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【番外編】藤井フミヤ 40th Anniversary Tour を観た! HOKURIKU TEENAGE BLUE 1980 Vol.25

はじめに。

※記事中、藤井フミヤさん40周年ライブのネタバレを含みますのでご注意ください!また、本シリーズは80年代のあれこれをテーマとしており、80年代の楽曲を中心にふれていることをご了解くださいませ。

3月31日(日)。藤井フミヤさんのデビュー40周年記念ライブを観た。会場は富山市オーバードホール。チケットはソールドアウトし会場は超満員。僕の席はキャパ2196人の大会場の4階、それもなかほど。それでも約2時間30分にわたってちりばめられた代表曲の数々を堪能した。

さて、注目のライブ1曲目はというと『星屑のステージ』。1984年8月リリースの第4弾シングルだ。「ジャン!」だけというシンプルかつ劇的なイントロで始まるバラード。シングルではこれが初のバラード曲だった。フミヤ氏のボーカルは高音部が多少キツそうではあるけれど、それでも印象は往時とほぼ変わらない。

その声に身を委ねながら、心は84年にすばやく戻っていく。

84年といえば、僕は高校3年。『星屑~』はエアチェックをしたかレンタルしたかは定かではないが、夏休みに自室のラジカセで繰り返し聴いた。音楽のタイムマシーン効果というのは本当にすさまじく、僕はまだクーラーがなかった当時の自分の部屋の蒸し暑さまでも、瞬時に思いだしてしまった。

今は亡き(と思われる)恋人に捧げるラブバラードは、当時その設定に多少の気恥ずかしさを感じたけれど、それさえ簡単に力業でねじふせる圧倒的な説得力というかアイドル·パワーに当時の彼らはあふれていたと思う。

2曲目はチェッカーズの代表曲といって差し支えないだろう『ジュリアに傷心』「うわ!もうこの曲をやるんだ!」本編最後かアンコールくらいかと思っていたけれど、さすが40周年記念ライブ、出し惜しみなしということか。

84年11月リリースのこの曲にも、やはりこの年の冬の空気感の記憶がこびりついている。あの頃、たしか冬用のスパイクタイヤなるものがあったが、それがアスファルトを削り、粉塵が健康被害を引き起こすのではと問題視されていた。道路が薄く霞がかってみえる時もあるほどだった。そんな朝、自転車で凍えながら高校に通っていた頃の、あの国道の空気感、そして匂い。そんなものまでよみがえってくる。

それにしても、『ジュリア~』はチェッカーズの代表曲であるとともに、80年代を代表する曲のひとつだと改めて思う。80年代は60年代リバイバルの10年(というのが僕の持論)だ。例えば、シンディ·ローパー、マドンナ、プリンス、みな60年代的な音楽を前面に打ち出しながら、その上に新しい何かを築き上げていた。たぶんそれは世界的な潮流だったのだと思う。

ここ日本ではチェッカーズが現れた。マドンナやプリンスほどに革新的なことをやっていたわけではないが、それでもただ60年代の音楽をなぞっただけならば、あれほどヒットはしなかったはずだ。60年代的世界を80年代的なそれにアップデートすること。日本の歌謡界で、それを見事な形でなしとげたのがチェッカーズであり、『ジュリア~』ではあるまいか。

3曲目、フミヤが少しおどけたように「な~みぃだ~の」と歌いだす。当然、会場は大歓声がわきおこる。

『涙のリクエスト』を最初に聴いた時、というかテレビでチェッカーズを初めて観た時の印象は、「なんだか不思議なバンドが出てきたな」というものだった。

曲自体にはあまり強い印象を受けなかったと思う。

「編成はバンドだけど、曲はまあ歌謡曲だなあ」「いかにも職業作家が作った感じ」といったところだろうか。ただ彼らの立ち居振る舞いや受け答えはとても自然体で、それまでのアイドルや芸能界然としたものとは明らかに違って感じられた。

そのギャップが「不思議なバンド」という感想につながったのだ。「アーティスト」と「アイドル」のちょうど中間。もしくは両者のいいとこどり。彼らはそんな絶妙な位置に自身をすばやく置くことに成功していた(ように思えた)。

それはほぼ同時期に登場した吉川晃司にも感じたことだ。実際に、84~85年は男女問わず、そんな立ち位置の新人が大挙して現われた。例えば、渡辺美里、中村あゆみetc.。

新しい時代の、アイドルという枠を幾分はみ出したアイドル。僕を含めた全国の少年少女は彼らにそんな匂いを感じたのではないだろうか?

ライブの前半で披露されたチェッカーズ時代の楽曲で特に懐かしかったのは『Next Generation』だ。当時はたしかチェッカーズ名義ではなく、Cute Beat Club Bandの名前で発表された楽曲だった。

フミヤがニューヨークを訪れた際、60年代初期にデビュー直前にリーダーが死去するという悲劇に見舞われたバンド、ジョージ・スプリングヒル・バンドの楽曲に偶然出会い、その曲に日本語詞をつけて発表したものという宣伝がされていて、当時の僕は完全にそれを信じてもいたw(実際には、バンドは架空の存在で、作曲は藤井尚之)。

そんなギミックを抜きにしても、『Next~』は当時の僕の愛聴曲のひとつだった。特に、サビの歌詞「大人にはわからない 何かを探してる 僕らはいつも その後の世代」が好きだったことを思い出す。今回、あらためて歌詞を読み返してみたけれど、秋元康の最高傑作のひとつと言ってもよいくらいだと思う。

他に前半で演奏されたチェッカーズナンバーは『I Love You, SAYONARA』。86年に売野&芹澤コンビから離れ、シングル曲もオリジナ曲へと移行したが、『I Love~』は『NANA』に続く2枚目のメンバーオリジナルのシングル表題曲だった。作曲はベースの大土井裕二

オリコンチャート年間15位に食い込んだこの曲の成功で、一気に彼らのオリジナル路線が軌道に乗ったともいえる重要曲だ。ドラマティックなロック·バラードは、彼らの高い音楽性を印象付けた。個人的には中期チェッカーズで一番好きな楽曲かもしれない。

「I Love you~」が収録されたアルバム「Go」は、チェッカーズ史上最もロックっぽいアルバムで、ジャケを見てもメンバーの多くが革ジャンを着込んでロッカー然とした佇まいで写っている。それまでの歌謡アイドル的存在から距離をおいて、いかにも自分たちの本来の姿にもどり「好きなことをやってる」時期という印象だ。

そしてもう一曲、89年リリースの『Cherie』。作曲を担当した鶴久はこの年89年のシングル3枚の表題曲をすべて作曲している。その彼が特に気に入っているのがこの曲だという。この頃には、彼らの音楽的興味もさらに変化していて、ロッカー的なものからブラックミュージック、クラブ的なダンスミュージックへ。演奏もビート感よりもグルーブを追求する方向にシフトしていた。そんな時期の代表作ではないだろうか。

前半の流れはでは、そんな80年代のチェッカーズのキャリアと音楽性の変化をダイジェストで見せてくれたような印象を持った。

その後、中盤ではチェッカーズ版『The Long And Winding Road』ともいうべき名バラード『夜明けのブレス』、そしてF-Blood『未来列車』、ソロ時代のヒット曲『True Love』『Another Orion』『白い雲のように』など、ミディアム·テンポの曲をちりばめ、幅広い音楽性を披露したあと、後半戦で披露されたチェッカーズ·ナンバーは、お待ちかねの『ギザギザハートの子守歌』そして『NANA』

当然、一気に場内の熱が上がる。『ギザギザ~』は言わずと知れたデビュー曲。ヒットチャートの上位に上がってきたのは、『涙の~』がヒットしている最中だった。そして、その2曲を追いかけるように新曲『哀しくてジェラシー』がリリースされ、「ベストテン」で一挙に3曲がランクイン。この頃(84年5月頃?)が「チェッカーズ現象」が最高潮に達した時ではないだろうか。

当時ビートルズファンでもあった僕は、ビートルズが64年4月のアメリカンチャートで1位から5位までを独占した時の雰囲気は「きっとこんな感じだったに違いない」と、思わぬ追体験気分をも楽しんでいたのを思い出す。

『ギザギザ』がデビュー曲ならば、メンバーの手による初のシングルA面曲である『NANA』は、さしずめ「第2のデビュー曲」ともいうべき楽曲だ。
当時の印象は「攻めてるなあ!」の一言に尽きる。「未来に感じ 濡れてくれ」「やろうぜ NANA」とか、NHKで放送禁止になったのもうなずける内容だ。

けれど、きわどくはあっても、決して下品な印象はなかった。彼らに備わっていた品の良さのようなもののおかげだろう。

しかし、正直なことを言えば、ひとつ前のシングル『Song For USA』よりは少し内容が落ちるかなとも感じていた。『Song For~』は売野芹澤コンビが生み出してきた名曲群のなかでもトップクラス、歴代のチェッカーズのシングル曲で考えても『ジュリアに~』と肩を並べるほどのパワーを持った楽曲だと思うが、そんなプロ中のプロが作る楽曲と比べると『NANA』はどこか小粒でアマチュア感を漂わせてもいた。

それでも「ここからが新たなスタートなんだ」という気迫が、当時の彼らからはびんびん伝わってきたし、この曲でのフミヤの独特なダンス·パフォーマンスは、それまでのアイドル然としたものからはかけ離れていて、テレビで観るたびにわくわくさせられたのを思い出す。

その後ライブ本編は、『GIRIGIRIナイト』『UPSIDE DOWN』など、ソロ時代のアップテンポのロックンロール曲を3連打して大盛り上がりのうちに終了。
 
そして、アンコール。ここで披露されたのは「35年ぶりに歌う」という『哀しくてジェラシー』。調べると、どうやら88年のツアー以降歌っていないようだ。
 
チェッカーズ時代のツアーでも、なぜこの曲が演奏されなかったのか、理由はわからない。単純に『ギザギザ~』『涙の~』に比べると、楽曲としてのパワーは少し落ちるかなという気ははたしかにする。僕個人のこの曲に対する印象も、次の『星屑の~』『ジュリアに~』に比べると薄い。どこか「谷間のシングル曲」という感じがしてしまう。もちろん、かっこいい曲だとは思うけれど。
 
それでもサビにくると、35年ぶりの披露にも関わらず、客席のあちこちで当時の高杢と鶴久の振り付けを完コピする姿が多く見られた。当然だけど、ファンにはしっかりと愛される楽曲なのだろう。

アンコールの最後を飾ったのは、91年リリースのアルバム『I HAVE A DREAM』から、表題曲『I HAVE A DREAM』。3月に放送された40周年ツアーを追うドキュメントでは、セットリスト決めの様子もとらえられていたが、しかし、その時にちらりと映っていたリストには別の曲名がのっていた。
 
シングル曲を中心に聴いてきた僕のようなライトなファンにとっては、初めて聴く曲だった。けれど、解散ライブでは最後の最後に演奏されたのもこの曲だったらしく、ファンにとってはとても思い出深い一曲なのだろう。けれど、そのこと以上に、この曲を最後に選んだことに別の意味を感じた。
 
この曲を歌う前に、MCで平和への思いや、日本が再び戦争に巻き込まれることへの危惧が語られた。具体的な言及はしないまでも、依然として終わりのみえないウクライナ情勢や、昨年からのガザでの紛争など、最近の国際情勢への彼なりの思いが、この曲を選ばせたのだろうと、個人的には思う。

目や耳を疑うような残酷なニュースが日々飛びこんでくる2024年。世界に充満しつつある「新たな開戦前夜」とも言われる不穏な空気感、緊張感の高まりは、誰しもが感じるところだ。
 
1984年の僕は、2024年の世界がこんな風だとは、当たり前だけどとても予想できなかった。
 
フミヤ氏はこの曲の歌詞について、「若いから書けた」と、照れ隠しもあるだろうけれど少し「若気の至り」的なこととしてステージで語っていた。
 
若いからこそできたこともあれば、若い時にはけしてわからなかったこともある。

どちらがいいとか悪いとかではなく、いつもその時なりに必死に考えて生きるしかないのが人生なんだろう。
 
若き日の理想に燃えた思いを、60歳を超えた彼が歌う。
その姿はとても清々しかった。

チェッカーズがデビューして40年。あれから40年-。
 
長い時間が流れて、世の中も自分自身もいろんなことが変わってしまった。僕にしても、あの頃抱いていた理想の多くは実現しないままに失われた。
残念ではあるけれど。
 
けれど、本当に大事に思うこと、大事にしなければいけないことは、今もあの頃も何ひとつ変わってはいないはずだと、会場を後にしながら、僕は思い直す。
 
人生は続く。

そして続く限りはできること、やるべきことはいつだって必ずある。

あるはずだ。

1984年を思い起こしながら、2024年の僕はそう思う。


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