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1976年、石川の夏。小松辰雄とたいやきくんと小学校のプールと。 HOKURIKU TEENAGE BLUE 1980 Vol.17 子門真人『およげ!たいやきくん』 

■ 子門真人『およげ!たいやきくん』  作詞:高田ひろお 作曲:佐瀬寿一 編曲:佐瀬寿一 発売:1975年12月25日

リスタートのごあいさつ。

おない年の音楽評論家、スージー鈴木さんのコラムシリーズ『OSAKA TEENAGE BLUE1980』に触発されてスタートした本シリーズも、前回で御本家と同じ16回に到達。ここからは、80年代邦楽にこだわらず、もう少し自由な形で、僕の思い出とその時々に聴いていた音楽とをからめる形で書いていきたいと思います。

今回は、まだ僕がティーンどころか10歳にもなっていない、1976年の夏のお話。

北陸の速球王、小松辰雄登場!

1976年(昭和51年)の夏といえば、石川県民にとって思い出深いのは、なんと言っても高校野球、甲子園大会における星稜高校の大活躍です。

この年、2年生エースで「北陸の速球王」こと小松辰雄を擁する星稜高校は、2度目の夏の甲子園大会出場にして、ベスト4にまで進出します。
当時の石川県内の熱狂は凄まじいものがありました。

ベスト8進出時点で、すでに地元はかなりの盛り上がりをみせていましたが、準決勝進出が決まった時は、一段とボルテージが上がった記憶があります。

僕も準決勝進出を決めた試合をテレビにかじりついて観ていました、と言いたいところですが、実はこの時点でまだ一試合の観戦もしてはいません。

まだ9歳ですから、まず高校野球自体にそれほどの思い入れがなく、星稜の準決勝進出も、学校のプールに入っている時に監視員のおじさんから「星稜、また勝ったぞ!」と教えられて知ったくらいです。友達数人と「ばんざーい!」と言って喜んだ記憶はありますが。

僕にとっての昭和51年の夏といえば、小学校のプールがすべてでした。3年生までまったく泳げなかったのが、4年生になったとたんになぜか急に泳げるようになり、今度は泳ぐことの楽しさに激ハマりして、夏休みに入るとほぼ一日も欠かさずにプールに通っていました。午後のプールの開放時間いっぱい(たしか午後1時~5時くらい?)を使って泳ぎ続け、泳げる距離が25m、50mと伸びていくのが、なによりの喜びでした。

しかし、周りの盛り上がりぶりに、「どうやらこれはすごいことなんだ!」と気づき、次の試合は絶対テレビでみようと決意しました。

さて、その試合は、8月20日に行われました。相手は、西東京代表の桜美林高校です。星稜は2度目の夏の甲子園でしたが、桜美林は初出場。それだけの前情報にも関わらず「こりゃ勝った!」と、勝手に決め込んでテレビの前に座りました。

噂の速球王、小松辰雄のピッチングを観るのも、この時が初めてでした。この頃の小松辰雄のフォームをユーチューブなどで確認すると、プロ入り後のそれとはかなり違うことがわかります。この頃は野性味あふれるというか、とにかく思い切り体全体を使って、ただただ全力で投げ込んでいるという感じで、ダイナミックそのもの。子供心にもすぐに魅了されました。

しかし、試合の方は2回に1点を先制され、3回に同点に追いつくもその裏には再び逆転を許し、6回にさらに2点を追加されて4対1と突き放されます。星稜の勝利を信じて疑わなかった僕は、意外な展開にあっけにとられながら、それでもテレビ観戦を続けました。

結局、4対1のまま試合終了。星稜の決勝進出はなりませんでした。いまにして思えば、小松には連投からくる疲れがかなりあったものと思われます。

そして、星稜を下した桜美林は、決勝でPL学園を破り、初出場初優勝の快挙をとげました。

僕にとっては、星稜vs桜美林がほぼ初めてしっかり最初から最後まで観た高校野球の試合でした。野球観戦の面白さと小松辰雄のピッチングに魅せられた僕は、次の大会も必ずテレビで観ようと心に決めました。

そして、実際、小松辰雄擁する星稜高校は、その後も昭和52年春、夏と連続して甲子園に登場します。そのどちらも、僕はテレビ観戦しましたが、残念ながらどちらも1回戦負け。昭和51年の熱狂が再現されることはありませんでした。

初めて買ってもらったレコードは「およげ!たいやきくん」。

さて、昭和51年と言えば、初めてレコードを買ってもらったのが、この年でした。たぶん、同年代なら、ぴんとくる方も多いのではないでしょうか? そのレコードとは『およげ!たいやきくん』です。

僕がレコードを手に入れたのは、かなり遅くだったように思います。「たいやきくん」が「ひらけ!ポンキッキ」で放送されはじめたのは、昭和50年10月から。レコードの発売は翌11月でした。その後の爆発的なヒットについてはよく知られるところですが、昭和51年1月には出荷枚数が150万枚を突破。その後も勢いはまったく衰えず、2月には驚異の370万枚に到達しました。最終的な売り上げ枚数は450万枚とも500万枚以上ともいわれています。

僕が「たいやきくん」のレコードを買ってもらったのがいつだったか。もはや判然としません。なんとなくの記憶ですが、ブームもとっくに峠を越え、あまり話題にものぼらなくなった頃、昭和51年の秋も深まりつつある頃に、ずっと我慢をしていたのがどうにもこらえきれなくなり、親にねだって買ってもらった、という感じだったと思います。

ということは、「たいやきくん」を初めて聴いてから、一年近くも経った頃ということにもなります。たぶんですが、夏休み中はテレビでよく聴けていたのが、学校が始まって番組を観れなくなったことで、「たいやきくんを聴きたい熱」が高まり、ついに我慢ができなくなったのでしょう。

しかし、と思います。飽きやすい小学生の興味をこうも長期にわたってとらえ続ける「たいやきくん」の魅力とは、一体なんだったのでしょうか?

曲調はマイナーで心躍るようなものではないし、詞も最後は主人公が食べられて終わるバッドエンドでした。

でも、たぶんそれがよかったのだろうと思います。というか、僕らの世代は漫画でもなんでも、主人公が破滅的な最後を迎える、もしくは死んでしまうという作品に囲まれて育ったようなものでした。

例えば、『巨人の星』の星飛雄馬は大リーグボールの投げすぎで投手生命を失いますし、『タイガーマスク』の伊達直人は唐突に事故死(これには本当にショックを受けました。。。)してしまいます。他にも『侍ジャイアンツ』『アストロ球団』『あしたのジョー』などなど、数え上げれば切りがありません。

「たいやきくん」から受け取ったメッセージとは?

今、あらためて詞を読んでみても、まるで一本の映画を観るかのようで、「本当によくできているなあ」と感心してしまいます。

まいにち まいにち ぼくらは てっぱんの 
うえで やかれて いやになっちゃうよ


まずはこの出だしでぐっとつかまれました。まさかたいやきが鉄板で焼かれることに不満を持っていたとは!それまで9年間の人生で思いもよらぬことでした。

けれど、その気持ちはなんとなくわかるような気がしました。大抵の子供は、毎日毎日学校に通うことにうんざりしていたはずです。僕もそうでした。10歳に満たない子供にとって、小学校の6年という長さは体感的には永遠にも等しいものです。僕も当時は、もしかしてこのままずっと小学生のままなんじゃないだろうか?というような妄想さえ持っていました。

はじめて およいだ うみのそこ
とっても きもちが いいもんだ
おなかの アンコが おもいけど
うみは ひろいぜ こころが はずむ


昭和51年の夏休みに入っても番組では頻繁に、この歌が放送されていたはずです。夏休みの解放感とあいまって、聴きながら一緒に心を弾ませていたことでしょう。

まいにち まいにち たのしいことばかり
なんぱせんが ぼくの すみかさ


9歳の僕が一番好きだったフレーズがこの部分でした。難破船のなかで、誰に遠慮をすることもなく、自由気ままに楽しく暮らす。なんて素敵なことだろうかと。

しかし、そんな日々は長く続きません。まちがえて釣り針にくいついてしまい、最後には「おじさん」に食べられてしまいます。

先ほど書いた通り、当時の僕は、このバッドエンドにとりたてて衝撃を受けることはありませんでした。逆に、この結末だからこそ、僕は「たいやきくん」に魅かれたのだという気がします。

もしも、この歌が例えば「たいやきくんはそれからも海でずっと楽しく暮らしましたとさ」というようなオチだったなら、僕を含めた子供たちがあそこまでハマることはなかったはずです。

やっぱり ぼくは たいやきさ 
すこしこげある たいやきさ


海はやっぱりたいやきくんの住処ではなく、いかに楽しくてもそこでの日々が長くは続かないのです。それは例えば、いかに夏休みが楽しくても、夏休みが終われば学校に戻らなくてはならないのと同じで、我が身に置き換えれば容易に理解できることでした。

こうした「現実との接地点」があることが、この歌をただの絵空事にせず、簡単に言えば、歌にリアリティを与えたのだと思います。

結局、誰も自分以外の人生を歩むことはできない。与えられた人生をまっとうするしかないのです。たとえそれが気に入らなかったとしても。

…などと、当時の僕が思っていたわけがないですが、あえて言葉にするなら、そんなメッセージを子供心にも受け取っていた気がします。

昭和51年の子供のひとりとして。

しかし、僕が当時、自分の人生をどう考えていたかと言うと…まあ、何も考えていなかったというのが正しいところかと思います。

思い返しても、僕にはなんというか、自分の将来について何らかの夢を抱いた記憶がまるでありません。例えば、スポーツ選手、小説家、バスの運転手、総理大臣などなんでもいいのですが、子供が一度は将来の夢としてあげそうなものに憧れたおぼえがまったくないのです。

ぼんやりと思っていたのは「金沢大学に入れたらいいなあ」ということくらいでした。それも、祖母がよく「あそこのあんちゃんはエラい。金沢大学に行っとるそうや」などと言っていたので、「そうか、金沢大学に通うというのはたいしたことなのだなあ」と漠然と思っていたにすぎません。

君の将来の夢は?と問われれば「金沢大学を卒業して、いい会社に入る」と答えたと思います。なんとも現実的な小学生でした。

でも、案外、それが普通なのではという気もします。

子供には大きな夢を持っていてほしい、持つべきだというのは、完全に大人目線の願望であって、子供は大人が思うよりもっと現実的な考えをしているものです。

僕だって、あの小松辰雄みたいに速い球を投げられるなら、「プロ野球の選手になる」というような大きな夢を抱いたかもしれません。でも、自分にそんな能力がないのは当然よくわかっていました。

他にも何か特別な能力が備わっているのかと言えば、そんな大層なものはどうやら自分には何もなさそうだということを、小学生の中学年ともなれば自ずとわかってきます。

こんな自分に大きな夢を持てなんて言われても…。

せめてひと時の夢であってもいいから、たいやきくんにとっての大海原のような場所に、いつか自分も全部をうっちゃって飛び出してみたい。

たぶん、これが当時の僕が持っていた、唯一の夢らしい夢だったのかもしれません。

星稜が破れたあとも、僕は欠かさずにプールに通い続けました。夏休みの最初は25mも泳ぎ切れなかったのが、終りには25mプールを二往復、つまり100mまで泳げるようになっていました。

小松辰雄のような特別な力はなくても、一心に取り組めば、自分だって何かできることがあるのかもしれない。少しだけそう思うことができたのを、いまでも覚えています。

そして、ついにやってきた新学期。また毎日毎日鉄板の上で焼かれるような日々の始まりです。

プールに入れるのもあとわずかだし、何にも楽しいことがなくなるなあ…。

そう思っていた僕でしたが、1976年(昭和51年)の秋は思いがけなく、刺激に満ちた日々になりました。

その話は、また次回に。

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