音楽の話

音楽の話をするのが苦手だ。

毎日聴いているのに。直感的には、むしろ大好きなのに。音楽の話を振られるたびに憂鬱だ。

なぜか。それは音楽の話題が、どうしても自分という要塞の向こうにいる人との会話になってしまうからだと思う。音楽は世界中の人と人を結ぶと言われているけれど、本当は人との間に壁を作るものでもあると思う。何度試してみても、やはり音楽の話をした後、私は悲しい。悲しみがまた、己の要塞をより高く、強固にしてゆく。

音楽はまず、直感に訴えるものだ。言語化できないエモーション。何かしら、説明できない感情の起伏や広がりを起こすもの。少なくとも、専門的に学んだことのない人間にとって、音楽とはそういうもの。

だからどうにも、共有できない。楽器か何かを演奏できれば違ったかもしれないけれど、その音楽の何が良いのかが説明できない。だから、音楽好きを自称する人やそれを学んだことのある人に「何が好き?」と聞かれれば、ひどく当惑してしまう。
というのも彼らの中にはたいてい、正しい音楽と正しくない音楽がある。期待外れの回答をされたら、「へぇそうなんだ(まぁそういうのもあるよね)」と優しく受け流すのが彼らの作法ではあるが、その論理とはすなわち彼らの考える良さ=正しさに、私の答えが当てはまらないということなのだ。だからひどく申し訳なくなってしまう。よく知りもしないのに、こんなこと言ってごめんなさい。私がこの音楽に感動したのは誤りでした。さっきあなたにした回答も妄言です。忘れてください。

とはいえ彼らの間でも、もちろんイデオロギー闘争の苦しみはあるだろう。でなければ数多のバンドが「音楽性の違い」で解散してきたという、素人の私ですら聞いたことのある話が成り立つ訳がない。でもそれは彼らが、何かしら自分の思う良さに対する信念を持っているからこそできること。自分の思った良さを全く説明できないどころか、その価値と世間体を天秤にかけて前者をいとも簡単に手放してしまうような私などには、むしろ羨ましいことです。

だから音楽を聴く行為は、内に籠る陰気な行為。そこに、人と会って話すときの楽しさや、そこから刺激を受けたり何かを学んだりする喜びは、成り立ち得ない。ひたすら自身の内面世界に耳を澄まし、その中に一番心地よく響く音を探すのが、私の音楽との付き合い方。側から見ればマスターベーション。けどまぁ、別にそれが悪いってわけでもないだろう。ただ私が時々、こういうやりかたの中で陶酔感に浸る合間に、ふとその状況をメタ的に捉えてしまっては、とても虚しくなるというだけだ。

卑小。こういうことを考えてしまう私は卑小。好きなら好きといえば良いのに。自分の感動に自信を持てば良いのに。尊敬するアーティストを、心から全力で応援すれば良いのに。それができる人の方が、多少盲信的だと周囲から言われていようとも、ずっと強いはずだ。どんな音楽の愛好家であっても、私は彼らのことを尊敬している。彼らには威厳があって、己の方向性を理解していて、だからこそ強い。

そんなことを言いつつ、私はよくライブハウスに行くし、ジャズバーにも行くし、カラオケの誘いには必ず乗る。直感的にはやはり、音楽がない人生はあり得ないと考えているから。でも、何の会員でもないし何のファンも自称しない。そうするのが怖いから。あえていろんなジャンルの音楽を漁っては、どの話題を振られても当たり障りのないことを言えるようにはしておく。同時に、そうすることで音楽における自分のアイデンティティを、いろんなものの間でフワフワ浮遊させておく。そのくらいが気持ち良い。何より私が傷つかない。そうさ弱虫さ。どうとでも罵れ。これが、音楽と縁を切らずに一生を送るためにたどり着いた、私なりの答えなのだ。

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