やりたくないことと死

明日は月曜日だが、心の底から仕事に行きたくないと思っている。休みが短かすぎて腹まで痛くなってきた。
仕事に行きたくない理由はやりたくないことがあるからだ。
やりたくないことというのは、やり方がわからないものと、やることにより人と関わらなければならないものと、慣れてないものだ。
特に人と関わらなければならないというのは私にとって一番やりたくないものだ。
仕事柄、人に依頼をしなければならないことが多い。
人に頼み事をするということは、その人のタスクを一つ増やすことだ。人というのは満ちていて、現状とその人がいいと認識していること以外に何もさせたくないと考えている私にとっては大変な苦痛である。
後々その人のためになるとか、全体からすると必要なこととかはどうでもいい。いや実際はそうなのだが、人と関わって、その人の人生に私が頼んだタスクが増えるという状態が嫌なのだ。
人といういろいろな構成要素が絡みあっている物質に対して、「私」(正確には「私の依頼したこと」)というものが構成要素の一部となり、壁際にぴたりとつくような感じが耐えられない。
その人にはその人の人生があって、その人を構成しているものがあるのに、今私が連絡をしたことによって不純物が混じってしまったような感じがする。
私は絶対営業職にはなれないと自覚している。
どんなに売っているものが素晴らしくて、どんなに便利なものを売っていたとしても、私の言葉によってその人が何かを買う=その人の構成要素を増加させるという責任を負えない。今までその人その売ったものがなくても生きていたのに、なぜその人にそれを付け足してしまったのだろうと思うと申し訳なさで死にたくなると思う。
今やっていることもそれに近い。私の言葉で誰かが動くのが嫌だし、なんなら誰とも関わりたくない。私のせいで他の人間が何かするのを止めたい。でも仕事柄そういうわけにもいかない。
責任感や判断能力が欠如しているんだと思う。社会人として致命的だが、社会にでている時点で間違いなのだからどうにもならない。
今まであまりにも他人と関わらずに生きすぎていて、他の人が人と関わりながら生きているということがいまだに信じられずにいるせいもある。
「勧められて何かを買った」「勢いで買ってしまった」「押されてやることになってしまった」という言葉を聞くと、わけもなく何の関係もない私が自殺しそうになってしまう。
勧められる、勢い、押されて、というのはその人本来の意思ではないではないか!!!!!と叫びたくなる。
本来の意思でないことをやらせるなんて!!!!と関係のない私が今すぐ死にたい気持ちになる。人は全員自分の意思に従って生きて欲しいし、そこに他者を介在させないで欲しい。人類全員が自分の意思のみで自分のやりたいことをやって欲しい。やりたくないことはやらないでほしい。
これは私が今まで人と関わらなすぎたために、自分の意思以外のことをほとんどやってこなかった弊害である。嫌な環境に長く留まったり、環境をよくするような改善をしてこなかった。だから、自分の意思でないことをしてる人を見るとわからなくてパニックになってしまう。
だが、社会というのはそれほどまでに単純ではなくみんなが好き勝手やっていたら人は衝突する。だからルールがある。そんなことは知っている。だけど、そんな社会のがおかしいと思う。人類史の中で全ての人がやりたいことだけをやっているだけの瞬間なんて存在しないのだから、おかしいのは私の頭だ。
でも、そんなパラレルワールドになってくれるくらいじゃないとこの先の世界で生きていきたくない。
むしろなんでこんなやりたくないことだらけの社会で人が生きているのか本当に不思議だ。通勤電車には乗るたびに勝手に死にたくなっている、いろんな人の顔が疲れている。スマホだけを無意味に眺めている。興味のなさそうなニュースのトップ画面だけを開いてぼーっとしている人がいる。朝なのに、およそ人の適正な睡眠環境とは程遠い吊り革によりかかって目を瞑っている人がいる。
やめましょうよって言いたい。全員で一斉に仕事をやめましょうと言いたい。せめて全員で日本を週休3日にしよう。有給が取りにくいのは他の人たちが休んでいる間に働いていて、結果的に休み明けに仕事が増えているからだ。周り全員が休んでいれば自分も休まざるを得なくなる。
誰も嫌な顔をしないで欲しい。みんなが幸せになって欲しい。
もちろん、電車に乗ってる人が全員疲れて不幸せなわけはないだろうし、仕事をしてる人だって嫌なことをしていると言われたら違うと答えるだろう。適度なストレスは人の成長を促すという意見もあるだろうし、仕事は嫌なことをやるものという意見もあるだろう。
その人が嫌でないのならいい。
だけど、将来の成長のために今が嫌でいいというのは間違っている。「今」が辛いのに将来のことなんて私は考えていられない。その時感じた怒りは忘れられないし、影響を受けたトラウマや思考は残留し続け、構成要素の戻った過去の自分が帰ってくることはない。
後から振り返ってあの時のあれがあったから成長できたというのは全て結果論だ。未来のことなんてわからないのだから、今、不快な満員電車に乗っているという事実が自分を苦しめているということだけを考えるとどうなるのか。
「自分の若い時はもっと辛かったけどね」というような発言をする人は、その時の辛かった自分を抱きしめてほしい。今のその人は幸せかもしれないが、確実に辛かった自分という人間が存在している。その自分は救われてなくていいのか?私は時間軸は平行で、全ての空間に全ての瞬間の全ての人が存在していると考えている。
私は本気で全ての人間が全ての時間幸せになって欲しいと考えている。そのために、人の嫌なことを取り除きたい。
それなのに私の仕事は人の仕事を増やすことだ。いや、全ての仕事は人の仕事を増やすことであるのはわかってる。だからこそどうしたらいいかはわからない。なんなら人を幸せにするための方法があったとして実行に起こす気もない。全部感覚の話だ。
営業は上記の通りだし、採用担当になっても「人を今後労働させる契約を交わさせてしまった!!」と罪悪感でリストカットが止まらないだろう。そんなわけないのだが、私には全てがわからない。何もわからない。そういう思考しかできない。楽しいとかやりがいとかを感知する場所がぶっ壊れている。誰か助けて欲しい。
仕事を始めて1年足らずとなり、次やってみようかというものが増えてきた。というか、面談でそう言うしかなくてそう言ってしまったらやることになった。ばかたれ。
難易度が少し上がると、自ずと他人と関わる頻度も増える。増えざるを得ない。私のせいで人の幸せがまた減ってしまう。耐えられない。やりたくない。でも締め切りは近づくし、私が手をつけないと一生終わることはない。相手にも迷惑だ。
そんな自己矛盾を抱えながら、明日もまた仕事にいかなければならない。
このような考えを他の人はしないのだろうか。人類が全員幸せになってほしいと思うには、不可能がすぎるのはおかしいということはおかしいのだろうか。
そう考えると、どうしても死にたい。死は0である。折れない棒グラフのように真っ直ぐで平坦な無が延々と続く。
乱高下する感情と幸不幸に振り回されて、ごめんなさいと謝り続けることをするくらいなら絶対死んだ方がいいと思うのは、間違いなのだろうか。
ではなぜ今の私は死を選ばないのか?それもわからない。


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