二重所属と愛国心

1 私が通っている道場の会員に、ウチの道場だけでなく、余所の道場にも所属している人がいる。正確には、余所にも所属している「らしい」という話である。
 どういう武術でもそうだと思うが、ある道場に所属していながら、別の道場にも所属するというのは普通許されないのではないだろうか?新空手や合気道系の道場では、余所の道場に所属していたというだけで稽古が許されない事もあると聞く。
 さて、その会員(以下、Xと称す)はウチの道場のグループline上で、以前「私は〇〇(ウチの道場名)を愛しています。〇〇の秩序を乱す奴がいたら、俺が足を千切ってやります!」というメッセを書いていた。
 それからしばらくして、Xが〇●という別の道場にも所属してることが発覚し(公式試合に〇●団体名で出場していた)、〇●の道場主の方から帯を授与されていた。
 武術の師弟関係と言うのは、専一的なもので、サービスに対して料金を払うというスポーツジムのようなものとは違うと私は思っている。つまり、師匠の教えと月謝は対価関係にはない。弟子は師匠の教えを全人格的に受け止めて、師の教えを理解し、師の教えの先を目指して稽古精進するものだろう(師の教えに納得いかないのなら、弟子はその師から離れればよい)。
 BJJのインストラクターと会員との関係は、BJJ自体が一種のゆるさを孕んでいるせいか師弟関係についての考え方が曖昧である。インストラクターの方々もそれで生計を立てておられるのであれば、厳密な師弟関係を会員に要求するのは難しいし、スポーツジム化するのも止むを得ないとは思う。私もそういうスポーツジム的なBJJの有り様を非難する気はない。
 ただ、自分で師弟関係についてあれこれと騒ぎ立て、道場に対する忠誠心を表明しておきながら、それと矛盾する言動を平気で取れるというのは私の理解を超えている。
 Xは大きな大会での実績もあるし、日本のBJJ村の中では少しは名の知れた人物なのかもしれない。だから、二重所属して平然としているXのメンタリティを想像して見ると、〇〇だけでなく〇●でもちやほやされたい、もっと賞賛して欲しい、という承認欲求の病的な肥大化が考えられる。 
 そうであるならば、Xは別に〇〇も〇●も本当の意味で愛しているわけではなく、もっと自分が有名になれる、ちやほやしくれる大きな道場があれば、何の迷いもなくそこに移るだろう。
 BJJの選手がより強くなるために練習環境の整ったより大きな都会の道場に移るのは仕方のないことかもしれない。だが、彼にBJJの基礎を教えてくれた旧師に対する恩は感じて欲しいと思う(その点をクリアして円満な形で移籍するのは私も大賛成である)。
 だが、Xは〇〇から〇●に移籍するわけでもなく、両方に所属している。これは私の先生に対する侮辱にしか思えないし、○●の先生に対しても失礼な話だと思う。

2 話は「愛国心」に飛ぶが、「愛国心」には一般に「ナショナリズム」と「パトリオティズム」の二つがあると言われている。
 私は英語のネイティブではないから、本当に「ナショナリズム」と「パトリオティズム」を身体実感を持って理解しているとは言えないと思うが、要するに「ナショナリズム」は国家主義ないしは民族主義的な愛国心の表れであまり好ましいものではなく、「パトリオティズム」は自らの属する共同体としての国家に対する愛着というような意味で(排外的要素を含まない)好ましい愛国心の表れであるという事である。
 「愛国心」に関するこの分類が学術上も正確かはさておき、とりあえず「愛国心」を上に書いたような意味で「ナショナリズム」と「パトリオティズム」に分けて考えてみよう。
 「ナショナリズム」的な「愛国心」は、国家とかそれを構成する主要な民族に対する自己との一体化に特徴がある。
 国家とか民族を自己と一体化させてしまうと、自分とは違う国家に属する者や他民族に対して必然的に寛容ではありえなくなる。
 こういう人々が国家の多数を占めるとその国は排外主義的になり、周辺諸国とも摩擦を引き起こしやすい。大日本帝国やナチスドイツがその典型である。
 だが、国家ではなく個人として「ナショナリスト」を自称している人々を見ていると、国家にしか自分が帰属意識を持てない寂しい人だと私は感じる。彼らは会社やコミュニティと言った中間団体に居場所がないから、唯一自分が帰属している国家にしか自分の拠り所がないのだろうと思う。
 これとは反対に、(内田樹先生の言葉を借りれば)「今だけ、金だけ、自分だけ」という信条の持ち主であるグローバリズムの勝者は、いつでもどこの国でも生きていけるので、本来は「愛国心」など持ち合わせていないはずである。
 いや、グローバリズムの勝者も「愛国心」を口にしているかもしれない。だが、それはこの国の今のシステムが彼らが金儲けをするにあたって都合がいいから、そのシステムを支持しているに過ぎない。
 彼らは日本が全体主義化したら、前言を翻して海外に脱出するだろう。

3 「愛国心」という言葉について簡単に説明した上で、Xの話に戻りたい。
 彼はグローバリズムの勝者でもなんでもないが、そのメンタリティはグローバリズムの勝者と非常に似通っている。すなわち、「今だけ、金だけ、自分だけ」である。彼がウチの道場に対する忠誠心をアピールするのも、そこがXにとって(自己満足をもたらすからか、インストラクターとしての収入があるからかは分からないが)利益になる場所だからである。
 (先に述べた事の繰り返しになるが)Xにとってより利益になる道場があれば、ウチの先生に無断でそちらに移るだろう。今彼が「二重所属」しているのは、2つの道場に所属することによって、Xがどちらからも利益(金銭的なモノだけでなく、承認欲求を満たすという精神的なモノを含む)を得ているからで、昔ながら師弟関係のあり方が当たり前だと思っている私のような人間には一見すると理解できない彼の言動も、「今だけ、金だけ、自分だけ」という物差しで見ればよく分かる。
 Xのメンタリティとの比較で、他のある会員さんの話もしておく。
 その方は一月稽古に来たら、仕事の都合でどうしても2~3ヵ月は道場に来られない。仕事から戻られて先日道場に来られた際に「ここの道場に来るだけで私はホッとします」と言っておられた。これが原初的な「パトリオティズム」の形態である。
 「パトリオティズム」は、コミュニティや中間団体への生身の帰属意識を通して、その上位構造たる国家との結びつきを感じ、それへの愛着を通して愛国心を表現するという行動様式を取る。
 「パトリオット」にとって、「国家」は「ナショナリスト」のような共同幻想ではない。自分の所属する「町」「村」への一種の郷土愛を基礎に、それらの「町」や「村」を包摂する国家への自然な愛着が生じる。だから、「パトリオット」は孤独な人々ではない。
 「コミュニティの再生」という事が昨今しばしば語られるが、別に地域おこしだけが「コミュニティの再生」ではない。道場だって人の集まりなのだから立派なコミュニティである。
 「パトリオット」からなるコミュニティでは、忠誠心アピールなど必要ではない。そこへの帰属意識が確かなモノだからこそ、自分の居場所として自然に愛着を持ってふるまう事が出来るはずである。
 BJJの道場の一つのあり方として、そういう「パトリオット」な人々で構成されるコミュニティを形成する事も考えられる。そこでは、会員全員が稽古に来て楽しい、自分の居場所だと感じられるようにするために、弱者に合わせて道場を運営する必要があるだろう。少なくとも、公式試合で勝つ人だけが偉い、発言権のあるような道場では全ての会員に健全な帰属意識を持ってもらうことは出来ないと思う。
 そういう「試合で勝てない」「練習に来たくてもなかなか来られない」柔術弱者の方が社会の大多数である。道場を経営していく上でも強者の目線ではなく、弱者の視点に一度は自分から降りて見る必要があるのではないだろうか?

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