【短編小説】スリーツーワン!(約6000字)
空中に舞う瞬間、全ての悩みが消え去った。風を切る音と共に、体が自由落下していく。それは言葉では表現できないほどの爽快感だった。
タケルはいつもの席に腰を下ろした。パソコン画面を開いたものの、指は動かないままだった。
「安藤君、例の企画書は?」
上司の声に、安藤タケルは慌ててマウスを掴んだ。
「あ、はい。最後の...」
言葉を濁しながら、画面を切り替える。開いたファイルは白紙に近い状態だった。タケルは髪をかき上げ、目を細める。
上司は黙ったままタケルの顔を見つめ、やがて「まぁいいか」とつぶやいて立ち去った。
その背中を見送りながら、タケルは無意識のうちに指でネクタイを緩めていた。椅子の背もたれに深く身を沈め、天井を見上げた。しばらくそうしていたが、ゆっくりと身を起こし、コーヒーを淹れに立ち上がった。
カップを手に戻ったタケルは、窓の外に目をやった。初夏の陽気に誘われて散歩する人々が見える。ふと、ポケットから携帯を取り出し、写真フォルダを開いた。
過去に飛んだバンジージャンプの写真だ。飛び降りる瞬間、宙を舞う姿、着地後の笑顔...次々と画像が切り替わる。タケルの目が少しずつ見開かれていく。これまでに30回以上も飛んできた。普段の生活では味わえないスリルと解放感。それが今のタケルを支えていた。
しかし、周りの反応は冷ややかだ。
「バンジージャンプ?危ないでしょ」
「そんなことに使うお金があるなら、貯金したほうがいいんじゃない?」
「いい歳して、いつまでそんな若者の遊びをしてるの?
そんな声を聞くたびに、萎縮する。でも、やめる気にはなれない。
それどころか、最近はさらにのめり込んでいた。
元々、成人の儀式だったバンジーだが、今やテレビの罰ゲームの代表とされている。けど、本当はもっと「しびれる」ような非日常的な快感なのだ。初めて体験したのは10年前。まるで電気ショックが走ったような快感で「俺の人生、この出会いを待っていたんだ!」という感覚に襲われた。そんな感覚はなかなか会社の同僚とは分かち合えない。それもわかっていた。
これまで国内施設だけを回っていたタケルだが、来月、ついに海外のバンジー挑戦する。目指すはマカオタワーバンジー。マカオの超高層ビル61階(地上233m)からジャンプする世界最高峰の商業用バンジージャンプ。ギネス世界記録にも認定されている。
海外初挑戦のきっかけは、LINEのオープンチャットだった。
バンジージャンプに興味がある人たちが集まるそのコミュニティに元々参加していた。その中で、ある女性から「6月にマカオタワーでバンジーしようと思うんですが、どなたか一緒に行きませんか?」という投稿があった。
その瞬間、「来た!」と思った。実は、2024年の目標として「マカオタワーバンジーに挑戦する」ということを掲げていたのだ。その通知が来た瞬間すぐさま「行きます!」と返信した。航空券も取らずにすぐに予約サイトでマカオタワーバンジーのチケットを購入した。
オープンチャットで参加を希望したのが、タケルを含めて3人。投稿してくれた女性、久美とチャット参加者の拓也だ。久美は3回目のバンジージャンプ、拓也は2回目という経験者。チャットで知り合った人と一緒にバンジーに行くことに初めは抵抗感があった。しかしチャット仲間とやり取りしているうちに、バンジーの感動をわかっている者同士でいくのが一番良いと思えていきた。参加メンバーとはマカオタワーでの現地集合とした。マカオへ出発の日を待ち焦がれていた。
ふと、周囲の気配に気づいて顔を上げる。
同僚たちはみな仕事に集中していた。
いよいよマカオに出発の日だ。
久々の海外旅行だったが、無事出発でき、マカオに到着したのは深夜だった。飛行機の窓から見下ろすマカオの夜景に、早くも心が躍った。高級カジノが立ち並ぶエリアは、イルミネーションで彩られていた。それは最先端というよりも、どこか懐かしい平成レトロな雰囲気を醸し出していて、不思議な魅力があった。
空港に降り立ち、最初の難関はバスの乗り方だった。両替したてのコインをジャラジャラさせながら、運転手に「ハウマッチ?」と聞いても、ただ無言で料金箱を指さすだけ。結局、適当に入れて乗り込んだ。これが海外旅行の醍醐味というものだろう。言葉が通じない中で、身振り手振りと勘を頼りに進んでいく。ホテルまでの道のりも一苦労だった。海外ローミングが遅すぎてGoogleマップもまともに使えず、空港のWi-Fiでスクリーンショットしておいた地図を頼りに、なんとかたどり着いた。
ホテルにたどり着いた翌日は本格的にマカオ散策。マカオタワーの下見をしたり、バスの乗り方をマスターしたり、ローミング問題を解決したりと、忙しく動き回った。マカオの街は日本より蒸し暑く、時折スコールも降る。中国本土のような荒々しさもあるが、長年ポルトガルの統治下にあったせいか、どこか優しさも感じられた。この文化の融合が、マカオの魅力の一つだと感じた。
地元の食堂にも飛び込んでみた。足を踏み入れた瞬間、香辛料の香りが鼻腔をくすぐった。壁に貼られたメニューを見上げ、首を傾げながらしばらく眺める。メニューは全く理解できなかったが、ルーローハンという角煮ライスのようなものを注文。一口食べてみたが、味覚と共にマカオの雑踏や暮らしに立ち込められた強烈なにおいを嗅いだ。風味の情報量からここは別世界にいること再認識した。食べ終わる頃、事前にマカオに来る前に調べた「ご飯は少し残す方が礼儀正しい」という情報を思い出し、慌てて少し残した。しかし、周りのテーブルを見渡すと全て平らげられており何が正解なのかよくわからなかった。
立ち上がり、カウンターに向かう。身振り手振りを交えながら料金を支払い、店主と笑顔で会釈を交わす。戸惑いながらも、その違いを楽しむ気持ちが芽生えていく。そして、通りに一歩踏み出すと、歩調が軽やかになり、周囲の看板や店先を眺めながら散策を続けた。
いよいよバンジージャンプの日。
タケルはマカオタワーの入り口に立ち、時計を確認した。約束の時間より5分早い。周囲を見回しながら、スマートフォンの画面を確認する。
そこに女性が近づいてきた。久美だ。彼女もスマートフォン上の地図を見ながら、その上に指を這わせながら歩いてくる。タケルと目が合うと、軽く会釈をしてスマホを直し始めた。少し遅れて、背の高い男性が小走りでやってきた。拓也である。彼は片手に旅行ガイドブックを持ち、もう片方の手で額の汗を拭っている。
3人は初対面だが、LINEオープンチャットでの会話内容からこれまで知り合いだったかのようになめらかに会話をする。久美の明るい笑顔、拓也の少し照れくさそうな表情、そしてタケルのユーモア溢れる様子。和やかな雰囲気で再会を喜んだ。
やがて、タケルがゆっくりと腕時計に目を向ける。「そろそろ...」と言いかけたところで、3人の視線が交差。タワーの入り口へと歩み寄る。地下にある受付で手続きを済ませ、エレベーターで一気に61階まで上がる。展望フロアからの眺めは圧巻だった。マカオの街並み、そして目の前に広がる大きな川。その光景に、これから自分が飛び込もうとしている高さを実感し、緊張が高まった。
地下で受付をしているためバンジージャンプの受付はスムーズだった。準備は日本とほぼ同じだ。同意書へのサイン、荷物の預け入れ、体重測定、ハーネスの装着と続く。ただ、ここマカオタワーならではの特徴もあった。ジャンプ台までの誘導が非常に丁寧で、スタッフが肩や腰をしっかりと支えながら、ゆっくりとジャンプ台まで連れて行ってくれるのだ。これは安全対策であると同時に、怖がって飛べない人を出さないための工夫だろう。
ジャンプ台に行く前に、3人で飛ぶ順番を決めた。タケル、久美、拓也となった。久美はスマホを預ける前に、タケルと拓也に向けてカメラを向けた。「記念に撮っておこう」と言いながら、3人は胸を張って、キメキメの表情で空を見上げながら自撮り写真を撮った。
タケルはジャンプ台の最先端にいた。風がビュンビュンと吹き抜け、遠くには広大な川が流れているのが見えた。「Are you OK?」スタッフが優しく声をかけてきた。「Where do you come from?」「We are from Japan.」「Oh! Sushi!」スタッフは陽気に返した。
爆音でEDMのような音楽が流れ、スタッフたちは明るく振る舞っていた。タケルはこれまで何度も飛んでいるが、徐々に緊張してきた。高さ233mのビルから自分はこれから飛ぶ。眼下に広がる景色は、息を呑むほどの壮観さだった。
真っ青な空が、地平線まで果てしなく広がっている。
雲一つない晴天で、視界は驚くほど鮮明だ。太陽の光が街全体を包み込み、建物の窓ガラスが眩しく輝いている。眼下には、マカオの街並みが一望できる。高層ビルが立ち並ぶ現代的な都市の景観と、ポルトガル統治時代の面影を残す歴史的な建造物が絶妙に調和している。遠くには、珠江デルタの広大な水面が青く輝いている。河口付近では、大小さまざまな船舶が行き交い、活気に満ちた港町の雰囲気を醸し出している。近くに向けると、カジノリゾートの巨大な建造物群が目に入る。夜になれば無数のネオンで彩られるであろうその姿は、昼間でも圧倒的な存在感を放っている。
風が強く吹いており、タケルの頬を撫でていく。半島に位置するマカオタワーならではの、爽快な空気が全身を包み込む。塔の周りを旋回する鳥たちの姿も見える。彼らは自由に空を飛んでいるが、同じように自分も空中を舞うのだ。
タケルはジャンプ台からつま先を出す。つま先を出す長さが日本より短かった。日本では8センチほど出すがマカオでは4cm程度しか出さないように感じた。これだけでも恐怖心が和らぐ。さらに、バンジーコードの左右にワイヤーが付いていて、真っ逆さまに落ちるように落下の軌道を制御している。これにより、建物に体が衝突する心配がない。
いよいよジャンプの瞬間。
「「3、2、1.........バンジー!!!!!!!!!」
カウントダウンと共に、体を前に倒していく。そして、一気に233メートルの空中へ。
風を切る音と共に、体が自由落下していく感覚。それは言葉では表現できないほどの爽快感だった。落下中の景色は、コンクリートの地面とタワーの側面が交互に見える。まるでハリウッド映画のアクションシーンのような感覚だ。
風が顔を撫で、景色が目まぐるしく変わる。コンクリートの地面が近づいてきたかと思えば、今度は上へと跳ね返される。叫びたかったが、声が出なかった。数回のバウンドの後、ゆっくりと地上に降ろされた。心臓が激しく鼓動している。
着地後のフロアでは、久美と拓也のジャンプも見ることができた。マカオタワーでは着地したフロアに大型モニターが設置されており、これから飛び降りる人がリアルタイムで配信されている。
久美は、彼女の細い指がハーネスを何度も確認し、深呼吸を繰り返す。風が彼女の黒髪を揺らす。スタッフが何か久美に話しかける。久美は微笑みを投げかけ、ゆっくりと頷いた。
「3、2、1...」
久美の体が前のめりになる。一瞬の躊躇の後、彼女は両手を広げ、空へ飛び出した。
久美の悲鳴が風を切る。それは恐怖というより、むしろ解放感に満ちていた。彼女の体が美しい弧を描きながら落下していく。地上すれすれまで落ちたかと思うと、ロープが彼女を引き戻し、今度は空へと舞い上がる。
着地点で久美を迎えたスタッフは、興奮冷めやらぬ彼女を助け起こした。頬を紅潮させ、髪を乱した久美の表情には、これまで見たことのない輝きがあった。
次は拓也の番。彼は緊張した面持ちでプラットフォームに立つ。唇を噛みしめる。普段の冷静さが揺らいでいるのが見て取れた。
「Are you OK?」とスタッフの声。拓也は大きく息を吐き出し、目を閉じた。
「3、2、1...ジャンプ!」
拓也の体が前に傾く。しかし、予想に反して彼は跳び出さなかった。足がプラットフォームに張り付いたように動かない。スタッフの励ましの声があるが英語で何を言っているかわからない。拓也は下を見下ろし、かすかに微笑んだ。
深呼吸を一つ、拓也は再び目を閉じ、今度は迷いなく飛び出した。
彼の叫び声が空気を震わせる。最初は恐怖に満ちていたが、次第に興奮と喜びの声へと変わっていった。拓也の体が大きく弧を描き、マカオの街並みを背景に、まるで空を泳ぐかのように見えた。
着地後、拓也の顔には達成感と安堵の表情が混ざっていた。普段は几帳面に整えられた髪も、今は風で乱れ、額には汗が光っている。
3人が再会したとき、言葉はなかった。ただ、互いの目を見つめ、大きな笑みを交わした。その表情には、共に大きな挑戦を乗り越えた仲間としての絆が垣間見えた。その後、みんなで興奮冷めやらぬ様子で、体験を語り合い、笑い合った。
終了後、3人で食事をすることにした。再び体験を語り合った。スマートフォンで撮影された動画を見ながら、それぞれの表情や反応に笑い転げた。
久美は「バンジージャンプをすると疲れが取れる。浄化される感じがする」と言った。確かに、アドレナリンやドーパミンが分泌されるせいか、心身ともにスッキリとした感覚があった。
タケルは、この2人と出会えたことに嬉しかった。それは恐怖を乗り越えた達成感だけでなく、オープンチャットで知り合っただけの人たちと、見知らぬ土地で新しい友人と深い絆を結ぶという素晴らしい経験となったのだった。
日本に戻ると、タケルを待っていたのは現実だった。仕事のストレスが少しずつ肩に重くのしかかり、人間関係の悩みが心の隅にちらつき始めた。
そんな時は、ゆっくりと目を閉じた。すると、まだ体の中にアドレナリンが残っているような、かすかな震えを感じた。あの日のバンジージャンプが、鮮明に蘇ってきた。
それは単なる落下ではなかった。一瞬一瞬が、自分の限界との対話だった。恐怖と向き合い、それを受け入れ、そして乗り越えていく過程。そして何より、生きていることを全身の細胞が震えるほどに感じた経験だった。
確かに、タケルは今の生活には満足していない。うっといしいと思うこともある。やりたくない仕事や職場の人間関係でザラザラとした居心地の悪い時間もある。
しかし強烈なスリル体験を何度も体験する中で、非日常的な快感を超えた何かを彼は獲得していた。それは「頭で考えた何か」ではなく、「皮膚や細胞が反射的に動き出し自然とアクセルが踏み込まれるような感覚」だ。その感覚がタケルの日々の行動を少しずつ変えていく。
「次は、どこのバンジースポットに挑戦しようか」小さな期待と興奮が胸の奥で膨らみ始めた。そんなワクワクする気持ちを胸に、バンジー中毒な日々は続いていく。
※この作品は以下のPodcastの放送を小説化したものです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?