同性婚についての覚書

1 今月行われた共同通信の調査では、「同性婚に賛成する」という回答が6割を超えたそうである。
 https://news.yahoo.co.jp/articles/0880f987666d0ed03064d4e65ccce8fcf5d67a44

 私が大学生の頃を振り返すと、いわゆる「LGBT」の人達に対しては、「変わった趣味の持ち主」「変態」といった程度の理解で、彼らの存在がマスメディアに取り上げられることすら全くなかった。
 当時は「LGBT」という言葉もなく、「ゲイスタディーズ」という彼らの認知・理解を求める活動が学内でも細々と行われていたに過ぎなかった事を思えば、今日の「LGBT]の人々に対する社会の受容のあり方は隔世の感がある。
 この点、動物としての人間の5%程度は先天的な同性愛者だそうである。5%という数字は、多くはないが、決して無視できる数ではない。
 さて、私は制度としての「同性婚」には反対であるが、「LGBT」の人達も私と同じ人間である以上、彼ら彼女らの人権を認めるのは当然だという立場である。
 「同性婚」を認めるか否か?という議論については、「LGBT」の人達の人権についてのいくつかのレベルの異なった議論が錯綜して、きちんと整理されていないように感じている。
 一方で、「ヨーロッパでは同性婚が認められているから、日本でも認められるべきだ」。他方で、「同性婚は、伝統的な一夫一婦制という家族のあり方を根底から変えるモノであるから、容認できない」云々。
 ヨーロッパで認められているから日本でも認めるべきだ、という式の議論を聞いていると、いつまで日本は明治期以降の「欧米列強に追い付き追い越せ」式の発想から抜け出せないのだろうか?と悲しくなる。家族のあり方は国民の宗教観等と密接にかかわっているのだから・・・イスラム教国で一夫多妻制が認められている如く・・・、日本で婚姻システムをどうすべきか?は日本人が自分の頭で考えるべきだろう。
 その反面、「同性婚は一夫一婦制に反する」式の杓子定規な議論も、その正当化の根拠が「日本の伝統」にあるというのなら、「法的に」一夫一婦制が定められたのは明治期以降で、神代の昔から一夫一婦制だったわけではない事を考えるとそれほど説得力はないと感じる。

2 「同性婚を認めるか否か?」という問題を考える上で、「LGBT」の人達の差別に関わる人権問題をいくつかのレベルに切り分けて考える必要がある。
 まず、①「LGBT」の人達の「生きる権利」である。さすがにこれを否定する人はいないと思うが、ナチスドイツにおいては、同性愛は犯罪とされ、ユダヤの人々と同様に、同性愛者というだけでガス室に送られて、殺害されていた。
 「LGBT」の人々に対する差別が昂じれば、もっと言うと全体主義下の社会におけるように同調圧力が極端に高まれば、このようなマイノリティの人々の「生きる権利」そのものをはく奪するような事態が出来し得る、という事実は歴史から学んでおいた方がいい。
 ②私の大学時代に今で言う「LGBT」の人々が訴えていたのは、就職や居住・移転等で差別を受けない、という異性愛者であれば生まれながらに持っている人権についての差別をなくして欲しいというモノだったと記憶している。
 「LGBT」の人達も、異性愛者と同じ「人間」であり、同じ「日本国民」である以上、彼らが就職その他で差別されないのは当然だと思う。「日本国民」である時点で、「参政権」が制限されている外国人(=日本国籍を有しない人)よりもその人権が保護されるべき優先度は高くて当然である。
 だから、彼らが「パートナー」を選ぶ自由や、その「パートナー」に対して、財産や遺産を残したいという希望を持っている場合に、「配偶者」に対するのと同じような税制上の手当てはすべきだと私も思う。
 荒井元秘書官は、この②のレベルで「LGBT」の人々を差別しているわけで、私はこの発言には反対である。
 但し、この元秘書官の発言については、「オフレコード」の発言を「オンレコード」にしてしまったマスコミの報道姿勢に深刻な問題があると考えているが、その点は本稿の趣旨から外れるので別の機会に述べる。
 ③さて、「LGBT」の人達の①「生きる権利」そのものは当然として、②各種人権について差別を受けないという事も是認すべきだとしても、それが③「同性婚」を認めるべきという考え方に直結するのは話に飛躍があると私は考えている。
 冒頭に掲げた記事にある憲法の条文を見ても、憲法上の人権として認められているのは「婚姻が両性の合意によってのみなされること」を定めている(これは昔の家制度の下では、両性の合意だけでは自由に婚姻出来なかった事を否定する趣旨らしいが)事だけである。
 この「両性」で想定しているのは、普通に考えれば「男女」であろう。
 そして、この憲法の条文に基づいて、民法(家族法)は、婚姻が男女の合意によってされるものである事を定めている。 
 要するに、憲法並びに法律上「婚姻」は男女間でなされるパートナーシップ契約とされているのである。
 「同性婚」を認めるというのは、単に法律を改正すれば出来るのではなく、憲法が想定していなかった婚姻の態様を認める事になるために、憲法改正が必要なのではないかと思う(リベラルな憲法学者や人権派弁護士はそうは考えないのだろうが)。 
 先に「一夫一婦制」の伝統は巷間思われているほど歴史の古いモノではないと述べた。だが、「同性婚」を法的な「婚姻」の態様の一つとして認める事はこの国では古今未だかつて一度もなかったはずである。
 有史以来初となるシステム変更をしようと言うのであれば、それ相応の国民のコンセンサス(合意)が必要になるはずである。
 先に述べた②のレベルと③のレベルの議論を混同して、「LGBTの人達へのいわれなき差別は許されない」という(言わば、「LGBT」の人々へのネガティブな扱いを止めるべきだという)考えと、「同性婚を認めるべきだ」という(「LGBT」の人々にポジティブな扱いをすべきだという)意見の間にある差異にもう少し思いを馳せて欲しい。
 今国民の6割強が同性婚に賛成しているからと言って、その6割が本当に同性婚を認める事で社会にどういう事態が生じかねないのかを本当に理解しているか疑問の余地なしとは私には到底思えない。
 「スピード感」は「やってる感」と同義で、実は何もやっていないという意味だと以前書いたが、同性婚を認めるか否か?というような社会システムの根幹をめぐる議論については、慎重に議論を進めるべきだと思う。と言うより、議論らしい議論がなされないまま事が運ばれようとしている点に私は強い危惧を抱いている。

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