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好き?嫌い?

誰かを好きになる(好きである)とき、自分にとってのその人につくりかえて好いているのではないかと思う。恋は盲目というが、自分に都合のいいように考えている。これが良いとか悪いとかではなく、そういうものなのではないかと思う。

一旦、人から外れて遊園地を考える。USJやTDLなど遊園地が好きであるというとき、そのいい部分に注目している。アトラクションが充実している、イベントが楽しい、非日常が味わえる。とはいっても、困る点もあるだろう。待ち時間が長い、常に歩いているから疲れてくる、アトラクションの運行が天候に左右される、など挙げればきりがない。でも、(自分にとっての)いい点がそれを凌駕するか見えていないから、遊園地が好きということになる。逆に、遊園地が嫌いな人には、先に挙げたような悪い点の方が目に付く。要は、何事にも多面性があり、その一面を見て好き嫌いを決めていると思う。

人を好きになったり嫌ったりすることも似ている。なんで好きなのかと尋ねれば、容姿がいいとか、話が面白いとか良い点を挙げるだろう。部分の集合としてその人を見て、好きだと思う。でも、その人だって、店員にそっけなかったり、口が悪かったりするかもしれない。言葉を選ばなければ、自分に都合がいいようにしかその人を見ていない。それは、好きになる場合も嫌いになる場合もそう。それ自体を問題視しているのではなく、それを意識しておきたいなと思う。

好きな人の違う一面を見て冷めるのは、その人の新たな一面が見えたことを否定的に捉えているだけ。その一面が好きな面を無力化するほどの力を持っていれば、仕方ない。むしろ自分に合わないことを知ることができてラッキーだったと思うのがいいかもしれない。

巷では蛙化が流行ったが、あれも、違う一面が見えて自分に不都合になったのを相手の責任にしている。本当は、自分が都合よく好きになっていたのを、今度は都合よく嫌いになっただけなのに。人を好きになるのをその人が素敵だからと考えるから、自分の好きという感情をその人に委ねてしまう。それで、嫌いになったことも、その人の魅力がなくなったからだと考える。本当にそうかもしれないが、でも好きという感情が自分のものである以上、嫌いという感情も自分のものとして責任を持つべきだと思う。

同じように、嫌いな人への感情も一面に拠っている。マナーが悪いとか、話がつまらないとか、いろいろあるかもしれないが、一面しか見ていない可能性もある。その一面で判断して嫌いになっている。もしかしたら、鶏と卵の話になるが、その人と関わりたくなくて嫌いになりたいから、積極的に自分に不都合な面を探しているのかもしれない。自分に合わない人も一定数いるから、嫌いになる人がいても別に悪くはない。それなら、できるだけ関わらないようにする。関わる必要があるのであれば、いい面を好きになるような努力をするしかない。まあ、自分に実害を及ぼしてくる場合は、逃げる必要もあるが。

好きとか嫌いとかっていう感情が、相手の良さや悪さに起因するのではなく、自分の心から生まれているということを意識して、これから生活したいなと書きながら思った小春日和。


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