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#25 And Deeper Still…(2)

今問題なのは、大多数の崇拝者の心の中で、彼らの神があまりにも身近で、あまりにも具体的に定義され、天国と地獄、そして神が地球そのものを創造し支配することのすべての詳細が、あまりにも鮮明に、あまりにも厳格に配置されてしまったことです。このような信念の枠組み全体は、科学革命の膨大な事実と説得力のある合理化に耐えることができなかったのです。ハーバート・スペンサーが自らの神的存在を、第一原因という無限に遠く非人格的な分類に追いやると、彼の説得力のある分析に従った何千人もの知的な人間たちは、心の中に築いた天空の宮殿が空虚で不必要、そしておそらく馬鹿げたものに見えてくることに気がついたのです。そして、アーネスト・ヘッケルが『宇宙の謎』を書くようになる頃には、その宮殿とそれを支えていたすべての教義の基盤は、悲劇的な廃墟となって崩れ落ちてしまいました。

私たちの父祖とその宗教的戒律者たちは、無限なるものについての信仰があまりに特殊で、あまりに有限であったため、神というものを、主として人間の父となるために創造された存在として、あまりにも自己中心的に、ほとんど恩着せがましく採用してしまったのです。50年前、田舎のバプティスト教会の日曜学校に行ったとき、私は壁に貼られた巨大な表で、世界は紀元前4004年に創造されたと教えられました。

宗教的な信仰というものは、このような微細で不当な予測によって、人々の心の中でその重要性を主張するようになったのです。歴史と科学の知識が深まるにつれて、知的な精神がその予測を受け入れることがますます不可能になり、より一般的で深い信仰の項目は、同様にその効力を失い始めたのです。しかし、これらの深い信仰は、ほとんどの人にとって、良心の煉瓦を積むための藁であった。この藁がなければ、煉瓦は全く築かれなかったか、あるいは、ご都合主義の侵食や誘惑の猛攻に対して粗末で不安定なものでしかなかったのです。

何世紀にもわたって、キリスト教は、その分裂と分派にもかかわらず、西欧世界全体に道徳の布を供給してきました。その罰の脅し、報酬の約束、そして神聖な父による、また父への愛の申し出による人間化効果によってでありました。しかし、これまで何十億という言葉が書かれてきたにもかかわらず、その布は今や穴が開き、裂け、必要以上に弱くなっています。今日、自らをクリスチャンと宣言し、教会の礼拝に出席している人々の大多数は、罰や報い、あるいは自分の個人的な生活や行動に関心を持つ神聖な父の物理的、生物学的存在さえ、本当に、文字通り信じてはいないのですから。かつての信仰の勢いと、そこから発展した習慣は、今でも大きな価値をもっています。しかし、その生地はあまりに薄く磨り減っていて、かつての有効性を発揮することはできません。

さて、私がキリスト教を否定し、廃棄し、さらに弱体化させることを望んでいるなどという結論には、少しも飛びつかないでいただきたいのです。明日、建設的な側面からこのテーマに戻るときに明らかにしたいと思うように、まったくその逆が真理です。しかし、私は、正しいか間違っているかは別として、理性が正直に、私たちは不可知論についてそのような肯定的なことを知ることはできないと告げた人たちに、原理主義的な信仰の筋のすべてあるいは一部を再び押し付けようとすることには賛成しません。それは、大海の波をロープで縛ったり、漁網で閉じ込めたりするようなものだからです。

しかし、私は、私たちの誰もが、自分の信条や祭壇の特定の教義に少しも違反することなく、より広く、より包括的な信仰に同意することができると信じています。そして、私は、これが最も原理主義的なキリスト教徒にも、最も合理主義的な理想主義者にも等しく受け入れられる、高貴な概念であると信じています。なぜなら、その趣旨は、各人の高貴な特性および各人個人の宗教の高貴な衝動を強化し総合化することにあるからです。バプティストのジョン・バーチも、カトリックのヒレール・ベロックも、不可知論者のトマス・ジェファーソンも、同様に歓迎したであろう概念です。そして、この特別なプログラムの中で、これほど強大なテーマを扱うことができる時間は短いのですが、明日、私の当面の提案の中で必要な範囲で、このテーマに戻りたいと思います。なぜなら、そうしなければ、沈下する泥の上や移動する砂の上に要塞や寺院を建設しようとして、我々の残りの力を浪費するだけだからです。

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