誰が私を生かしているのか。自分自身か?神か?
2024年6月9日 ニューライフキリスト教会 豊田牧師 メッセージ「御霊によって生きる 3」を聞いて頭に残ったこと
ルカ3:21-22
イエスのバプテスマ
「聖霊が鳩のような形をしてイエスの上に臨まれた」
「鳩」聖霊の性質の象徴
素直さ、無垢「鳩のように素直でありなさい」
ルカ4:1-2
「御霊によって荒野に導かれ」
神の御子イエスですら、単独行動しなかった。
聖霊に満たされた。
クリスチャンも、聖霊に満たされるのが大切
私たちは、神の子とされている。
「聖霊に満たされる」の意味は、見解に幅がある。
・ガラテヤ5:22-23
「御霊の実」内面の変革
・「満たされる」とは、聖霊を五感で体験するという考えもある。神秘的、非日常的な体験
ルカ4:1
「満たされる」とは、コントロールを失うということ。
⇔ 人生の舵を握って、思い通りに生きていく
キリスト教は道徳主義ではなく、体験主義でもない。
御霊によって導かれていく、ということが第一。
「御霊によって荒野に導かれた」
公生涯のスタート
何が待ち構えているか知らずして、聖霊を信頼して身をゆだねていく。
40日間悪魔の試みを受けられた。何も食べなかった。
空腹を覚えられた。
ルカ4:3
悪魔の誘惑
1)石をパンに変える
空腹が満たされるという誘惑の代償は?
イエスの最初の誘惑は、自分の能力を示すことにありました。
上記もあるけど、
「人はパンだけで生きるのではない」
誰があなたを生かしているのか?という問いかけ。
あらゆる誘惑の本質は、
「あなたは誰によって生かされているのか?」
「神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」
自分が稼いだ糧によって生きるのか、神の言葉で生きるのか。
悪魔「自分の空腹は自分で満たしなさい」
イスラエルの民が、約束の地に入る前にシナイの荒野に導かれたのも、同じ。
マナのルール
当日分だけ与えられた。
多めにとって残しておくと、腐って蛆がわいた。
神は信用ならないので、自分の幸せを確保するには自分で行動しなければならない」というものです。これこそすべての誘惑の背後に共通する基本的な概念です。
2)権力への誘惑
ルカ4:5-7
悪魔にひれ伏すなら、全世界の権力、栄光と繁栄をあげよう
権力への誘惑は、導かれることから導くことへの欲求
自分のことは自分で決める、という大人なことが誘惑。
「あなたの神である主だけを礼拝しなさい」
私の上に神様がおられる、ということを認めていく
私の人生の主は、自分ではなく神様。
ヘンリ・ナウエン
愛よりも支配のほうがたやすいように思いがち
でも、支配では心を得られない
私たちは権力に弱い。自分の人生を自分で支配したい。
自分をコントロールしたいと思う人は、人をコントロールする。
自分にとっての善悪を自分で決めたいと思う人は、人にとっての善悪も決めたいと思う。
「裁いてはいけない」
人の人生の良し悪しを判断したいという誘惑
人を裁くと、第二の誘惑に陥っている。
「私は神ではない」という告白で誘惑に打ち勝つ。
3)あなたが神の特別な存在であると証明せよという誘惑
ルカ4:8-11
「神の子なら神殿の上から身を投げなさい。神が助けてくださる。」
「あなたの神である主を試みてはならない。」
神に愛されているけど、苦難にあうし、病気にもなる。他の人と変わらない存在。
マタイ27:39-41
十字架のイエス
通りすがり「もしあなたが神の子なら、自分を救ってみろ」
「あなたには救い主などいらない。自分で自分を救いなさい。」という誘惑。
イエスは「わが霊をあなたにお委ねします」と言って、十字架で息を引き取られた。
誘惑は、神への不信をあぶりだす。
裁く・責めるためではなく、より良くするため。
落ち込んで、傷ついている。
聖霊は、慰め、癒し、神様とのより深い関係に導く。
イエスは神を信頼し、導かれるままに荒野に赴いた。
私たちもそうありたい。
感想
神様を信じても、食べ物は出てこない。神のことばでおなかはふくれない。
やっぱり自分の努力によるお金。
神を信じて20年以上、生活費の崖っぷち状態が続いた結論は、人生やっぱり金。
という考えが嫌で、なんとか神様を信じたくて、毎週、今日も礼拝した。
クリスチャンを見ても、うまくいっている人は、社会適応力が高いからで、その理由は、別に信仰にあるようには見えない。ご本人の資質と努力に見える。
ノンクリスチャンから見てもそうなのでは?
という考えでは私は幸せになれないので、神様の愛と恵みを信じて生きていきたい。
神を信じない道に幸せが全く見えないので、やっぱり神を信じたい。信じきれたら、自分の人生を神にゆだねることができて、不安に飲まれず、平安に生きられると思う。
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