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The東南西北から考える、丙午世代は谷間の世代か否か? HOKURIKU TEENAGE BLUE 1980 Vol.20 The東南西北『内心、Thank You』  

■ The東南西北『内心、Thank You』  作詞:松本隆 作曲:久保田洋司 編曲:白井良明 発売:1986年4月2日

Born in 1966、丙午世代の憂鬱。

唐突だが、僕は丙午(ひのえうま)世代である。

といいつつ、67年1月生まれなので、正確には丙午生まれではないのだけれど、同学年の大半は丙午生まれだし、小さなころから「丙午世代」と呼ばれてきたので、その一員であるという自覚がある。

その特徴は、何と言ってもまず人数が少ないことだ。中学では一個上も下も3クラスあったが、僕らの代は2クラスだけ。高校も確か、他の学年より一クラス少なかった。

データをみると、1966年の出生数は約136万人。前年の1965年は182万人、翌年の1967年は一気に増えて194万人だったそうだから、えらい違いだ。グラフでみると、66年だけストンと落ちるような恰好になっていた。

「谷間の世代」。僕自身は、数に劣る目立たない自分たちの学年を幼い頃からそう感じていた。

例えば高校生の時も、一つ上の甲子園のスターとして「やまびこ打線」の呼び名で社会現象を巻き起こした池田高校の水野雄仁らがおり、また一個下の世代にはさらなる熱狂を呼んだ、言わずと知れたPL学園の「桑田&清原」という絶対的な存在がいた。

けれど、我が丙午世代はというと…。失礼ながら、そんな存在は見当たらない。

芸能の世界でも、「花の82年組」というアイドルの当たり年があったが(丙午世代は当時高校一年)、早見優、石川秀美、堀ちえみという人気者を生みはしたものの、最も成功を収めた中森明菜小泉今日子の両者はひとつ上の学年だった(小泉今日子は66年2月生まれなので実際には丙午生まれ)。

自作自演のアーティストにしても、社会現象的な人気を博していた尾崎豊や、デビュー時から天才の名をほしいままにしてきた岡村靖幸も65年生まれ。デビュー当初はアイドルとして売り出された吉川晃司もまた同年の生まれだ。

丙午世代が生んだ最初のヒット曲は?

さて、そんな人材豊富な65年組の後塵を拝していた我が丙午世代が生み出した最初の(?)ビッグ・ヒットといえば、我々が高校を卒業した1985年、中村あゆみ(66年6月生まれ)の『翼の折れたエンジェル』ではなかっただろうか。

中村あゆみは、すでに前年の84年9月に『MIDNIGHT KIDS』でデビューしており、『翼の~』は3枚目のシングルとして85年4月にリリース。日清カップヌードルのCM曲に起用されて一気にブレークした。推定売上枚数は50万枚超。85年のオリコン年間チャートでは13位に食い込んでいる。

翌86年、それを超えるヒット曲を携え登場したのが渡辺美里(66年7月生まれ)だ。彼女の4枚目のシングル『My Revolution』は86年のオリコン年間チャート5位に到達する。小室哲哉作曲の最初のメジャー・ヒットとしても有名だ。

アイドルを含め、80年代前半から半ばまで、丙午世代では女性の活躍が先行していた印象がある。

1985年秋。全員が丙午世代、The東南西北の登場。

しかし、そんな80年代中盤、1985年の秋にメンバー5人中4人が丙午世代の男性(ギターの加納順のみ68年生まれ)からなるバンドが、突如としてデビューを果たした。

その名はThe東南西北

いつ彼らの存在を知ったのか、それがラジオだったか音楽雑誌だったか。細かい部分は記憶に残っていない。ただ、まったく同学年のバンドがメジャー・デビューを飾ったことに感じた新鮮な驚きは、よく覚えている。

デビュー曲のタイトルは『ため息のマイナー・コード』。聴いてみると、この頃人気絶頂だったチェッカーズなどにも通じる60年代テイストの楽曲で、意図的にGSっぽいメロディーもサビに挿入されている。

一聴して「これは職業作家の楽曲だな」と僕はそう判断した。詞、曲ともに手堅くまとまっている印象で、とても10代のバンドの作品とは思えなかった。

ただ久保田洋司の独特の響きのある甘いハイトーンボーカルはすぐに気に入った。

音楽雑誌に掲載された写真をみると、いかにも素朴な地方の少年らしさが全開で、まるで自分の友人がデビューしたかのような親しみを覚えた。

そしてしばらく後に、職業作家の手によるものと思っていたデビュー曲が、実はボーカル、久保田の作詞作曲だと知って、十代らしからぬ高いソング・ライティングのスキルに驚いた。

一気に彼らは僕にとって気になる存在になった。

そして、翌86年4月、セカンド・シングル『内心、Thank You』がリリースされる。松本隆が作詞を担当したドラマチックなラブ・バラード。一聴して「これはヒットする!」と確信した。

…のだけれど、チャート・アクション的にはさっぱりであった。

詞、曲、歌、演奏、どれをとっても申し分のない、今でも80年代に生み出された名曲のひとつと言い切れる楽曲だと個人的には思うのだけれど、いいモノがすべて「売れる」とは限らないのが世の常だ。

86年と言えば、インディーズ・ブームが巻き起こった翌年、バンドブーム前期といった時期だろうか。ラフィン・ノーズ有頂天、ウィラード等が「インディーズ御三家」などと呼ばれ(しかし、一体誰がこんなヒドイ呼称を考えたのだろう、、、)人気を博していた当時のシーンにおいて、彼らの立ち位置はなんとも微妙だった。

このすぐあとに登場するブルーハーツジュンスカ、またはホコ天ブームなどがまさにそうだが、当時のバンドは、レコード会社が作りだしたものではなく、街の喧騒から生まれたような、いわばストリートから登場してきたという雰囲気が不可欠だった。

商売気を感じさせてしまうと、少年少女はとたんにそっぽを向いてしまう。レコード会社のオーディションでグランプリを獲得し、鳴り物入りでデビューした彼らには、当然ストリートの匂いなどまったくない。十分なプロモーションはありつつも、時代の追い風に乗っているとはいいがたい印象があった。

彼らはその後、松本隆とタッグを組んだシングルを3作発表する。

どれも名曲揃いだが、特に松本&久保田コンビによる最終シングルとなった87年6月リリースの5枚目のシングル『君の名前を呼びたい』は、『内心~』の抒情的な世界観をさらに深めた最高傑作ではと思う。

松本隆の詞は、「風のクレヨン」「僕は砂時計の砂」など、はっぴいえんどや松田聖子などの作品にも使用した松本ワールドの必殺ワードや、ビートルズのオマージュまで投入し、明らかに気合の入りまくった渾身の出来。久保田の繊細なボーカルは、そんな松本の詞が描き出す思春期の少年の透明感を完璧に表現してみせている。

The東南西北にしか作り上げることのできない世界が鮮やかに広がっている。今だに聴く度に陶然とさせられる名曲だと思うが、売り上げはやはりふるわなかった。

足りないものは何もないはずなのに大ブレイクには至らない。そんな状況は後のスピッツを思わせるものがあった。デビューから名曲を連打して、業界、雑誌、そしてそれなりの規模のリスナーからも支持を集めていたにもかかわらず、『ロビンソン』まで大きなセールスに至らなかった初期のスピッツ

何かひとつきっかけさえあれば―。

勝手にそんなもどかしい思いでThe東南西北の活動をみていた87~88年。ピークに向かうバンド・ブームの中核を担うグループが続々とデビューする。ザ・ブルーハーツ、筋肉少女帯、ユニコーン、ジュンスカetc.

ちなみに、これらのグループにおいても、ユニコーンの奥田民生(65年5月生まれ)、ジュンスカの宮田和弥、筋少の大槻ケンヂ(この二人はともに66年2月生まれなので、丙午ではある)、などは一学年上の世代だった。

そんななかでもう一組、メンバー全員が我が丙午世代というバンドが、88年にデビューを果たす。

35年を経て、現在もなお旺盛な活動を続けるエレファントカシマシである。中学の同級生により結成されたというこのバンドのファースト・アルバムは、自分史上最も繰り返し聴いた邦楽アルバムのひとつだと思う。

宮本浩次の強烈なボーカルは、一聴して当時僕が最も敬愛していたアーティスト、忌野清志郎の影響を強く感じさせた。加えて、同世代的な共感を誘う歌詞のそのストレートな物言いは心に刺さりまくった。

それまでThe東南西北を音楽界における同世代のトップランナーと思っていた僕だったが、あっさりエレカシへと宗旨替えしてしまった。ファンとはかくに残酷なものである。

The東南西北は、その後もコンスタントにアルバムを発表し活動を続けるが、まだバンド・ブームの残り火がある1991年に解散してしまう。僕がそのことを知ったのも、数年後のことだったように思う。

90年代、丙午世代の逆襲(?)が始まる。

The東南西北がその活動に静かに終止符を打った翌年、もうひとりの才能ある丙午世代を知った。「イカ天」の後継番組として放送されていた『三宅裕司の天下御免ね!』に出演していた斉藤和義(66年6月生まれ)である。

フォークギター一本を抱えての弾き語りスタイルで見事5週を勝ち抜いた彼は、翌93年、番組でも大きな印象を残した楽曲『僕の見たビートルズはTVの中』でデビューを果たす。その後の活躍は説明するまでもないだろう。

彼に限らず、90年代前半には、次々に丙午世代が音楽シーンに登場してくる。ウルフルズトータス松本(66年12月生まれ)、イエローモンキーのロビンこと吉井和哉(66年10月生まれ)、怒髪天増子直純(66年4月生まれ)etc. このあたりのメンツは91、2年にメジャーデビューを飾っている。

谷間の世代と勝手に思い込んでいた丙午世代だけれど、90年代半ばには、気づけばなかなかに賑やかなメンツが揃う世代へと印象が変わっていた。

90年代も後半に差し掛かり、邦楽の世界ではさすがにそろそろ打ち止めかと思っていた矢先、満を持していたわけではないだろうが、オオトリともいえる男が登場する。

97年デビューのスガシカオ(66年7月生まれ)である。サラリーマン生活を経て、97年2月にシングル『ヒットチャートをかけぬけろ』でデビュー。同年9月にアルバム『Clover』をリリース。名曲『月とナイフ』『黄金の月』を含む同アルバムは当時の僕の愛聴盤のひとつになった。

また翌年1月には詞を提供したSMAP『夜空ノムコウ』がリリース&大ヒット。遅れてきたルーキーは一気に時代の寵児となる。

個人的には、98年リリースのセカンド・アルバム『FAMILY』に大いに衝撃を受けた。コンセプト・アルバムのようにも聴ける本作は、タイトル通り家族をテーマに、少ない言葉数で豊かなドラマ性を感じさせる鮮やかな手法はまるでブルース・スプリングスティーンのごとくだ。

加えて現代の家族をめぐる重く複雑なテーマを私小説的な方法を用いて高い文学性で表現しながらも、あくまでポップ・ミュージックに昇華させている。今までの日本のアーティストでこんなこと(深い物語性と高い音楽性の両立)をやった人は誰もいないのでは?と、当時感嘆したものだった。

2020年代、丙午世代の現在地。

そして、2020年代。うれしいのは、これまで挙げたメンツはそれぞれ今も現役で大活躍中ということだ。

なかでも一番“化けた”のは、エレファントカシマシと宮本浩次ではないだろうか。90年代なかばに一度レコード会社から契約を切られた過去が嘘のような活躍ぶり。デビュー30年を経ての紅白出場、その後に開始された宮本のソロ活動はさらに華やかな展開を見せ、椎名林檎など数々の人気アーティストとのコラボ、カバーアルバムのリリース、そしてソロでの紅白出場など、いまや我が世代のトップランナーと言ってよい活躍を続けている。

そして、The東南西北のボーカルでメインのソングライターであった久保田洋司である。バンドの解散後はソロに転じ活動を継続していたが、作詞家として大きな成功を収める。

特に、旧ジャニーズのアイドルの楽曲を多く担当。90年代からSMAPKinki Kids、その後もNEWSHEY!SAY! JUMPなどなどメジャーアイドルのシングル曲を多く手掛け、多数のヒット曲を生み出している。

彼の希有なメロディーメーカーぶりを知る者としては、作詞家としての成功は意外でもあったけれど、最終的にはその才能に見合った成功をしっかり収めたことは、ファンとしてもうれしい限りだ。

2012年にはThe東南西北も再始動、現在でも関西を中心に定期的にライブを行っているようだ。いまだ彼らのライブは未見なのだけれど、いつか必ず観にいきたいと思っている。

さて、あと数年で次の丙午世代が誕生する。さすがに2026年の日本において、丙午を理由に出産を躊躇するなんてことはないだろうと思うが、どうだろうか。

というか、1966年の出生数はそれでも136万人。昨年2022年は約77万人で過去最少だったことを考えると、少子化の進行具合は恐ろしいばかり。もはや丙午がどうのこうの言っている状態ではない。

いよいよ還暦が見えてきた我々丙午世代。けれど、まだまだ老け込むのは早いし、楽隠居を決め込むような余裕もない。

同世代のミュージシャン達の活躍を励みにしながら、自分もその一員としてあとしばらくはあがいてみたいと思っている。

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