礼拝メッセージがよくわからなかった

2024年6月16日 ニューライフキリスト教会 メッセージ「御霊によって歩む4回目」を聞いて頭に残ったこと

ルカ4:1-2
イエスは御霊に導かれて荒野に

聖霊に満たされるとはどういう経験なのか


自分へのコントロールを緩めるということ。
支配される、とは違う。
何もかもを明け渡すのではなく、自分の意思を持ちながら、神様に心を開く。
⇔ 頑固、頑迷、強情(うなじのこわい人)

罪の性質(理由もなく神様にたてつきたい)をほぐして、柔らかくしてくださる聖霊

無理矢理に連れていかれるのではなく、自発的に従っていく、ということ。
約束の地に無理やり連行しない。
私たちも決断、選択、従っていくという歩み。

マタイ11:28-30
すべて疲れた人、重荷を負っている人は、私のところに来なさい。

招いてくださる。
疲れる、重荷を負う根源的な問題は、イエスのもとにいないということ。
イエスから離れるほど疲れるし、重荷を負う。
イエスに近づくほど、魂に安らぎを得る。
「私から学びなさい」イエスの生き方。
神の導きに抵抗すると疲れる。
導きに従うと、魂が安らぐ。→ 導きに従えるようになる。

マタイ11:30
私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからです。

荷の軽さを経験していきたい。
× 重荷を背負えるところまで背負って、限界が来たら委ねる
疲れ切ったら、回復しにくい。

ガラテヤ5:22-23
御霊の実(単数形)
御霊の実の本質は一つで、様々な顔を持っている。
柔和

もっとも慕い求めるべきことは、柔和さ


「柔和」の語源:体に負担を与えずに癒す、暑い夏の日のそよ風

真理を語るけど、真理で傷つけない。
人を無理やり動かそうとしないで、存在で癒す。

マタイ5:5
柔和な者は幸いです。その人は地を受け継ぐからです。

「ローマ帝国の支配に苦しんでいるのは、自分たち民族が弱いからだ」とイスラエル人は思っていた。
「強くならなければ」と皆思っていた。
現代社会でも、柔和さは評価されない。
自己主張が必要と思われている。

すべて神様のもので、預かっている。
「地を受け継ぐ」とは、所有することではなく、神様から任される、ということ。

創世記2:15
神様は人をエデンの園に「置いて、そこを耕させ、また守らせた。」

耕させたのはなぜ?
園のどの木から食べてもよいのに。
「耕す」仕える、礼拝する

仕事の本質は、神様のものを豊かにすること。
自分の心が仕事によって耕されて、豊かにされる。
本来仕事は、私たちを豊かにするための神様の恵みだった。
アダムのせいで苦痛になった。

創世記3:17-19
土地を耕すほど消耗していき、最後には私たちが肥料になってしまう。← 罪に対する裁き。

神への不従順によって呪われた土地を元に戻すのは、神様に素直に従う柔和な人。

生活の中で、素直にくびきのもとにへりくだって従っていく積み重ねによって、御霊の実の柔和さがはぐくまれていく
→ 周りにも神への従順が回復していく

失ったエデンの園をもう一度受け継いでいくことは、柔和なクリスチャンが担っている。そういう心をいただきたい。

呪われた土地をエデンの園に回復してくださるのは、イエス様の十字架。

呪いの象徴の茨を頭にかぶったイエス様

マタイ26:38-39
この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし私が望むようにではなく、あなたが望まれるままになさってください。

冤罪
すべての人の罪を責められて断罪された

強さや弱さによるのではない。
押し付けられたのではなく、自分から望んだ。
柔和な心のみがなしうる従順

柔和・従順によって、呪われた土地が回復した。

労苦は徒労には終わらない。
キリストの贖いによって本来の仕事が回復されていく。

日々聖霊なる神様の導きに心を向けて、
もしかして私の願いと聖霊の導きは違うのかな?と思うなら、素直に従っていくという選択がキリストの柔和さを形作っていく。
その柔和さが土地を癒していく。神への不従順を従順に変えていく。その働きを私たちも担っていくことになる。

感想

今日は難しかった。

呪われた土地が癒されるとか回復されるっていうのは、神への不従順が原因でエデンの園から追放されて苦しんで生きていくことになったけど、神に従順になることで神の呪いが撤回されるってこと?

確かに、イエス様の十字架(神への従順)によって、神への不従順(罪)が贖われ、人間はそのことを信じると義とされる。

でも、生きる苦しさ・仕事の苦しさは残っている。
「キリストの贖いによって本来の仕事が回復されていく。」って、いつの話?再臨の前に?

神に従う→柔和という聖霊の実を結ぶ
この流れはわかる。

柔和→土地を癒す
この流れがよくわからない。

柔和になると、神様にOKとされ、祝福されて、周囲に良い影響が与えられるってこと??

よくわからなかった。

でも、「イエスから離れるほど疲れるし、重荷を負う。」という実感はある。

一見、解放されて自由になって楽になるような気がするのだが、実際そうはならない。

神に近づくと、無理難題に従うよう言われ、大切なものを捨てさせられ、迫害をうけ、従わなければ鞭うたれるんじゃないかと恐ろしい。なぜなら、聖書にそういう箇所があるからだ。

しかし、「私のくびきは負いやすく、私の荷は軽い」というイエスの言葉があり、豊田牧師も「魂に安らぎを得る」と言う。

一体どっちなんだろうか。
他のクリスチャンはこの矛盾をどう受け止めてるんだろうか。



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