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ある日突然なくなることもある

「ある」ものをみましょう

という言葉がありますね。
自分にないもの、今ないものばかりに心奪われて「ないから幸せになれない」なんて言っている人生は、寂しいものです。だから「ある」をみましょう、ということね。


そんな話をしている時に「自分に(ある)ものがわからない」と言う人がいます。そしたらね、こんな風に考えてみて欲しいんです。

今日過ごした1日のなかで「なくなっては困るものはなに?」って。

どうでしょう。
頭に思い浮かべてみましたか?


ベットから起き上がって歩けたこと、体や手がよく動いて朝ごはんを作れたこと、ご飯が美味しく感じて何の努力もなく喉を通ってくれたこと、忙しく自転車を漕いで子どもを送迎できたこと、言葉にして伝えられる声を出せたこと、可愛い子どもたちをこの目で見れたこと…

きっと夜寝る直前までの1日を考えたら、数え切れないほどの「ある」が見つけられるでしょう。
問題は、私たちはこの「ある」が当たり前で、永遠「あるもの」だと思っていることです。


私は中学生の頃、ある日突然、目の前が暗くなる経験をしました。
あまりに突然のことすぎて何がおきたかわからなかったけれど、片目をつぶってみると、世界が真っ暗になっていたのです。

それから何度かの手術を繰り返しました。

術後は目を使ってはいけなくて、体を起こしておくことも許されなくて、トイレと食事以外はベッドに置かれた机に何時間も、何日間も、ただただ、うつ伏せになって過ごしました(詳細は省きますが治療の過程でその姿勢が必要でした)

体を動かせないどころか、目を開いてはいけない。
本も読めないし、テレビも見れないし、どうやって時間を過ごせばいいのでしょう。ほんの少しだけラジオや音楽を聴きましたが(心がそれを楽しんだり受け入れたりする状態にはなっていないので、ほぼ聴けませんでしたが)何日も続く真っ暗な中で、いろんなことを考えました。


文化祭も、体育祭も参加できなくて
受験だというのに、勉強もできなくて
お見舞いにくる友人とはとても言葉を交わす気にもなれなくて


ただただ、考えていました。
というより、感じていました。

こうして当たり前にあるものが、ある日突然なくなることが人生にはあるんだなぁということ。

退院してからも、また数年後に手術を受けました。
高校でも、また同じ経験をしました。
そして今も、片目の半分は暗くて、明かりが入る半分も、まともに目が見える状態ではありません。


とても辛いことではありましたが、でもこの経験を通して、「今あるものが永遠にあるとは限らない(=今あるもの、今あることに感謝する。大切なものは、今日もちゃんと大切にする)という気持ちが芽生えたのかもしれません。

そしてその後、私は仕事を通して、ある日突然子どもの病気が発覚し、あまりにも短い間にお子さんを亡くされる親御さんにも出会ってきました。

どの親御さんも、「何もいらなかった。何もできなくてもよかった。そばにいてくれれば、それでよかった」と泣いていました。

日常を過ごしていると、何もかもが当たり前に思えてしまうのが人間です。ずっと不安なままで、ずっと怯えているわけにもいきませんから、最悪の可能性を忘れられることができるのも、人間の強さです。必要な能力です。

でも、同時に。だからこそ「忘れないようにしよう」と思わなくてはいけない気がしています。


今日動いてくれた体も
元気に起きてきてくれた子どもたちも
存在だけで安心させてくれるパートナーも
私たちを守ってくれる家も
産んでくれた両親も
楽しませてくれる友人も
志を共に頑張れる仕事仲間も

本当に、当たり前ではないですね。

今日もいてくれてありがとう。
それだけで、最高の1日です。



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