学生が主人公の小説と気づき

中学生が主人公の小説を読んだ。
中学生、もしくはその他学生の登場人物がでてくると、まず、友達関係を気にする。
そのことに対して、少し前までは「ぜ~んぜんわかんね~や」、と思いながらフィクションとして読んでいたのだが、最近は「ぜ~んぜんわかんなかったのってまさかやべ~かったのか~?」と若干自分の身の出来事として読めるようになっている。
学生時代はとにかく人間関係がなかったし、そのことに対して足掻こうとも思わなかった。とにかく私は社会的な生き物ではなかった。
新しいクラス、新しい学校になっても、近くの人と話す方がいいということも知らず、初授業で移動するときに誰かをつかまえて移動するということも知らなかった。
だから1人で時間までに音楽室へ行き、1番乗りで座っていた場所が、あとから来たクラスメイトとかけ離れ、1人だけ他クラスの隣の席に座っていたということがあった。
違うクラスの奴が隣に座っている女の子に対して申し訳ないな~と思ってはいたが、同じクラスの子の近くに移動することはしなかった。私にとって、隣のクラスの子だろうが、あとから来た同じクラスの子だろうが、どちらも知らない子には変わりなかったからだ。
自クラスであっても近くの席の子とは何を話したらいいかわからないため話さず、休み時間は図書室に行き本を読むか、話す話題のわかる同じ部活の子に会うため違うクラスにいっていた。おそらく授業時間中を除けば自分の教室での滞在時間が一番少なかったのではないか。クラスでは浮いていたに違いない。
もちろん気まずいと感じることもあり、ペアをつくれといわれたら焦ることもあった。しかし、友達を頑張って作ろうという考えは端からなく、積極的に話す理由すらわからなかった。
そんな感じで卒業したため、同じ部活の人とは今でも会うのに、元クラスメイトは顔も名前も9.5割覚えていない。学年で有名な人の話題が思い出話として提供されても全くわからない。なんなら担任の名前も忘れてしまった。修学旅行はどう過ごしたかさえも覚えていない。あまりに思い出が薄すぎて脳が記憶から消したのだろう。
だから、学生を主人公にした小説でカーストとか、同じレベルの友達と集団になろうとするという描写を見ると、まずあまりに大人びていることに驚く。文化祭などの行事で普段喋らないクラスメイトとあるきっかけで話すという描写にも驚く。うまく立ち回ることを考えながら学生生活を過ごしたことがなかった。そのため、人間関係で悩む登場人物のことを大袈裟だと思っていた。
しかし、社会人になって、人間関係はそれなりに大事ということがわかった。
実践は全くできていないが、挨拶や近くにいる人と軽い世間話をするだけでも周りの心持ちは全然違うということがわかる。仲が良くなると話しやすさや距離感も変わり、何かが頼みやすくなり、情報もはいってくる。何か人間関係ができたとか、情報に遅れて損をしたとかではなく、ただ「なんとなく」わかるようになった。自我が芽生えたのかもしれない。
だが、ともすればそれら社会性の重要さは小学生のうちから気づき、実践している人もいる。そう振り返ると、小説の中の学生は本当に悩んでいたのだろう、ではこれをしていなかった私は一体……と軽く絶望に襲われるようになった。
だがすでに学生生活は終わり、教室も修学旅行も文化祭もない。学生生活が終わってから気づけて良かった。
今でも人間関係がなく、情報が全くはいってこないことに変わりはないが、なんとか仕事とそれに関わるコミュニケーションはできている。
大げさ、と思っていた本の表現はそれなりに現実的な描写なんだとわかるようになる。
自分の身に何が起きるかはわからない。
何事も吸収し続け、理解の及ばないものにもいつか全てわかる日が来ると信じたいと思う。


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