「私は虫けらです。人間ではありません。」

イースター礼拝説教を聞いて頭に残ったこと

2024年3月31日ニューライフキリスト教会

イエス・キリストの受難


受難の苦しみの向こう側に復活がある。
受難は産みの苦しみ。
受難を理解すると、復活を理解する。

キリストの復活に基づいた希望・信仰は失望に終わらない。
信仰が強いからでなく、聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれているから。
ふだんその愛を、意識・実感しない。存在を根底で支える希望。努力・信仰でなく、聖霊が注いでくれる希望。
詩篇22編
「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」ダビデの絶望。命の危機。
イエス・キリストの苦しみの予言。
神に捨てられる→ユダヤ人にとって究極の絶望
怒られるほうが望みがある。
ダビデは、何度も神に見捨てられたかのようなことを経験したが、一度も見捨てられなかった。
しかしイエスは、本当に見捨てられた。
私たちはどんな経験をしても、神に背を向けても、神に見捨てられない。
私たちの信仰は、共同体の信仰。
キリスト教には自己責任はない。
先祖が助け出された→私たちも救い出される
イエス・キリストは永遠に変わらない。
一度でも主が優しく扱ってくださったら、ずっと優しい。

ダビデ「しかし、私は虫けらです。人間ではありません。」
信仰の共同体から自分だけ切り離す・例外視する→信仰の破船
イザヤ書 キリストは人類から拒絶された。
皮肉「神のお気に入り」
命の水であるイエス・キリストが、十字架の上で乾いた。
神から見捨てられ、人から拒絶された。自分の存在が消えていく乾き。

イエス・キリストの復活


詩編22:19から
嘆き→「あなたは私に答えてくださいました。」
苦しみの向こうにある復活の希望と出会った。
「私は あなたの皆を兄弟たちに語り告げ
会衆の中であなたを賛美します。」
疑問の答えは復活。
失望に終わることのない復活の希望が神の答え。
十字架の最後の叫び「父よ、私の霊をあなたの御手に委ねます。」→復活の希望
苦しみの先に希望がある。
神はイエス・キリストの信頼に応えた。
何度落胆・失望してもいい。

苦しみの中で思うこと

「信仰の共同体から自分だけ切り離す・例外視する」というのは、まさに今の私で、ダビデの
「しかし、私は虫けらです。人間ではありません。」
という言葉に共感する心境。

私は孤立していて自己責任だと思っていたが、私の信仰は共同体の一部で、神様は変わらないということに希望を持った。

ダビデもイエス・キリストも人に見下され、拒絶されたなら、私が人にバカにされても別に問題ではないと思った。

「クリスチャンは証になるべき」みたいな圧力があるが、ダビデを思い出すことにする。

失望・落胆し、神を恨む気持ちがあるが、なぜか信仰が完全になくなってはいないということは、聖霊によって復活の希望が心に注がれているということなのだろうと思った。

イエス・キリストの受難と復活、神の愛とは関係のない教会の教えの影響に惑わされないようにしようと思った。


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