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Blue植物化❹ほんとうにタフであるというのはどういうことなのか?

駅前の食堂で夕食をとる。できるだけ野菜をたくさん食べるようにする。ときどき八百屋で果物を買い、父親の書斎からもってきたナイフで皮をむいて食べる。キュウリやセロリを買ってホテルの洗面所で洗い、マヨネーズをつけてそのままかじる。近所のコンビニエンス・ストアで牛乳のパックを買い、シリアルと一緒に食べる。

村上春樹《海辺のカフカ 上》
新潮文庫 p123より



引き続き、ハルキ・ムラカミを
読んでいる。

氏の書いたものは、
すべからく、読んでいるが

初老となった今、
また、再読している。


冒頭に引用した、カフカ少年の
ホテル暮らしの際の食事は、
読んでいると、ココロがさっぱりする。


カフカ少年が、レモンを買って
齧じるシーンも、同様だ。

快楽無き、喧騒無き、
食事に、いまは、とても憧れている。


独り、旅をしている、ように
食事をとりたい、と感じはじめている。

巡礼、みたいに
長い距離を、ジブンの足で歩いて

寝袋を含めた、
背負えるだけの荷物のなかに
パンやフルーツやチーズが入っていて、

巡礼路は、ひたすら、道しかなく

街道に出られた日は、
ちいさな定食屋か、宿の食堂で

肉や魚料理と新鮮な野菜にありつき
日暮れならば、ビールやワインを一杯飲む、

そんな風に、食べたい、と
思いはじめている。


ある日の夕ごはん。
  夕焼けの終わりの頃に。
🥄夏野菜のトマトスパゲティ
🍴胡瓜と舞茸の酢のもの
🥃一杯のビール。



夕食は、

いちにちがつつがなく
終わったことへの
《祝祭》であり、

いちにちの労働への
《慰労》でも、ある

と、無意識に思い込んでいた。

カラダのために、
というよりも

むしろ、ココロのために、
夕食を摂っていた、ようだ。


だから、晩酌のビールと共に食べる
ナッツやポテトチップス、

食事をして、片付けた後に、

ごほうびと称して
食後につまむ、
甘いチョコレートや、

夜、コーヒーを淹れてから、
本を読みながら食べる
ちいさなケーキが、

こころが疲れた日ほど、登場した。

夜ミルクティーと夜チョコレートケーキ。
2023Januaryの頃。


今日と明日のあわい、に
横たわる、祝祭的な過食は、

わたしを、しばし
解放してくれた。

なにから?

もう、どこにも行けないし、
行こうにも、行くあても無い。


そんな、無力感から、
ココロが覆われ尽くす、

その冷たい緊張から、解放してくれた。



「君はこれから世界でいちばんタフな15歳の少年にならなくちゃいけないんだ。なにがあろうとさ。そうする以外に君がこの世界を生きのびていく道はないんだからね。そしてそのためには、ほんとうにタフであるというのがどういうことなのか、きみは自分で理解しなくちゃならない。わかった?」

村上春樹《海辺のカフカ 上》
新潮文庫 p11より



わたしは、カラスと呼ばれる少年が
《僕》に言う言葉を、何度か読む。

特に、ここを、声に出して読む。

《ほんとうにタフであるというのが
どういうことか、きみは自分で
理解しなくちゃならない》を。



《僕》こと、田村カフカくんは、
15歳の誕生日に家出をする、と決めていた。


そのための準備、として
独り、筋肉を鍛えた。

中学校に入ってからの2年間、僕は、その日のために、集中して身体を鍛えた。小学校の低学年のころから柔道の教室にかよっていたし、それは中学生になってもある程度つづけてはいた。でも、学校では運動クラブには入らなかった。時間があればひとりでグラウンドを走り、プールで泳ぎ、区立の体育館にかよって機械を使って筋肉を鍛えた。

村上春樹 《海辺のカフカ 上》
新潮文庫 p17〜18より



彼は、家を出たあとも、

ホテル暮らしでも、
誰もいない、山小屋の暮らしでも、

運動をする。
筋肉へ負荷をかける。


夕食の前に僕は運動をする。腕立て伏せ、シットアップ、スクワット、逆立ち、何種類かのストレッチ-
機械や設備のない狭い場所で、身体機能を維持するためにつくられたワークアウト・メニューだ。シンプルなものだし、退屈ではあるけれど、運動量に不足はないし、きちんとやればたしかな効果がある。僕はジムのインストラクターからそれを教わった。「これは世界でいちばん孤独な運動なんだ」と彼は説明してくれた。「これをもっとも熱心にやるのは、独房に入れられた囚人だ」。僕は意識を集中してそれを何セットかこなす。汗でシャツがぐっしょりと濡れるまで。

村上春樹 《海辺のカフカ 上》
新潮文庫、p 284より


食事を摂ること、と同じほどに
それは、習慣化されている。

ここにも、祝祭的要素は無い。

ダイエット、でもなく
フィジークの大会に出る、でもなく

いちにち、のなかに、
《運動》が、淡々と在る。

自分を取り戻すこと、
にも、それは、作用する。

そこはなんといっても知らない街なのだ。人々が、ここでいったいどんなことを考えているのか、僕にはまだつかめていない。でも誰も僕には注意を払わない。僕はむしろ自分が透明人間になってしまったような錯覚。にさえ襲われる。入り口で黙って料金を払い、ロッカーの鍵を黙って受け取る。ロッカールームでジム・ショーツと軽いTシャツに着替え、ストレッチをして筋肉をほぐしているうちに、少しずつ落ち着きを取り戻してくる。僕は僕と言う入れ物の中にいる。僕と言う存在の輪郭が、かちんと言う小さな音を立ててうまくひとつにかさなり、ロックされる。これでいい。僕はいつもの場所にいる。

村上春樹 《海辺のカフカ 上》
新潮文庫、p 113より

《筋肉をほぐしているうちに》

からの、カフカ少年の感慨に
興味が、湧く。

いつもの場所にいる、

と、感じることが

習慣化された運動によっても
起こり得るなら、と、希望が湧く。

(わたしは、だらだらと
何も考えず、食べることて
長年、それを得ていたから)




さて、ここは、夜20時過ぎの
国道沿いのコメダ珈琲店である。


さっきまで、わたしは
国道沿いの歩道を、歩いていた。

夕食後の夜散歩、である。

疲れた日ではあったが、

ナッツもチーズも
チョコレートもケーキも
放棄して、

40分、夜を歩いて、

漠然とした無力感を
手花火の火花のように
昏く散らしながら、

(それは散るものだ、と知った)

ここへ、やってきた。


汗ばんだカラダは
冷房で、すぐに落ちつく。

熱いコーヒーを啜り、
ページを繰りながら

(物語を旅しながら)

カフカ少年が食事を摂るとき、
それを注意深く、読む。

やはり、
祝祭的な食事は、現れない。

そこには、良い《空腹》があり、

食べきれないような皿数が、
並ぶことも無く、

異常な《満腹》も、無い。


(血糖値が、急上昇することも
きっと、無いだろう)

凝り固まった筋肉を
ストレッチをするように、
それらを読み、ゆっくりメモする。


旅の途中、の、食事たち。

体力を維持し、
温かな筋肉の活力となる、
シンプルな。


彼の勧めるサンドイッチは見るからにおいしそうだった。僕は礼を言って、それを受けとり食べる。柔らかい白いパンにスモークサーモンとクレソンとレタスが挟んである。パンの皮がぱりっとしている。ホースラディッシュとバター。
「大島さんが自分でつくるんですか?」
「ほかに誰も作ってくれないもの」と彼は言う。
彼はポットに入れたブラックコーヒーをマグカップに注いで飲み、僕は持参した。ミルクの紙パックをあけて飲む。

村上春樹
《海辺のカフカ 上》
新潮文庫 p 219より

僕らはサービスエリアのレストランに入って夕食をとる。僕はチキンとサラダを食べ、彼はシーフード・カレーとサラダを食べる。空腹を満たすための食事だ。

村上春樹
《海辺のカフカ 上》
新潮文庫 p 230より

彼は、小さな声で歌を歌いながらお湯を沸かし、小さなリュックの中から、用意してきた粉と卵と牛乳のパックを出し、フライパンをあたためてパンケーキをつくる。バターとシロップをつけるへ、レタスとトマトとタマネギを出す。大島さんはサラダをつくるときには、とても注意深くゆっくりと包丁を使う。僕らはそれを昼食に食べる。

村上春樹 《海辺のカフカ 上》
新潮文庫 p 322より



30分読み、本を閉じ、
また、夜を歩き、アパートへ帰る。

もう一度、考える。


ほんとうにタフであるというのは
どういうことか?

と。


夜散歩からの、夜のコメダ珈琲店は
だんだん習慣となっている。
娘とふたり、の夜もある。





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