『マッドマックス:フュリオサ』を観てきました

こんにちは。
鴨井奨平です。

近所のシネコンで『マッドマックス:フュリオサ』を観てきました。
私は『マッドマックス』シリーズのファンで、これまでの全作品を観ています。
当然今回の作品も楽しみにしていまして、『怒りのデス・ロード』をしっかり復習して臨みました。
しかし正直に申し上げると、『フュリオサ』はあんまり私の好みではなかったです。そもそも前作品の『怒りのデス・ロード』の方が映画的に質が高かったと思います。とりあえず、『フュリオサ』は作品時間が長く感じました(2時間28分)。多分ですけど、これを2時間にまとめるだけで作品としてのクオリティがグッと上がったのではないかと思います。どうしてこんなに長い映画にしたんだろう……?

※以下、ネタバレあります




こんな生意気なことを言いつつ、
一方で見応えはかなりあった映画だったと思います。
その一例をあげるとすると、映画を貫く理論が興味深かったです。
『フュリオサ』も前作『怒りのデス・ロード』同様フェミニズムの理論で作られた映画でした。
『怒りのデス・ロード』では家父長制における「搾取し、支配する男(父)」・「搾取される女」・「被支配層の男」といった、主に三階層を明示的に描写し、「搾取される女」と「被支配層の男」の連帯の可能性をテーマとしていました。そして「被支配層の男」たるマックスを主人公としながらも、映画の「真の主人公」は「搾取される女」となる作りになっていました。私は『怒りのデス・ロード』はフェミニズムの理論を積極的に用いて作られた映画の中ではトップレベルに位置する作品だと思っています。
それに対応するように、『フュリオサ』にもフェミニズムの理論が用いられています。本作品は「女」たるフュリオサが主人公となっていますが、実際に深く描写されていたのは「父たち」でした。それが前作品と綺麗な対比をなしています。
作中、フュリオサの前には3人の「父」が現れました。そしてそれぞれが異なった性質の表象となっています。

イモータン・ジョー=女を搾取する存在としての父
ディメンタス将軍=悪しきリーダーとしての父
警護隊長ジャック=師としての父

そしてフュリオサはこの3人の父の存在を乗り越えて、より成熟した人間へと成長していく作りになっていると思います。警護隊長ジャックの敵であるディメンタス将軍を倒すことによって。(時系列的に後続の『怒りのデス・ロード』で)イモータン・ジョー殺すことによって、フュリオサは彼らを乗り越えていきます。
『フュリオサ』の軸は「父と子(娘)」の関係にあると見て良いのではないでしょうか。そして「父」について深く多面的に描いたことが『フュリオサ』の功績だと思います。
※ここにおける「父」とは、男性のことを指しません。「父」としての役割を担う存在のことを指します。

ところで、『マッドマックス』は次回作もあるんですかね。
個人的には、マックスを正真正銘の主人公に据えた前日譚的な作品を観たいです。そういう案も既に作り手の中には出ている、という話も聞きましたが。
その場合、フェミニズムの理論はどのように用いられるんでしょうか。次も使われると思うんですよね。
『マッドマックス』新シリーズのキーワードは「フェミニズム」だと私は考えるので。

今回はこのへんで筆を擱きます。

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