの歴史的和解や、DefJamのトップにまで上り詰めるビジネスの才覚を見ても伝わるだろう。
無論、そういう処世術だけで成り上がったわけでなく、当然卓越したスキルを持っており、滑らかなフロウに載せたハードなストーリーテリングが持ち味だ。
というのも彼は貧しい頃にハスラーとして生活を送っていたり、銃撃に遭って生き延びたりと中々濃い人生を送っていて、その経験が彼のリリックにリアリティを与えてるのだろう。

このように音楽の面で見てもビジネスの面で見てもJayZほど理想のHIPHOPスターはおらず、多くの若手アーティストも彼を手本にしている。
その影響力は計り知れない。

42位 ジャネットジャクソン

ジャクソンファミリーの末っ子。偉大なる兄 マイケルの背中を追って1982年にデビューを飾る。最初、シンガーとしての実力は当初から人並み以上ではあったものの、中々芽が出ない日々を送る。そして活動4年目にしてジャネットはとうとう決意を固める。マネージャーを務めていた父親を解雇し、マイケルのライバルであるプリンスの出身地、ミネアポリスに活動の拠点を移したのだ。そこで出会ったジャム&ルイスの2人をプロデュースに迎えたサードアルバム「Control」が世界的な大ヒットを記録。
一躍トップアーティストの仲間入りを果たす。
当時のR&Bの勢力図は主にメロウなメロディーが特徴のクワイエットストームか、もしくはディスコの流れを汲むファンキーな曲かの二極化しており、そこに新たにジャネット達が「ニュージャックスウィング」という音楽ジャンルを打ち出したのだ。つまり第3勢力というわけだ。
だが、ジャネットの進撃は止まらない。
次作「Rhythm Nation」では女性の自立像や社会問題についてのリリックを歌い、さらに表現の幅を広げた。この頃には遠かった兄の背中も、ほぼほぼくっつくくらいの成功を収めてただろう。それは兄のスタイルをむやみに真似るのではなく、自立した音楽性を打ち出したからゆえの成功である。黒人のエンパワーメントやフェミニズムの観点から見ても、彼女の先んじた姿勢はもっと評価されるべきではないか。
残念ながら現代では「ニュージャックスウィング」のビートはかなりダサい部類に入ってるものの、当時の日本のR&B普及に果たした役割はとてつもなく、安室奈美恵も彼女をロールモデルにしているのは有名な話だ。

41位 レッド・ホット・チリ・ペッパーズ

この規模の人気と評価を得たアメリカのバンドはグリーン・デイか彼らが最後なのかもしれない。既存のロックに加えて、ファンクやヒップホップのリズムをミクスチャーさせた音楽性は、当時のアメリカンロックの新しい形でもあり、後年に流行するラップメタル/ニューメタルの先駆けともいえる。
また、ギターのジョン・フルシアンテやベースのフリーを中心とする、楽器隊それぞれの『個の力』の強さはかつてのザ・フーやツェッペリンなどとも比較される強靭なものだ。
こういったアグレッシブな活動を見せながら、バラードを書かせても1級品で、そのギャップが幅広い層から親しまれる要因にもなっている。
『Blood suger sex magik』でニルヴァーナと共にオルタナの代表格として台頭し『Californication』~『stadium arcadium』で円熟した彼らの世界観を広げていくまで、かれこれ15年くらいロックシーンの王座として居座り続けた息の長さも彼らの凄いところ。

40位 エミネム

白人離れした卓越したラップの技術に加え、あまりとユーモア溢れる毒舌で2000年代のカリスマとして名を馳せたラッパー エミネム。
彼のわかりやすいキャラクターや自伝『8mile』の大ヒットは明らかに世界中のHIPHOPに対する間口を広げただけでなく、理解度さえも広げた。いわゆる1950年代のロックシーンにおけるエルヴィス・プレスリーのような役割を果たしたともいえる。
元々、娘の養育をしながらトレーラーハウスで生活する典型的な白人の貧困層であった彼の人生が変わったのは、彼のデモテープがドクター・ドレーの目に止まったことだ。
「Slim Shady」という別人格を名乗り、自身の環境への鬱憤を晴らしながら韻を踏みまくる攻撃的なスタイルは、黒人であるドレーの目から見ても光る個性と才能があったのだろう。
こうしてドレーのプロデュースの元でデビューすると、一躍トップスターの階段をかけ登る。彼の怒りに任せたリアリティのあるラップは多感な若者から低所得者までアメリカ中を虜にし、今では世界で最も成功したラッパーの1人だ。
Jay.Zと並びHIPHOPで人生を逆転させた生き証人でもあり、ロックなんかより断然黒人の村社会であるHIPHOPの中で、認めざるを得ないスキルを有しているレジェンドである。

39位 アントニオ・カルロス・ジョビン

彼をこのランキングに入れるかどうかは迷った。彼以外にも非英語圏の偉大なミュージシャンは数多くおり、ジョアン・ジルベルトやフェラ・クティなんかもランクインさせても全然良かった。ただ100人しか選べないというのと、だからといってボサノヴァの父である彼を無視する訳にはいかないという理由から、ジョビンだけ唯一ランクインして頂くことになってしまった。
同時代のボサノヴァのアーティストでもずば抜けて知名度が高く、「イパネマの娘」など世界中で知られるスタンダードナンバーを作っただけでなく、時折チルアウトやサイケデリックな一面も見せる姿が彼の人気に拍車をかけてるのかもしれない。ボサノヴァの気品溢れるコード進行は彼がほとんど成立させたものだ。
ブラジルという第3の音楽大国とも呼ばれる国の中の看板を背負い続けるレジェンドだ。

38位 U2

80年代で最強のロックバンド。
この年代の音楽というのは煌びやかなデジタルサウンドやパーティー向きの楽観的な歌詞が非常に多いのだが、U2はそういった快楽主義は存在せず誰よりも『マジ』なサウンドを奏でていた。世界各地の紛争や人権問題を叫ぶボノのシャウト、ジ・エッジのどこまでもクリアでエモーショナルなギターはどこまでも生き生きとしていて情熱的だ。その怒りはパンクの余波から生み出されたのかもしれないし、出身であるアイルランドの複雑な社会運動からかもしれない。
そしてそのエネルギーはやがて、『The Joshua Tree』のような高次的な世界観や、『Achtung Baby』で見せる大胆な音楽性の変化へと発展させていった。
何よりもU2はライブバンドとして凄まじい評価を受けていて、スタジアム級のイベントを何度も成功させてきた手練だ。どれだけボノが気難しい活動家になろうとも、いざライブになれば純粋なパフォーマンスを届けてくれる。
2010年代になって、急速に若者から邪険に扱われ始めた気がしなくもないが、それまでの業界における影響力は凄まじく、全盛期はまさに最強の一角であった。

37位 スライ&ファミリーストーン

黒人史上の天才は誰か?と聞けば、マイケルやJBやプリンスなど色んな名前が上がると思う。
でも忘れてはいけないのがスライ・ストーンだ。
サンフランシスコでラジオDJを務めていたスライは、当時のヒッピームーブメントの自由な空気に触れ、バンドを結成する。人種・性別の垣根を越えた画期的編成、ファンクやジャズのアプローチすら吸収したサイケデリックなサウンドは、当時の白人側から見ても、黒人側から見ても異質に見えただろう。どれだけ自由な時代といえど、真に斬新な音楽は異質に聞こえるものだ。
それでもそれらのトリッキーで中毒性の高い楽曲は、徐々に評価を受け、伝説のフェス ウッドストック・フェスティバルにも出演した。ファンクという当時出来たての音楽を世に広めるだけでなく、黒人のアーティスト像を確立する上でも重要なロールモデルになっただろう。
だが1971年に発表したアルバム『There’s a Riot Goin’ On』で再び物議を醸す。開放的で熱気あふれるサウンドはなりを潜め、スライが当時世に出たばかりのリズムボックスを使用して密室的でダウナーなビートに変わったためだ。
HIPHOPが誕生してない時代に、余計な添加物は一切入れず、骨格のリズムだけしかないこういった音楽は今聞いても斬新だ。
後にプリンスやディアンジェロも目指すことになるこの「究極のリズムの探求」は、黒人の変わらない現状への絶望や、ドラック漬けの毎日が生み出した偶然の産物なのかもしれないが、この作品以降のスライの作風は『What's going on』などと共に黒人音楽史におけるオーパーツとして今後も語り継がれていくことだろう。

36位 メタリカ

1980年代初頭に登場し、5年も経たない内にたちまちスタジアムを埋め尽くすほど強大な力を得た。特に、パンクの攻撃性とメタルのテクニカルさを融合させたスラッシュメタルを確立した功績はメタル史全体を見ても大きなターニングポイントである。
当時のメタルバンドの大半は楽観的なパーティーソングが中心であったが、メタリカは徹底して緻密な演奏と攻撃的でシリアスな姿勢を貫いたのだ。『Master of puppets』や『one』などは正に彼らの重厚な美学を象徴するアンセムである。
そして全米1位を獲得した5作目ではスピーディーなスラッシュメタルはなりを潜め、当時密かなトレンドになっていたグランジへ作風を寄せたヘヴィでグルーヴィーな作風へと変化し、90年代にも適応してみせた。

これほど過激な音楽で、これほど多くのオーディエンスを獲得したバンドは恐らくメタリカしかいないだろう。
後続のスラッシュメタル及びデスメタルバンドはもちろんニューメタルへの影響力も外せない。

35位 クラフトワーク

クラフトワークは、ドイツの現代音楽シーンから産まれた、電子音楽の歴史を語る上で外せないバンドである。彼らの登場がなければ、シンセサイザーやドラムマシンがここまで広く受け入れられることはなかっただろうし、80年代初頭のニューウェーブや初期ヒップホップの音楽性も大きく異なるものになっていたかもしれない。
名曲『Planet Rock』のサンプリングは有名な話だが、それを差し引いても彼らのミニマルなビートとメカニカルな音作りは、Depeche ModeやThe Human Leagueといったアーティストたちに大きなインスピレーションを与えた。

アルバム『Autobahn』や『Trans-Europe Express』で獲得した未来的なコンセプトと実験的な電子音は無機質な機械だからこそ作れる新鮮な芸術作品だ。この時点で、後のニューウェーブやデトロイトテクノ、エレクトロといった後続のムーブメントの雛型となるようなサウンドを完成させてるのだから驚きだ。

Kraftwerkの音楽は、ただ新しい音を生み出しただけでなく、テクノロジーと音楽の関係を深く探求し、その未来像を描き出していたのがポイントだ。それはメンバーの衣装やライブパフォーマンスにも顕著で、もはや彼らだけの独自のスタイルが確立されてる。

ヴォコーダーを通したギミックやアナログシンセの温かみのある音色は、確かに現代の耳では手垢のついたものに聞こえるが、逆にそれがレトロだと再評価する声も上がってる。そう思うと意外と人懐っこいグループだ。

34位アウトキャスト

今振り返ると、2000年代におけるHIPHOPの躍進は、3組のアーティストの登場がでかかった。1人は人種の壁を越えたエミネム、2人目は性別と歌の壁を越えたローリン・ヒル、そして最後の3組目がジャンルの壁をぶっ壊したアウトキャストである。
そもそも、自由な音楽性が持ち味とされる南部のヒップホップから見ても、彼らの存在はかなり異質だ。
なせなら彼らのビートは往年のソウルやファンクのサンプリングではなく、R&Bやブルース、それからジャズやエレクトロニカまで全部まとめてごった煮にさせた前衛的なものだからだ。
それに加え、変幻自在なライミングも特徴である。
特にANDRE3000はプリンスを想起させるジャンルレスな感覚と大胆不敵なクリエイティビティを発揮させる鬼才だ。
個性と伝統に重きを置いた彼らのサウンドは、基本的に村社会であるHIPHOP業界からも1目置かれ、アルバムをリリースする度に売上も急上昇していく。
特に東西戦争終結後から彼らの躍進はうなぎ登り。
2000年に発表したドラムンベースに乗りながら高速でラップする「B.O.B.」は彼らの奇想天外な発想を象徴しているし、2003年に発表した「Hey ya!」は2000年代のアンセムの1つに数えられる人気を誇る。
この時期の彼らはアーティスティックなロックバンドや保守的なヒップホップファンを嘲笑うかのように、次から次へと聞いた事のない斬新な音楽性を打ち出すなんとも痛快な存在だった。皮肉なことに、そのカオスさが収拾つかなくなってほぼ解散状態になってしまうのだが、彼らの果敢な挑戦心には敬意を表するばかりだ。

33位 ザ・スミス

ひたすらメランコリックでどうしようもない閉塞感に覆われた時、ザ・スミスに手を伸ばしてしまう。
時に人はこういう音楽が必要なのだ。だから彼らはカルトヒーローに留まらないバンドであり続ける。
彼らが出てきた当時のイギリスのシーンはパンクとニューウェーブが一段落して、ロックが元気をなくしてた時代だ。そんな中で、ニューウェーブの煌びやかなサウンドとは明らかに一線を画してる、彼らの内省的な歌詞と鮮烈なギターサウンドはたちまちリスナーに衝撃を与えた。デビューアルバム『The Smiths』は全英2位を記録し、インディーズレーベルRough Trade Recordsに初の成功をもたらし、最高傑作と名高い3作目『The Queen Is Dead』は、モリッシーのスターダムへの欲望や個人的な絶望が、ジョニー・マーのギターと絶妙な化学反応を起こし、インディーロックの唯一無二のフォーマットを形成した。スターダムへの批判から孤独感、自己憐憫に至るまで、モリッシーの悩みが詰め込まれた彼らの作品はどれも印象的だ。

1987年に解散し、わずか4枚のアルバムしか残してないが、その影響力は計り知れない。後のブリットポップや米国のインディーロックに大きな影響を与え、彼らの音楽は今もなお、多くのリスナーに支持され続けている。

32位 セックス・ピストルズ

もはや説明の余地がない、パンクロックの象徴的存在。

ニューヨークのアンダーグラウンドシーンで火がついたパンクは、セックス・ピストルズによって英国に持ち込まれ、瞬く間にファッション、アート、そして政治をも巻き込む社会現象に発展した。当時、音楽シーンを席巻していたのは高度な技術を誇るハードロックやプログレッシブロックであったが、彼らはその既成概念を根底から覆す存在となった。セックス・ピストルズがいなければ、その後のポストパンクやニューウェーブ、さらには現在のメタルの台頭も、全く異なる形を取っていたかもしれない。

彼らが成し遂げたのは、ただ単に文化的な破壊や反抗ではなく、むしろロックンロールの核心へと立ち返ることであった。その証拠として、セックス・ピストルズの音楽にはロカビリーやガレージ、さらにはグラムロックといったジャンルからの影響が色濃く感じられる。彼らの音楽は単なるノイズや騒音ではなく、初期のロックンロールが持っていたエネルギーとシンプルさを再び世に問い直す試みだった。これによって、彼らは時代遅れとされていたロックンロールの魂を蘇らせ、若者たちにとっての新たなアイデンティティとなったのだ。

31位 オアシス

90年代初頭のイギリス、クラブミュージックを取り入れたマッドチェスターとマイ・ブラッディ・ヴァレンタイン率いるシューゲイザーシーンが1991年に一旦ピークを迎え、アメリカのグランジムーブメントにもついていけず、再びUKロックシーンは停滞状態に陥った。
しかしスウェード、ブラーなどの若手バンドの台頭によって再び活気づく。
彼らが今までと違ったのは「もはやイギリス国内だけで楽しめれば良くね?」という気負いしないスタンスだ。そしてそれらはブリットポップと呼ばれるようになり、1994年夏にこのブームの真打ともいうべきバンドが登場する。
それが紛れもなくオアシスである。
オアシスの武器は、ノエルの楽曲の良さ、リアムの声のふたつしか持ち合わせてないが、この2つはグランジすらどうでも良くなるほどエネルギーに満ち溢れたもので、瞬く間にイギリスの国民的バンドとなってしまう。
テレビに写ろうが歯に衣着せぬ発言や、ステージ上でも普段着を着るという大胆不敵なスタンスは、まさに全ロックキッズが憧れる主人公だ。

特に1994~1996年の間の彼らの活躍はそれこそビートルズとも比較できるような輝かしいものであり、95年のオアシスとブラーのシングル対決や、1996年の夏に開催されたネブワースで25万人動員したライブは、UKロック史の中で最も盛り上がった瞬間のひとつだ。
ただ彼らがピークを迎えた後は想像もつかないほど失速し、2009年に悲しくも解散してしまった(今年ついに再結成!?)ものの、「Don't Look Back In Anger」「Wonderwall」など数々のアンセムは遠い島国の日本でも未だに愛されてる。

30位 ジョニ・ミッチェル

アメリカ史上最高の女性シンガーソングライターは?というと必ず名前に挙がるのがジョニ・ミッチェルである。先程のオアシスのような明確に売れた時期はないので、紹介しづらいが、1971年に発表したアルバム『Blue』はSSWの中でも指折りの傑作と評されるし、いつの時代も誰かしらフォロワーがいるような人だ。
彼女のサウンドはフォークともロックとも形容しがたく、むしろ音楽だけ聞くとジャズに近い。そんな複雑でミステリアスなところが現代のオルタナティブなアーティストからも一目置かれてる理由なのかもしれない。
誤解を恐れずに言えば、クレイロやフィービーブリジャーズやミツキ、さらにはラナデルレイまで今のインディシーンを支える女性アーティストも、元はジョニ・ミッチェルがやってた事と似ているという指摘もある。彼女の威光はむしろ今の方が広がり続けているのだ。

29位 ピンク・フロイド

いわば「ロックの芸術の限界に迫る」という、ビートルズが撒いた種を最も素直に追求したバンドかもしれない。
いわずとしれたプログレッシブ・ロックの代表であり、他のプログレ四天王と比べてもダントツの売上と影響力を誇る。
それはいわゆるテクニック面に頼りすぎず、コンセプトや音響面も含めて勝負し続けたからなのだろう。その証拠にポストロックやドゥームメタルからのフォロワーも絶えない。

やはり彼らの最大の魅力はそのコンセプトの壮大さにある。
20分にわたる大作「echoes」では自然や宇宙との調和がテーマだったり、後期の傑作『The wall』では自身の幼少期の疎外感を戦争によって築かれた壁と重ね合わせてる。
当然、バンドの核であるロジャーウォーターズの哲学的な歌詞はもちろん、ギターのデヴィットギルモアの繊細なギタープレイが楽曲に神妙な味わいを加えていることは間違いない。

アルバム「The Dark Side Of The Moon」は14年連続でビルボードチャートに入り続け全世界で5000万枚以上も売れた怪物アルバムである。コンセプトも多岐にわたり、「Money」では“強欲”、「Brain Damage」「Eclipse」の“狂気”、そして「Us and Them」における“戦争や社会の分断”といった具合だ。
以後、この作品はスタジオで丹念に作り上げられるアートロックの指標となり、Tame Impalaからダフト・パンクまでありとあらゆるアーティストにインスピレーションを与えてきた金字塔として評価されてる。

さらに近年では初期のシド・バレットワンマンな頃のサイケデリックロックも、再評価されておりまだまだ彼らの魅力は尽きない。

28位 2pac

ヒップホップの歴史上もっとも偉大なラッパーの一人。同時期にNasやビギーといったスキルの怪物がいる中で、なぜ彼がここまで神格化されてるのだろうか。それはまず彼の人生と性格を知らなければならない。
2Pacの人生は、複雑で矛盾に満ちていた。
政治活動家の母親に育てられ、社会的不公平に対する鋭い批判を常に目にする毎日。それと相反するかのようにギャングスタとして享楽的な道も歩む。彼にとってラップとはあくまで表現方法に過ぎないのだ。
しかも、人格が多面的で、時には反抗的でありながらも、感受性豊かで、仲間や家族への深い愛情を示す男だった。それは「Hit'em up」のような攻撃性から「Dear mama」の慈愛を比較すればわかるだろう。一貫していたのは常に率直な言葉を紡ぎ続けるということ。
未だに曲解されがちな、彼が提唱した「Thug life」という概念は、単に反抗的で無頼な態度をとるのではなく、自己表現を貫くという思想である。
また「keep it real」の教えは常に率直な言葉を吐くという彼なりの意思表示であり、HIPHOPの文化コミュニティを商業から守るための手段でもあった。
ここまで見てもらえればわかる通り、彼はもはやラッパーの枠を超えた活動家であり思想家であったのだ。

それに加え俳優業などhiphopの枠を超えた活動も展開し、ラッパーとしての認知度と地位を引き上げたものの、その強烈なカリスマ性ゆえゴシップも絶えず、やがてビギーとともに東西戦争の犠牲者となってしまう。
だが彼の死から四半世紀たってもその思想は途絶えることなく、未だに後続のラッパー全てからリスペクトされてる。彼の存在は間違いなく、HIPHOPコミュニティの連帯感の強化に繋がったし、そういう意味で彼はやはり最も偉大なラッパーのひとりであるのだ。

27位 ダフト・パンク

エレクトロミュージック界における最大のゲームチェンジャーとして、その名を世界に轟かせましたダフト・パンク。彼らはアングラな雰囲気が支配的だったエレクトロ界に奇妙なマスクをまとい、普遍的な作曲能力で一躍人気を博した。
まるで未来を予測するかのように、次に来るトレンドを正確に生み出し、意表を突くようなセンスの良い音のギミックを取り入れる能力は、音楽界広しと言えどなかなかいないのではなかろうか。特に、当時軽視されていた80年代のシンセポップやAORに対するリバイバルを早くから取り入れたことは驚異的だ。

またエレクトロミュージックがクラブ向けの音楽として捉えられていた時代に、彼らはアルバム単位で楽しめる作品を生み出し、ロックリスナーからも評価されたことも大きな功績だ。
名盤『Discovery』では、松本零士をミュージックビデオ制作に起用し、ジャンルの枠を超えた大胆なアプローチを取っただけでなく、後のカニエによるサンプリングなどでヒップホップとの融合性すら巧みに引き出した。

そして、彼らのキャリアの頂点とも言える『Random Access Memories』は、非英語圏のアーティストで初めてエレクトロ部門でグラミー賞を受賞する快挙を成し遂げ、ディスコリバイバルをアメリカに根付かせた。加えて収録曲「Get lucky」はその年の最大のヒット曲という、あまりに痛快すぎる活躍だ。
ライブパフォーマンスも、後にEDMフェスの雛形となり、そのスタイルはどれだけ多くのアーティストに影響を与えたことか。

これといって低迷期や駄作を残さないまま、彼らはスタイリッシュに解散を迎えたのもカッコイイところ。でも、やっぱ再結成してるところを見たいな。

26位 チャック・ベリー

ロックンロールの象徴とも言えるギタリストであり、ビートルズ以前に存在した初期のシンガーソングライターでもある彼。
スウィング、R&B、カントリー、ブルース、ジャズといった多様な音楽要素を取り入れたサウンドで、"Maybellene"や"Roll Over Beethoven"など、多くの名曲を生み出した。
中でも"Johnny B. Goode"は長いポップスの歴史の中でも随分とアイコニックな曲だ。

そのブギウギ調のリフを弾くギタースタイルは、ロックンロールを超えて、あらゆる影響が伺える。
ブルースロックの香り漂う楽曲はビートルズやストーンズもカヴァーしていた。
それに荒々しく、歯切れのいいギターリフをシンプルな3コードで展開する姿は、後のパンクミュージックにも通ずる。
どうやらWilcoやザ・ブラック・キーズといったインディーロックにも色濃く反映されてるらしい。

チャック・ベリーは、アメリカの若者にスピードと自由を象徴する開放的な道路を賛美するサウンドを生み出した、

前述の通りSSWとしての評価も高く、色彩豊かなティーンエージャーの日常を切り取った遊び心溢れる歌詞は、ロックの自由さの起点となってると捉えてもいい。そして、彼はは80歳を過ぎてもなお世界各地を飛び回り、ロックンロールの精神を体現し続けた真のレジェンドであったのだ。

25位 テイラースウィフト

テイラーに関しては正直迷った。ここまで高順位にしたのは、その売れてる「長さ」ゆえだ。
ミュージシャンが真の意味で天才的な才能を発揮するのはわずか1~2年が相場だ。
ここまで見てきたミュージシャンの才能のピークを見ていけば、確かにテイラーを超えるものは何人も出てくる。
だが、新陳代謝の早いアメリカの業界で、10年以上もその才能を維持し続け、毎年安定してヒット曲をチャートに送り込むのは、至難の業だ。
音楽界広しといえど、テイラーほど安定してヒット曲を送り込んでるシンガーソングライターは稀だ。そしてさらに特異な部分が、ポップスターとしての側面も兼ね備えてる部分だ。

2008年にデビューしたテイラーは、2012年に発表したアルバム『Red』でカントリーとポップスを絶妙に融合し、続く『1989』で瞬く間にセレブスターにのし上がっていったのだ。
ここの強みを生かして「1989」以降はエレクトロなナンバーも生み出すなど作風の幅を広げ、気づけば世界で最も強固なファンダムを築き上げた。
そして2020年に彼女にコロナパンデミックという最大の転機が訪れる。
自身のルーツであるカントリーの人脈をフルに活用して、インディーフォークに接近した名盤『folklore』をリリース。
自身のゴシップをアメリカに古くから伝わる伝承となぞらえて、アメリカ人としてのアイデンティティを探究していくコンセプトは批評筋から絶賛され、「ミス・アメリカーナ」と呼ばれるように至った。
こうしてコロナを乗り越えた彼女にはもう国内外で敵無しといっていいほどの人気を誇り、直近のライブでは歴代最高の興行収入を叩き出したそう。2024年現在、彼女のファンダムの規模は世界一であり、彼女の発言次第で大統領選にも影響されるのではという心配もなされるそう。
同年のスーパーボウルでは、「テイラー・スウィフトがトラヴィス・ケルシーに祝福のキスをする」場面が多くの人々の記憶に刻まれ、彼女が現代のアメリカの歴史の主役であることが改めて確認された。アメリカのアイコンとまで祭り上げられた彼女は今後どこへ向かうのだろうか。楽しみである。

24位 デヴィッド・ボウイ

時代の先を見つめ続けた、カメレオン・ロックンローラー。
一応、きらびやかなメイクアップと奇抜な衣装でグラムロックをけん引した時期が最も知名度が高い。
特にアルバム「ジギースターダスト」は、ロック史におけるコンセプトアルバムの傑作のひとつとして評価され、その後に行われたツアーでは、ロックが視覚芸術としても高い水準に達したことを示すパフォーマンスが披露された。

通常であれば、ここでキャリアのピークを迎えるべきところだが、ボウイはその後も次々と斬新な音楽を生み出す。ベルリンではブライアン・イーノと共にエレクトロニック・サウンドを探求し、ナイル・ロジャースのプロデュースの元、ポップスターとして自身を演じ切る。
ひとりの人間によるキャリアとは思えないほど多様な音楽スタイルだ。

目まぐるしく自身のペルソナを変え続けるその挑戦的な姿勢から、彼は「カメレオン」と例えられることが多い。どの時代においても、ボウイは一貫性を保ちながらも、常に未来を示唆する存在だった。
特に『LOW』をはじめとする通称「ベルリン3部作」では、冷ややかでエレクトロニックなロックを展開し、パンク以降のニューウェーブへの流れを予知した。ポップスターとなった後も、ボウイは再びノイジーなサウンドへと回帰し、これはオルタナティブ・ロックを予言していたとも言われる。1990年代の『Outside』や『Earthling』などのアルバムでは、インダストリアルサウンドを追求し、ますます謎めいた存在へと進化したのだ。

また、ジェンダーの流動性やロックとエレクトロニックミュージックの混合、さらにはインターネットの改革の力といった分野に、いち早く目をつけメインストリームに持ち込むことで、常に挑発的なアイデアをもたらし続けたことが1番偉大な功績かもしれない。
そしてその旺盛な活動意欲はキャリアの最後まで失われることがなく、30年以上にわたってほぼ毎年のようにアルバムをリリースし続けた。

2013年の『The Next Day』と2016年の『Blackstar』は、ジャズとロックの融合を21世紀のモダンな感覚で実現し、彼が亡くなる直前まで現状維持をやめなかったことを証明している。

もちろんただ先鋭的な姿勢だけでなく、キャリア初期の「Hunky dory」なんかは彼の作曲能力の高さが見られるし、「Diamond dogs」辺りの熱気溢れるロックもありとあらゆる角度から語れる多面的な魅力は、死後もなおロックキッズの心を掴んで離さない。

23位 レイ・チャールズ

「ソウル」という一大ジャンルの開祖として、その名を歴史に刻んだ漢。
彼の音楽は、ゴスペル、ジャズ、R&B、ブルースといった黒人音楽の豊かな伝統対する深い理解を基に、ソウルミュージックの誕生に重要な役割を果たした。特に、ジャズ由来のスウィンギーなノリや、ゴスペル由来のコールアンドレスポンスは、彼の音楽の中核をなしており、ソウルというジャンルを形作る上で不可欠な要素となっている。
そしてそれらはやがて、単なる娯楽ではなく、アフリカ系アメリカ人の精神性と文化的アイデンティティを反映し、音楽を通じてその存在を力強く表現する手段として発展していく。
つまり彼の存在は、黒人音楽が持つ深い表現力と芸術的価値を白人社会にも認識させ、音楽を通じた文化的交流を促進したのだ。

そしてその志は音楽的な活動として表現していった。彼の情緒豊かな歌唱は、単なる技術の域を超え、聴く者の心を深く揺さぶる。その力を持ってして、彼はオリジナル曲だけでなく、数々の名カバーも残しており、どの曲でも独自の解釈を加え、その感情を豊かに表現している。このため、彼のカバーは原曲に新たな生命を吹き込み、新たなスタンダードを打ち立てることが多かった。

その実力と存在感は「We Are the World」でトリを務めたという事実が物語ってる。あのメンツの中で違和感がなくトリを務めるということは、彼の音楽業界における影響力の大きさを物語っているのだ。

22位 クイーン

フレディ・マーキュリーの広い声域と圧倒的なヴォーカルパフォーマンス、ブライアン・メイの自作ギターによる重厚かつ繊細なオーケストレーション、ジョン・ディーコンのホットなグルーヴを秘めたベース、ロジャー・テイラーのパワフルなビートと美しいコーラスという4人の個性が結集した現在でも圧倒的人気を誇るバンド。

クラシック、ファンク、ロカビリー、シンセポップなどどんな曲でも作れる、ジャンルに縛られない器用な音楽性が最大の武器で、その集大成とも言えるのが、1975年のアルバム『A Night at the Opera』。
ロック史上最高傑作と名高い「Bohemian Rhapsody」が収録されたこの作品は精緻なサウンドメイクによる録音芸術という、クイーン流足し算の美学が存分に詰まってる。

そんな多様な音楽的素養に加え、4人の作曲能力は皆一流。デビューした1973年から、フレディの死によって活動停止する1991年まで毎年コンスタントに名曲を放ち続けてきた。その安定感これまで取上げてきたバンドやSSWと比べても別格のものだ。
1980年代以降は、アメリカでの成功を狙ってよりキャッチーで派手なサウンドへ方向転換する。
実際それで一定の成功を収めてるのだから、彼らの適応力に驚かされる。
70年代と打って変わった音楽性に批判の声も少なくなかったが、1985年の「Live Aid」での素晴らしいパフォーマンスは、そういった声を一瞬にして黙らせ、スタジアムロックの大御所としてポジションを確立。
フレディはこの時点でエイズを患ってたものの、その逆境からかますますパフォーマンスと歌唱力に磨きがかかり、それは死ぬ直前まで存在感を発揮し続けた。

彼らの唯一の弱点といっていいのが、後続のフォロワーが余りにも少なすぎることだ。マイ・ケミカル・ロマンスなどの例外はあっても、そのオンリーワンな万華鏡のような音世界は真似出来ないだけでなく、今のスマートなビート感覚から聴くと受け付けにくいものがあるのだろう。だがその実力は間違いなくレジェンドだ。

21位 ホーランドドジャーホランド

モータウンというレーベルがあった。これまで主に黒人層に楽しまれていたR&Bを、白人にも向けて発信し、ポップスとしての洗練された響きを持つモータウン・サウンドを確立し、音楽史に名を刻むスターたちを輩出したレーベルだ。スティーヴィー・ワンダー、マーヴィン・ゲイ、ダイアナ・ロス、マイケル・ジャクソンなど、多くの伝説的アーティストがモータウンから登場しており、総合的な影響力でいえば、それこそビートルズすら凌ぐのではないかと思うほど、黒人音楽の特異点である。

ソングライティングチームとプロデューサーとコーラス含むシンガーの役割をきっちり分業化し徹底することで楽曲の大量生産をするやり方は、その後のR&Bのほとんど主流のシステムであったし、今やジャニーズやKPOPに繋がってるとも言える。
そんなモータウンの成功を支えたのがホーランド=ドジャー=ホーランドだ。このソングライティングチームはモータウンの最大のヒットメイカーとして知られ、特にシュープリームスを担当し爆発的なヒットを放った。彼らが生み出した楽曲はアイドルポップスの偉大なるマテリアルであり、今に続くR&Bの原型である。
特に日本ではモータウンの楽曲のオマージュは至る所で見られる。例えばPUFFYの「愛のしるし」は「I can't help myself」のオマージュであり、嵐の「Happiness」は「You can't hurry love」含むモータウンビートを使用してる。
彼らを意識したことない人でも確実にH-D-Hの系譜は脈々と受け継がれてゆくのだろう。

20位 ボブ・マーリー

ジャマイカが生んだレゲエシーンのカリスマ的存在であり、音楽史においても不動の地位を築いたアーティスト。
彼の音楽は、スカやロックステディから派生したレゲエのグルーヴをさらに独自のものに発展させ、ラスタファリズムの思想に基づいたメッセージ性の高い歌詞と、粘りのあるグルーヴで、国境や人種を超えて熱狂的な支持を集めた。

彼の哲学ともいえるラスタファリ主義は、アフリカ、政治、愛と平和に関する深いメッセージを含んでおり、その生き様もまた、彼の音楽と同様に強い影響力を持ち続けている。
さらにメッセージ性だけでなく、甘く温かな歌声や、統制された鉄壁のバンドサウンドも彼の魅力のひとつ。

彼が活動していた時代、ジャマイカでは政治的な対立が激化し、暴力的な紛争が多発しており、そういった社会の混迷を和らげるため、彼はスマイルジャマイカコンサートを計画しましたが、開催直前に自宅で襲撃を受けてしまう。しかし、彼はひるむことなくコンサートに出演し、観客を熱狂させたこの出来事は、マーリーの強い意志と信念を象徴しているといえる。

一方で、マーリーは笑顔でマリファナを吸う平和活動家としてだけでなく、大きな怒りを抱えていた。「Small Axe」では植民地主義を、「Them BellyFull (But We Hungry)」では貧困を、「Get Up, Stand Up」では政治的行動権の必要性を訴え、そのスピリットは、パンクロックの精神とも深く結びつき、後世に多大な影響を与えている。

また、ジャマイカとの強固なつながりを持ちながら、さまざまなブラックミュージシャンのスタイルを踏襲していたことでも知られ、その精神は後のレゲエとHIPHOPとの融和性に通ずるものがある。1981年、36歳の若さでこの世を去ったが、彼の遺した楽曲は今もなお人々を鼓舞し続けている。

19位 ビーチ・ボーイズ

ビーチ・ボーイズは、初めはサーフロックバンドとしてデビューし、その爽やかなコーラスワークで「陽気なアメリカの象徴」として瞬く間に人気を博す。しかし、後の内省的で複雑な作風は、アメリカが抱えてきた幻想や闇を浮き彫りにし、時代の変遷と共に彼らの音楽は深化していった。

彼らのサウンドは、"Surfin' U.S.A."や"I Get Around"といったサーフミュージックから、「Surf's up」に代表される内省的な曲まで、多岐にわたり、それらはほとんどブライアン・ウィルソンによって手掛けられた。

ビートルズと肩を並べるほどの作曲能力を持ち、その才能は1966年にリリースされた『Pet Sounds』で最高潮に達した。このアルバムは、ポップミュージックが単なる娯楽から、ノスタルジーと夢想的なイメージを描き出す神秘的なバロックポップへと変貌を遂げた象徴的な作品であり、フィル・スペクターの「ウォール・オブ・サウンド」に影響を受けたブライアンのアレンジは、誰も聴いたことのないような複雑さと精緻さをロックミュージックにもたらす。

この時期のブライアンの繊細で破綻寸前のメロディーは今なお強いインパクトを放ち、後続のミュージシャンたちに多大な影響を与え続けている。
ブライアン・ウィルソンの精神状態が悪化し、長い隠遁生活に入ってからは、他のメンバーの作曲能力も開花し、その独特な音楽はその後の宅録ミュージシャンたちからも再評価されている。

このように音楽を多様に変化させていった彼らであるが、あまりに美しいコーラスワークは活動全体を通して一貫しており、ここまで綺麗なハーモニーを聞かせられるのは歴代通しても中々居ない。

18位 マーヴィン・ゲイ

モータウンは同時期に2人の天才を世に送り出した。1人はスティービーワンダー、もう1人がマーヴィン・ゲイだ。
確かにマーヴィンは名曲の数やキャリアの安定感はワンダーに比べると劣っているものの、流麗なストリングスや一人多重コーラスなどを用いたアレンジメントの秀逸さと色褪せなさは歴代のR&Bアーティストの中でもずば抜けている。
もちろんシンガーとしての才能もピカイチで、メロウなR&Bシンガーの系譜の原点にして頂点ともいうべき実力を誇る。

マーヴィンの産んだ発明は大きく分けて2つある。
1つはアルバム『What's going on』だ。
モータウンの商業主義的な枠組みから脱却し、音楽に芸術性と政治的メッセージを込めた「ニューソウル」のムーブメントを切り開いた作品であり、ベトナム戦争や環境問題、人種差別など当時の社会問題を取り上げ、R&Bというジャンルで深いメッセージを伝えるという新しいアプローチを生み出した。
それは天才スティービーですら遅れをとっているくらい早すぎる発明だった。
2つ目は、1982年にリリースされた楽曲『Sexual Healing』では、TR-808というドラムマシンを大胆に取り入れたことが挙げられる。人間のビートでしかR&Bのグルーヴは生み出せないと考えられていた当時の業界に新たな方向性を提示し、後のメロウなブラコンサウンドのフォーマットを確立した。
この技術革新は、その後の音楽プロデューサーやアーティストたちに多大な影響を与え、今日でもその影響は続いている。

この2つの発明はR&Bの歴史の中で重要すぎる転換点であり、これだけでこの順位になるのにふさわしいといえる。

17位 カニエ・ウェスト

改名や差別発言などで常にゴシップが絶えない人物として知られているが、彼のトラックメイカーとしての才能は、歴代でもずば抜けていてるのは言うまでもない。そのクリエイティビティと商業性を極めて高い次元で成し遂げる力は、70年代のスティービーや80年代のプリンスにも匹敵する。
彼はDe La Soulのようなユーモラスで奇抜なスタイルを持ちながらも、J Dillaのようにジャンルを超えたアプローチで、音楽をコラージュアートのように組み立てる感覚を持ち合わせており、自身の異常なまでの自己顕示欲や内省的な要素を大胆にアートへと昇華させ、ジャンルを超えた多様なリスナー層を魅了する存在となった。
その発想力はサンプリングを超え、時にはオーケストレーション、さらにはエレクトロまで融合させHIPHOPの新たな可能性を提示してきた。
オートチューンを大胆に使用したラッパーも思えば彼が初かもしれない。

HIPHOP業界では、今も昔もギャングスタ文化が主流を占めてるが、カニエ・ウェストほどナード的な感性で成功を収めたアーティストは他におらず、より個人的で深い精神世界を表現している。特に、『College Dropout』から『Yeezus』に至る一連のアルバムは、HIPHOPの枠を超え、ロックリスナーからも熱狂的な支持を受けている。

特に『My Beautiful Dark Twisted Fantasy』では複雑で壮大なサウンドスケープと、自己を反映したリリックを織り交ぜた一大叙事詩を創り上げ、テイラースウィフトに暴言を吐き炎上した直後であるにも関わらず、pitchforkが10点満点をつけてしまう伝説を残した。

人間性のせいで、レジェンド感は薄れるが才能だけで見ればやはり歴代のhiphopアーティストの中でも随一だ。

16位 レッド・ツェッペリン

ロック史において未だに比類なき存在感を放つバンド。最強のボーカリスト、ロバート・プラントを筆頭に、ギターの魔術師ジミー・ペイジ、リズムを支える圧倒的なベーシスト、ジョン・ポール・ジョーンズ、そして雷鳴のようなドラムを叩き出すジョン・ボーナム。これら4人に集まって鮮烈な音楽を生み出した。

思えば1960年代後半、音楽シーンは大きな変革期を迎えていた。ビートルズが生み出した前衛的なサイケデリックロックと、ローリング・ストーンズが回帰したブルースロック。この2つの要素が奇妙に混ざり合い、より重厚で激しい表現へとシフトしていく。それが『ハードロック』という新たなジャンルの誕生だったわけだ。そして、クリームやジェフ・ベック・グループといった同時代のハードロックバンドがシーンを賑わせていた中で、レッド・ツェッペリンは頭一つ抜けた存在として君臨していくことになる。

彼らが他のバンドと一線を画していた理由は、何と言っても個々のメンバーの圧倒的なパフォーマンススキルの高さで、ジミー・ペイジのリフは、ギターの常識を覆すような独創性と力強さを持ち、ロバート・プラントのボーカルは、その声だけで楽曲にドラマを与えるほどのパワーを誇る。そこにジョン・ポール・ジョーンズが楽曲に深みとグルーヴを与え、最後にジョン・ボーナムが、全体のサウンドに爆発的なエネルギーを注ぎ込んだ。

また、中期以降は単なるブルースやフォークだけでなくケルト音楽やインド音楽へと幅を広げそういった姿勢がハードロックバンド以上の存在へと押し上げている。

さらに、ツェッペリンの影響力はロックに留まらず、ヒップホップやエレクトロニカといった異なるジャンルのアーティストからも多大なリスペクトを受けている。たとえば、『When the Levee Breaks』のドラムビートは、ヒップホップ界で広くサンプリングされており、その存在感は現代の音楽シーンにも色濃く残っているのだ。

15位 レディオヘッド

孤高のカリスマバンド として名声を欲しいままにしてる彼らは、その高いインテリジェンスと音楽性を持ってして、耳の肥えたリスナーすらも唸らせる革新的なサウンドを提供し続けてる。思えば彼らは最初からどこか一味違うバンドだった。
デビュー曲『creep』でボーカル トム・ヨークが吐き出し続ける自己嫌悪や疎外感は、世界中の陰キャ達の心を一気に掴み、同時期に興隆した脳天気なブリットポップとも一定の距離を置きつつ 、2ndアルバム『the bends』でオルタナロック界の頂点へとかけ登る。
そして傑作『ok computer』では大胆に電子音楽を導入し、その絶望的な世界観はブリットポップの狂騒に終止符を打つものだった。
そして4thアルバム『kid A』で前2作で獲た鉄壁のギターサウンドをまさかの放棄し、アンビエントや電子音楽としてのロックを追求していく。
当時の彼らの破壊と再生ぶりは中期ビートルズなどと比較できる程の驚異的な進化速度だった。

穿った見方をすれば、彼らの活躍によってロックバンドが求められるハードルがぐっと上がり、そのせいでPitchforkなどが絶賛するような訳の分からん前衛音楽だったりインディロックが増える要因にもなったといえるのかもしれない。
実際、初期のコールドプレイやミューズもバリバリ彼らに影響されていたし、エモやニューメタルなんかも純粋に評価してはいけない風潮も確かに存在していた。
偶然か必然か、その頃を境にヒップホップ/R&B勢のセールスが急激に伸び始め、ロックは長い暗黒時代を迎えることとなる…。

14位 ケンドリック・ラマー

「歌は世につれるが世は歌につれない」というなんとも虚しい言葉があるが、「世が歌に連れる」という世にも珍しい現象を巻き起こしたのが、このケンドリックという男だ。

彼はデビューからわずか数作で、その名声を確立した。『good kid, m.A.A.d city』と『To Pimp a Butterfly』の2作は、彼の持つ鋭い観察眼とリリシズムが結集されたものであり、現代社会の病理を鮮烈に描き出しており、リリース直後から批評家やファンの間で絶賛され、ケンドリックは瞬く間に東海岸の王様として、さらには黒人アーティストの中でも随一の発言力を持つ存在となる。

圧巻のストーリーテリング能力、卓越したライムとフロウ、ビートの選び方…どれをとっても1級品のスキルで、他のレジェンドを凌駕するくらいに、ラッパーとして余りにも図抜けている。
さらに自分を極限まで追い込むかのようなストイックさがあり、リリック内にも時折現れてる。

前述の通り、ケンドリックの社会的な影響力も特筆すべきもので、楽曲『Alright』は、ブラック・ライヴズ・マター(BLM)運動のテーマソングとなったり、アルバム『DAMN.』は、ピューリッツァー賞を受賞したりしている。そういった社会運動家の側面は2pacにも通ずるところがある。

かと思えば2024年現在にドレイクとビーフ合戦をやり合うなど野性味溢れる彼もまた魅力である。

13位 ビヨンセ

現代に現れた最強の女帝、ビヨンセ。
彼女はアレサ・フランクリンやホイットニー・ヒューストンといった過去の黒人ディーヴァと比肩する存在感を誇り、その作品群はスティーヴィー・ワンダーやプリンスと並び称されるほどの質と影響力を持つ。
ディーヴァの立場から黒人音楽の限界を追求し続ける彼女は、長い音楽史でも異質な存在だ。実際、グラミー賞の受賞回数は、歴代最多の32回に達しており、これは音楽業界における彼女の地位と影響力を象徴している。

さらに、そのキャリアの「長さ」にも驚かされる。売れ続けた年数で言えば、前述のテイラー・スウィフトをはるかに凌駕する24年間(ディスティニーズ・チャイルド時代を含めて)にわたってトップに君臨し続けており、もはや異次元である。
その存在感はデビューシングルの「Crazy in love」の時点から既に確立されており、順調に2000年代のディーヴァとしてのキャリアを歩む。
2008年に出したシングル「Single Ladies (Put a Ring on It)」で初めてフェミニズムや女性のエンパワメントを主張し、その後のキャリアを見ても彼女にとって大きなターニングポイントとなる。
そしてジェイZとの間に娘ブルー・アイヴィーが誕生して以降、彼女は楽曲のプロデュースの主導権を自身が握るようになり、ここから彼女のクリエイティビティが覚醒していく。

というのもこの時期、彼女はParkwood Entertainmentという自身の会社を設立し、音楽の制作からビジュアルコンテンツの企画、ツアーの運営まで、全ての面で自ら主導権を握ることが可能になったのだ。

2013年のアルバム『Beyonce』はエレクトロビートを取り入れつつ、ダウンテンポのヒップホップナンバー「Petition」などの内省的で個人的なメッセージが込められた曲が並ぶ。パーソナルと社会との対比を意識した構成が絶妙だ。

そして2016年の傑作『Lemonade』で、とうとうポップアーティストから文化的に重要なアイコンへと成長を遂げる。
最新のR&Bのみならず、ロックやカントリー、さらにはBLM運動に共鳴するメッセージを含むこのアルバムは、ジャック・ホワイトやヴァンパイア・ウィークエンド、ケンドリック・ラマーなど多様なアーティストが参加するという黒人音楽の威信をかけた挑戦であった。

続く『Renaissance』はコロナ禍からの解放をハウスミュージックへの深い理解と極めて複雑な多重ハーモニーを持ってして表現し圧巻の完成度を誇った。
とうとう40歳を超えた最新作『Cowboy Couture』ではカントリーミュージックを黒人の視点から再定義しようとする野心を見せつけてる。もう敬服に値するばかりだ。

12位 ドクタードレー

HIPHOPの中で最高のアーティストを決めるのは難しい。ただでさえトラックメイカーとラッパーの2つの役割があるだけでなく、様々なグループ同士が相互に影響を及ぼしあって発展してきた文化であるためだ。
しかしその中でも、ドクタードレーの業績は破格だろう。NWAへの加入、Gファンクの確立、スヌープ・ドッグ,2pac,エミネム,ケンドリック・ラマーのフックアップ……彼のキャリアはそのままHIPHOPの歴史になりうるといっても過言では無い。

ドクタードレーの名作『The Chronic』と『2001』は、彼がいかに業界のトレンドを形作ってきたかがわかる2枚だ。『The Chronic』で確立したGファンクという新たなサウンドは、過激なメッセージであるギャングスタラッブを抜けた先の享楽的で退廃的な世界観を確立した。妖しいシンセサイザーの音色はその後R&Bにも持ち込まれる。続く『2001』は、Gfunkの感覚を踏襲しつつアナログな音使いで再びシーンの最前線に躍り出た。

一流は人を残すという格言通り、ドレーもそのプロデュース能力で数多くのラッパーを排出した。スヌープ・ドッグや2Pac、エミネム、ケンドリック・ラマーといった凄まじい面子だ。

そしてその人脈と実績は2022年、スーパーボウルのハーフタイムショーのあの一連のステージをみて再認識させられた。彼はやはり偉大なる西海岸の帝王なのだ。

11位 ジミ・ヘンドリックス

『天才』なんて呼ばれるミュージシャンは腐るほどいるが、ジミヘンほど『天才』という言葉が似合うアーティストはいないんじゃないかな。
エリック・クラプトンに「俺は失業する」と言わしめたり、デビュー直後にポール・マッカートニーの推薦で野外フェスのトリを務めたり、とにかくジミヘンの天才エピソードは枚挙に暇がない。
当然彼のギターテクニックは、歴代のギタリストの中でも群を抜いており、その独創性と革新性は他に追随を許さないほど。
フィードバックの利用やトレモロアームの駆使など、彼が編み出した数々の画期的な奏法は、ロックミュージックの表現の幅を大きく広げた。彼はまさにサイケデリック・ロックの体現者として、音楽の新たな可能性を切り開いたのだ。
もし彼がいなかったら、せいぜいギターの表現はブルースの再解釈かサーフロックのような音で終わってたのではないだろうか。そう考えると、ハードロック、メタル、なんならシューゲイザーを影響源とする現在のインディロックまでありとあらゆるギターが不可欠なジャンルがなかった可能性さえある。
彼の活動期間はわずか3~4年という短いものだが、もはや彼の影響は計測不可能といってもいいだろう。

10位 アレサ・フランクリン

類まれな才能とカリスマ性で、歴代のアメリカ人シンガーの中でも圧倒的な存在感を放つアレサ。その高らかで力強い声は、ただの歌声を超え、魂そのものを表現しているかのようで、彼女のダイナミックなグルーヴ感も表現力は、どんなリスナーでもハッとさせ、心を揺さぶる。

そしてアレサの真の偉大さは、彼女が他人の曲をまるで自分のもののように歌いこなすその技術にある。通常、他人の曲をカバーするというのは、オリジナルのイメージが強く残るものだが、アレサの場合、その曲がまるで彼女のオリジナルであったかのように聴こえてしまうのだ。たとえば、元々はオーティス・レディングの曲であった「Respect」は、アレサによって完全に再構築され、彼女の代表曲となってしまった。この曲は、単なるカバーを超えて、女性の地位向上のアンセムとして広く知られてる。

他にも、サイモン&ガーファンクルの「Bridge Over Troubled Water」や、ビートルズの「Eleanor Rigby」など数多くの名曲を、自分自身の歌として確立させている。
彼女の声はまるでブラックホールのように、全てを吸い込んでしまうほどの力があるのだ。
その声は、抑圧に対する抵抗のシンボルであり、彼女自身が持つ強い信念と結びついて、聴く者の心に強く響き渡る。

エラ・フィッツジェラルドやビリーホリデイなどの前例はいたものの、彼女はディーヴァ(歌姫)という異質な地位を確立し、その系譜はホイットニーヒューストンやビヨンセに続いてく。

ちなみにビルボードR&Bチャートでは1位を20回記録しており、これはマライア・キャリーの23回に次ぐ記録である。グラミー賞では「ベストR&Bボーカルパフォーマンス」を11回受賞しており、そのうち1968~1975年において8連続受賞を成し遂げてる。シンガーとしてこれ以上ないくらい圧倒的な売上と評価を得ているのだ。

9位 ニルヴァーナ

ニルヴァーナ以前に、いわゆるオルタナティブロックというジャンルは確かに存在していた。
だが、それらがチャートの首位を争うほどメインストリームに喰い込み、80年代の余波を垂れ流しにしていた商業的なポップスを蹂躙してしまったということに大きな意味がある。
しかも当時ほぼ無名だったシアトルのバンドが。

活動期間はわずか7年、たった3枚のスタジオアルバムでロックの歴史を永遠に変えてしまったニルヴァーナ。
彼らのサウンドは静と動を巧みに使い分けた緩急が特徴であり、特にセカンドアルバム『Nevermind』は1990年代を定義する音楽として圧倒的な影響力を持っている。

『Nevermind』の成功は、ポップカルチャー全体を瞬時に一変させた。ビートルズ由来のポップなフック、かつてのメタルやハードロックの重厚感、ポストハードコアから得たノイズ、尽きることないルサンチマンが融合し、果てしないパワーとなって当時の若者に衝撃を与えた。今まで見向きもされてなかったアンダーグラウンドのシーンが一気にメインストリームに押し上げられ、ラジオのプレイリストからファッションまで全てに変革をもたらした。
もっとも象徴的な事件は、1992年1月に全米チャートでマイケル・ジャクソンを抑えて首位に立ち、その衝撃は今でも感じられるほどです。
80年代のキング・オブ・ポップを真っ向から倒した彼らは正に次世代のカリスマとして祭り上げられる。

事実、フロントマンであるカート・コバーンは、破天荒な生き方とカリスマ性で多感な若者の憧れだった。ドラッグ問題やコートニー・ラブとの波乱万丈な結婚、さらにはアクセル・ローズとの確執など、常にスキャンダルに事欠かさなかった。だがそれはセンシティブな彼にとって、とてつもないプレッシャーとなり、1994年4月、コバーンは27歳で自ら命を絶ってしまう。
その悲劇的なストーリーも含め、その影響力は衰えることなく、レディオヘッドからビリー・アイリッシュに至るまで、後に続く多くのアーティストに道を切り開いた。それは彼らが単なる一過性の音楽でないことを証明している。

8位 プリンス

キング・オブ・ポップ マイケルジャクソンの最大のライバル。音楽の歴史において、プリンスほど多才かつ個性的な存在は他に類を見ない。
そもそもデビューの時点で作詞作曲、楽器演奏、プロデュースのすべてを一人で手掛けるという破格の才能を周りに見せつけていた。

プリンスとマイケルは両者共にジェームス・ブラウンをルーツとし、ファンクやR&Bを基盤にしながら多様なジャンルを取り入れたが、そのアプローチは対照的だ。
マイケルがR&Bを全人類的なキャッチーさを持つポップスへと昇華させたのに対し、プリンスはブラックミュージックをリズム、ハーモニーといった具合に構造的に解体させ、R&Bの持つ可能性をディープに追求し続けた。

きっと彼にはジャンルといった概念が存在しなかったのだろう。
R&Bを核にしながら、ロックとの融合やエレクトロとの接近など、どの発想もエポックメイキングで、物議を醸し続けた。
1984年のサウンドトラックアルバム『Purple Rain』は、プリンスを単なるカルトスターから、史上最も異彩を放つアーティストへと押し上げた作品であり、異色なはずの収録曲の半数がトップ10にランクインしたことも踏まえて、ジャンルやジェンダーの壁を軽々と超越するプリンスの妙技が凝縮されている。
従来のファンクアプローチに加えて、そこにサイケデリック・ロックやニュー・ウェイヴ、ポップスのエッセンスを大胆に融合させ、1980年代的なデジタル・サウンドでその表現をまとめ上げるスタイルは彼の故郷ミネアポリスの名を冠して「ミネアポリス・サウンド」と呼ばれ、後のニュージャックスウィングにも繋がってくる。

だが、この作品はプリンスが70年代のワンダーに匹敵するほどの評価を得る序章に過ぎない。
次作「Around the world in a day」ではやっと作りあげたはずのミネアポリスサウンドを放棄し、サイケデリック味を帯び始めた。
かと思えば、『kiss』でリズムの骨格をむき出しにしたミニマルなビートで再び音楽性を変える。そして『sign of the times』で密室を感じさせる音響とそれに反する豪華絢爛な音使いで彼はひとつの高みへと到達する。
この頃のプリンスは「どこまで引き算が出来るか」「どこまで前作と違った作品が作れるか」という常人離れしたストイックさとそれに対応出来る発想力を持ち合わせており、もはやスターを超えて孤高の求道者のような佇まいすら見せていた。

こうした彼の活動はブラック・ミュージックに多様な深みをもたらし、それは今のインディ×R&Bの源流といっても過言ではなく、影響力は計り知れない。

7位 スティービーワンダー

天才作曲家、稀代のシンガー、万能のマルチプレイヤー…ワンダーの才能はどの角度からも語れて、もはや存在そのものが『wonder』な人物だ。

直情的なロックンロールやソウルが流行した後、リズムやコード進行が複雑化する中、彼はテンションコードやカッティング、16ビートを巧みに組み合わせ、メロウでファンキーなソウルというトレンドを確立した。

その作曲能力はロックが業界の幅を利かしていた70年代に、R&B代表として1人で孤軍奮闘できるくらい圧倒的。
ソウルだけでなく、時にはフォーク、時にはファンクと音楽性を自由自在に操り、そのどれもが今でもスタンダード・ナンバーとして親しまれている。

歌唱力も非常に高く、その広い音域と豊かな表現力は全てのシンガーの理想的な歌唱といってもいい。

ニューソウルムーブメントに触発された『Talking book』から『Songs In The Key Of Life』の4枚は彼の才能を余すことなく凝縮したアルバムで、もはや世界観どころかひとつの世界を作り上げている。ここまでの高みに達したソングライターはそれこそレノンマッカートニーやブライアン・ウィルソンくらいであろう。
それは単にメロディの豊かさだけでなく、歌詞の面から見ても社会問題に対しての鋭い視点を持ってたことが伺える。

80年代に入ると、イノベーターとしての役割は後輩に席を譲り、自身はそのポップセンスを活かして完成度の高いブラコンナンバーをいくつもチャートに送り込んだ。また、ポールマッカートニーの共演など広い人脈を使って、ブラックミュージックの地位向上に大きく貢献した。

こうして彼は溢れんばかりの才能を持ってして、白人音楽と黒人音楽の間にあった壁を緩和し、双方から愛される存在となったのだ。

6位 ジェームス・ブラウン

キングギドラの"公開処刑"という曲のバースに「もう一度ジェームス・ブラウンから聴け」という部分があるように、HIPHOPのルーツをたどっていくと、必ずJBという存在にぶち当たる。
JBは最初、ソウルシンガーとしてデビューした。
当時から彼はスター歌手としての街道を登っていたが、ある頃から彼の望む音楽性はソウルやR&Bでは実現できないと確信し始める。
あの如何にも暑苦しい顔から察する通り、ライブも歌声もとにかくダイナミックで暑苦しい。
そんな彼の望む音楽性も、さらなる暑苦しいものだった。とにかくドラムとギターでリズムを過度に強調し、展開もなくループのみ。
だけど、その分高揚感が生まれる彼独自の音楽を、人々は「ファンク」と名付けた。
特にファンクはアフリカ系アメリカ人のコミュニティで絶大な人気を誇った。やがて彼らはパーティーの最中、ファンクを流し続けるようになる。なんならドラムの音だけ抜き取ってそれをループするという独自の文化まで生成されていく。これがHIPHOPの誕生だ。
もちろんそれだけではない。60年代から70年代にかけて、リズムが8ビートから16ビートへ複雑に変わっていく過程でJBは真っ先に最適解を見つけ出したのだ。それもスティービーワンダーやAORのミュージシャンたちよりもよっぽど早くに。彼ほど黒人アーティストの中で先見の明と影響力があった者はいないのかもしれない。

5位 エルビス・プレスリー

『キングオブロックンロール』という異名が象徴するように、ブルースとカントリーが絶妙に融合したジャンル'ロックンロール'の誕生に多大なる貢献を果たした。セクシーで大胆なパフォーマンス、タイトなジーンズや革ジャケットを身にまとい腰を激しく振るパフォーマンスは50年代の若者の反抗心と呼応するかのように、爆発的な人気を放った。彼の衝撃は当時ティーンだったジョン・レノンやボブ・ディランすら虜にして見せた。
そして何よりもヴォーカルである。黒人由来の抜群のリズム感、白人由来の音域と表現力と、ほぼ全ての歌唱法を一通り会得している。エルヴィスを前にして存在感が薄れないシンガーはほんのひと握りだろう。実際、人気が衰えていた1960年代以降においても、ことライブパフォーマンスに関しては絶賛の嵐だった。
その人気はアメリカにおいて圧倒的で、なんと5億枚以上のレコードを売り上げている。
かつてのカーター大統領も彼をアメリカの活力、自由、気質を世界の人々に植え付けるシンボルとみなしており、文化的にみても、個人の力量でみても、文句はつけられまい。

4位 ローリング・ストーンズ

1964年にデビューし、未だに現役とかいう訳の分からないバンド ストーンズ。
彼らの歩みは、ライバルであるビートルズとはまるで正反対の道を歩んできた。
ビートルズがその洗練された紳士的なイメージで世界中のファンを魅了し、音楽の革新を推し進める一方で、ストーンズは荒々しい不良のようなキャラクターで登場し、ブルースとカントリーのエッセンスを自らのサウンドに取り入れていった。
特にブライアン・ジョーンズのマルチプレイヤーぶりは圧巻で、ギターだけでなくシタール、琴、マリンバ、ダルシマーなどを駆使し、ストーンズの音楽に多彩な色合いを加えた。
その後もビートルズがロックの可能性を限界まで広げ、音楽の新たな地平を切り開いていったのに対し、ストーンズはアメリカの伝統的なルーツ音楽に深い敬意を払い、その探求を続けてきた。ビートルズがライブ活動を引退する一方で、ストーンズはライブパフォーマンスに対する情熱を絶やすことなく、観客を魅了し続けている。
スタジオ録音はあくまで中間地点であり、ライブパフォーマンスにて音楽が完成するという価値観は、活動ごとにスケールアップし、それは今日のアリーナロックの基盤を築いたといえる。いわゆるライブが上手いアーティストの走りであり、そのステージングの旨みはエアロスミスやACDC、はたまたガンズ・アンド・ローゼズにも脈々と受け継がれている。

もちろんビートルズの対比抜きでも、ミックの妖美なボーカルパフォーマンス、キースの一撃必殺のリフ、チャーリーの小気味いいビートは数々の名曲を生み出してきた。サイケのムーブメントから脱しオンリーワンの表現に磨きをかけた『Beggers Budget』〜『Exile on main St.』の4枚は彼らの黄金期を象徴する作品群だ。
ブライアンが脱退しミック・テイラーの加入後はキースとのギターの絡みに磨きがかかり、ドライブ感と構成力が加わった。
さらに70年代後半のディスコやパンクのムーブメントが起こったあとも、『miss you』にて彼らは巧みに消化して見せた。

その時代とどれだけ適応させるかの判断力はミックのビジネスの才覚によるものかは分からないが、全盛期がかれこれ20年近く続いたあとも
、未だに精力的に活動を続ける最長寿バンドとして君臨し続けている。
最新作『Hackney Diamond』を聴けば一発でわかる通り、今でも彼らは止まることなく「転がり続けて」いるのだ。

3位 ボブ・ディラン

ボブ・ディランの1番の凄さとして思い浮かぶのは「歌詞は詩になりうるのか?」という究極の問いに対し、彼が50年以上にわたり挑み続けてきたということだろう。60年代、ラブソングが大半を占めていた音楽シーンにおいて、公民権運動や反戦運動を題材にした彼のプロテストソングは、若者たちの心を掴み、瞬く間に時代の代弁者となった。しかし、それは彼のキャリアのほんの始まりに過ぎない。

ディランの歌詞は次第に多義的な隠喩と様々なキャラクターで彩られ、難解ながらも深く計算された言葉の連なりが、ファンのみならず熱心な考察者たちをも虜にした。それまでフォークミュージックに根ざしたスタイルで知られていた彼は、1965年に「Like a Rolling Stone」でエレクトリックサウンドへの転向を果たし、フォークファンに衝撃を与えた。以降、ディランは予想のつかないクリエイティブな自由を追求し続け、ビートルズやジミ・ヘンドリックス、ニール・ヤングといったアーティストたちにその先進的な方向性を指し示す。

またアメリカのルーツミュージックに密接に結びつきつつも、彼自身がエルヴィス・プレスリーやリトル・リチャードといったロックンローラーに心酔していたことも忘れてはならない。彼はロックンロールに眠っていた詩的な可能性を解き放つとともに、アーティストの私的表現から芸術性を引き出す作家主義的な考えを打ち出した。

そのの反逆精神は一貫して彼のキャリアに影響を与え続けた。「Subterranean Homesick Blues」においては、パンクの冷笑的な態度やラップの機転の利いたやりとり、インディーロックのDIY精神を予見させる要素が含まれている。しかし同時に、ディランはフォークからカントリー、ブルース、ゴスペル、ジャズ、ロックに至るまで、アメリカで生まれたあらゆる音楽を網羅し、その都度新たなサウンドを探求し続けた。

なにも順風満帆なキャリアというわけでなく、何度も浮き沈みを繰り返し、その度に這い上がってくる実力と、常に謎めいたオーラを纏いながらも人間の本質に迫り続けている詩的表現は、ノーベル文学賞受賞という栄誉にふさわしいものだ。

2位 マイケル・ジャクソン

説明不要。人類が生み出した最高のエンターテイナー。パフォーマンスにおいてはもはや語る必要がないだろう。全てのダンスグループは彼の背中を追い、彼がいたからこそK-POPのような総合エンターテイメントが成立していると言える。

ファンクやソウルに代表されるブラックミュージックの暑苦しい要素をあえて薄め、4つ打ちや16ビートのリズムの快楽に忠実なダンサブルなR&Bを作ることで、人種や性別の壁を超えた支持層を拡大し、R&B業界全体の影響力の拡大にもつながった。
確かにそれは彼の古巣 モータウンでも白人層にもリーチする形でR&Bをポップスに昇華したが、 MJの挑戦はさらに大胆なものだった。それは白人音楽の大胆な導入である。
1970年代末からロック・スターたちと接近し、ミック・ジャガーやフレディ・マーキュリー、ポール・マッカートニーとコラボしていた。『Beat it』や『We are the world』などの楽曲はその結実であり、単なる偶然の産物ではない。

アルバム『Thriller』では、表題曲を始め、Billie Jean"、"Beat It" など、ビッグヒットを連発。グラミー賞で8部門受賞し、販売枚数はギネス記録に残るなど、多くの記録を樹立した。

また、このアルバムは音楽を聴くものから観るものに変えた。彼のミュージック・ビデオは「ショート・フィルム」と呼ばれ、収録曲とユニークな映像が融合した新たなエンタメを作りあげたのだ。その存在は黒人差別という病巣に対して音楽で立ち向かった象徴的な意味を持っている。

その証拠に『Billie Jean』がMTVでヘビー・ローテーションされ、MTVの方針の撤廃を引き起こした。これはプレスリーやビートルズのようなブレイクスルーである。

1位 ビートルズ

20世紀 最重要アーティスト、ビートルズ。
もはや歴史的偉人のような扱いを受けている彼らだが、そのせいか「たくさん名曲を生み出したポップバンド」「世界中で愛されたアイドルバンド」なんて認識にとどめてる人が案外多いかもしれない。だがそれは勿体ないという感情まで生まれてしまう誤解だ。
ビートルズのデビュー前夜、エルヴィスらが生み出した『ロックンロール』という新しい音楽は絶滅しかけていたし、ロックバンドという形態もそれほど世間に認知されてなかった。

そんな状況の中、ビートルズは 自らのスタイルを「マージービート」として確立し、その絶妙なコーラスワークとエネルギッシュなビートで、わずか2年でアメリカの音楽チャートを席巻する偉業を成し遂げた。しかも当時では珍しい自作自演で。
ちなみに、その音楽性は、ロック/ポップにおける黄金の基本形として、ザ・モンキーズやジャクソン 5、ブルーノ・マーズらにまで受け継がれている。
間もなくして、彼らは「ビートルマニア」として知られる熱狂的なファン層を生み出し、翌年の1965年からはビートルズを模倣したイギリスのバンドがアメリカのチャートを席巻する。彼らはアメリカ中心の産業構造を完全に塗り替えたのだ。

しかし、ビートルズの革新はここで止まらない。

拡大するファンの熱狂から逃れるようにバンドはスタジオでの作業に没頭するようになった彼らは、『Rubber soul』、『Revolver』、『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』のたった3つの作品で楽曲、歌詞、アレンジメントの3つの分野で驚異的な発展を遂げる。

当時のモータウン的なサウンドや、フォークロックさらにはクラシック、実験音楽、インドの伝統音楽を柔軟に吸収し、驚異的な作曲能力でポップミュージックを新たな地平線へ導いた。
歌詞だって、ドラッグや東洋思想、意識の限界など、哲学的なテーマを扱い、タブー視されてきたものへ果敢な勇気で踏み込んだ。

それはただジャンル同士をマッシュアップするだけでなく、音響面でも業界を何十年も進化させた。
マルチトラックレコーディングの技術を縦横無尽に駆使したのはもちろん、「in my life」でのテープの回転速度を変えた録音や「Lucy in the sky~」でのボーカルエフェクトなどありとあらゆる箇所に実験精神が溢れてる。
さらにはアルバムジャケットや曲間までこだわっており、その手の込み具合はアルバムが芸術作品になりうることを証明した。
ヒット曲の寄せ集めではなく、全ての曲でひとつの物語を紡ぐという、コンセプトアルバムの誕生だ。
その圧倒的な進化速度と旺盛な実験精神は60年代の流れとピッタリ一致する。

こうして打ち立てたサイケデリックロックの金字塔3枚は、その当時盛んだったカウンターカルチャーの象徴となっただけでなく、デヴィッド・ボウイやエルトン・ジョンといった70年代の大スターから、90年代のブリットポップからも何度も参照され続けてる。

この頃から既に彼らをただの親しみやすいポップバンドとみなすものはおらず、新たな文化を切り開くイノベーターとして期待されるようになった。
だが『White album』ではリスナーの予想を再び裏切り、もはやアルバムにすら収まるかどうかの多様な音楽性を展開。その様子は混沌と呼ぶべきものだ。
だがその裏では『Hey jude』や『let it be』などの名曲をリリースし、前衛さと大衆性の両立を高い次元で両立する。
そして実質のラストアルバムである『Abbey road』では、もはや一つのバンドの中にとどまるのは不可能になった各メンバーの才能/作曲能力が遺憾なく発揮され、それぞれの特徴が曲ごとにはっきりと刻まれた作品になった。
それはかつてのレノンマッカートニーだけでなく、残りの2人も作曲を行うくらい各々の能力が成長していた。
バンドの終焉を目前に控え、メンバー全員が再び全力で向き合ったこの作品は、完成の域に達した絶妙なハーモニーや、臨場感溢れる演奏を聴けるエヴァーグリーンな傑作だ。

そして改めてこの輝かしいキャリアがたった9年間で行われたということが驚異的である。アーティストに低迷期は付き物だが、少なくともバンド活動期間中に彼らの低迷期は全く見当たらない。
それに、ライバルだって強力だった。ディランにストーンズにビーチ・ボーイズにジミヘン…。それらを寄せ付けずデビューから解散の9年間人気も実力も首位を独走し続けた。ここまで見てきた読者諸君はそれが如何に異常なことか理解して貰えると思う。



いやぁめちゃくちゃ長くなりました、拙い文章ですがかなりの力作なので、良ければハートマークを押していただけるとありがたいです。それでは次回の記事もお楽しみにしててください!

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