知識とはゲームで言うセーブデータである

端末一つでいくらでも情報が得られる現代。段々と「検索で簡単に知れるのだから知識などそこまで意味はない」という考え方が広まっているとも聞きますが、読んでおられる方はいかがお思いでしょうか。

自分は「どんなに素晴らしい知識があったところで、価値があるのはそこから考えて出てくる行動の方である」と考えています。先日ネット上にあるのは「双方向性」であり「真実」ではないと題してその中で「一本の筋道のようなもの」を見出すことを語らせていただきましたが、一番は知識や事象に当たって「考えること」が肝要であると思っています。

ですが、知識が少なくても良いとは考えません。

冒頭の例で言えば、知識が無ければ検索に必要な単語がすぐには出てきません。或いは手掛かりになりそうなものから検索して辿っていくという形もあるでしょうけど、二段三段と検索を重ねて辿り着くのと一発で辿り着くのとでは時間等に差が出ます。時に一瞬の差で分かれる、というのは極端な事例でしょうけど、各段階では一瞬でも日々の中でどうしても積み重なっていくものです。それぞれの知識は次を導き出す起点となっているわけです。

その「次を導き出す起点」としてのたとえが、タイトルの通り「ゲームで言うセーブデータ」なのです。同じ人がプレイするにあたっても、ゲームのセーブデータ内でアイテムの多寡に差があればそれは多い方が有利に進むのは必定と言えます。

ただ、同じ「アイテムが多いセーブデータ」から始めたとしても、別の人たちでプレイすれば差が開いていきます。中には「アイテムが多いセーブデータ」から始めても「アイテムが少ないセーブデータ」の人に抜かされることもあります。セーブデータがあったところでそこから先はプレイヤーの腕次第というわけです。とは言え、腕がいいゲームプレイヤーでも毎回ゼロから始めては進められる範囲に限界があるわけですが。

知識も同じことです。たとえ「考えればわかる」ことであっても、そうだからと毎回記憶に留めることを怠っていては毎回同じく考えるところを辿らないといけなくなります。考えることと覚えること、これは思考を新しい場所に進める上で必要な両輪と言えるのです。

先程「一本の筋道のようなもの」と言いましたが、その筋道を一々ゼロから引き直しては纏まるものも纏まりません。起点となる知識をより多く配置して、より広い場所に「筋道」を伸ばせるように持って行くのです。

勿論、人が覚えておける量には限界があります。なので「記録に留める」ことが大事なのです。早い話が、書くことです。

自分は性質的に、頭の中で思考が延々と巡り続けてしまう方です。それは止められない事でもありますし、放っておけない気がかりである時もあります。勿論何ということは無いファンタジーを妄想していることも多々ありますが。同じ形で頭の中に延々と巡らせ続けるなら、書いて形にするのです。自分の場合はそうすれば同じ場所での思考は終了するので、つい考え込んでしまう人にはその内容を何らかの形にすることをお勧めします。

自分も今書けるものを書くに限られている身、不勉強があるかも知れません。何かございましたら遠慮なく下のコメント欄から送っていただければと思います。日常用の趣味も交えたごった煮のツイッターの方でも構いません。忌憚なく意見をいただければと思います。

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