いい小説と私の鬱

常に精神がめちゃくちゃ不安定だ。
たった2週間くらい前までは人生の全てに感謝していて、毎日頑張って生きていこう、好きなことなんでもやろう、と目の奥からまぶたが開いている感じがして、光を全面的に取り込みながら、ものすごい元気に生きていたのだが、今日家に帰ったらものすごく死にたい気持ちでいっぱいになってしまった。
やりたくない仕事があるとか、毎日生きていても楽しくないとか、いろんな原因があるのだろうが、それら原因に耐えられる日と耐えられない日がある。耐えられない日は本当に、嘘みたいに気分が沈んでいく。死にたい→死にたい→死ぬしかない。という一方通行の思考しかできなくなる。
思えば朝通勤途中に読んだ、心があったかくなる短編集を読んだのがいけなかったかもしれない。
心があったかくなる小説、とまるで貶めているような言い方をしているが、当たり前のように小説は悪くない。悪いのは小説を読んだだけでなんとなく苦手な人と1時間帰り道を共にしたような感情を抱いてしまう私のほうである。
このような小説は、語り手が何か悩みを抱えている→きっかけがある→きづき→気持ちが明るくなるという流れがある。あまりにでかく抽象的すぎて全ての小説に当てはまるような気もするが、とにかくこの何かのきっかけで気持ちが明るくなる話、というのが苦手である。
というのも、私の人生は続くからである。
小説の登場人物はきっかけがあって、そのとき明るくなって短編を終えることができるが、私の人生はあと80年くらいある。常に軽い鬱と躁を行き来している私にだって、気分が明るくなるときはある(それが躁なのかもしれない)だが、それと同じくらい、いやもっとずっと頻繁に死にたすぎると思う瞬間がある。あと80年それが続くのだろう。今がどんなに明るくたって、どんなに楽しく素晴らしくたって、どうせ気持ちが暗くなる瞬間がくる。そう考えると、一過性の気分上昇に素直に感動できない。
文章がめちゃくちゃ好きとか完全なフィクションであれば大手を振って好きと言い感動するのだが、なまじ自分と年が近く、現代設定で、まっとうに友人と過去の学生生活と恋人がいる悩める働き盛りの人みたいなのを読んでしまうとだめだ。人はこれから死ぬのに明るくなれないだろと理不尽なキレをしてしまう。
嫉妬とかコンプレックスとかとはなにか違う気がする。
どうせまた悩みがでるのになぜ明るく生きられるのだろうか……という明かりのない鍾乳洞くらい暗い感想を抱く。きっと作者と仲良くなれないのだろうなという諦めもある。
心があったかくなる小説には作者の希望と人格の美しさが読み取れる。人は人と支え合って生きていて、わずかな幸せでもそれを見つけることによって日常を楽しく生きていける、と確かに信じているのがわかる。
常に精神がめちゃくちゃ不安定で、常に死にたくて、どうやったら死ねるのかと考えている私にとって、読んだ後心が温かくなる小説というのは、人と対話をさせていただいたときのような申し訳なさをもつカロリーを秘めているものとなっているのだろう。


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