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ホストマザーとわたし

ママはチリ人。
おばあちゃんは英語がはなせないので家の中ではスペイン語が飛び交うことも日常だった。(アラビア語より多かった。)

きれいにカールされたヘアスタイルでネイルもしていた。
ヒールを履いて部屋を歩く音、車のカギを持つ音が私は好きだった。
メイクもきちんとしていて女性らしい人だった。

優しいひとで、愛がある人というのが今も変わらない印象。

チリは魚も野菜も新鮮でとてもごはんがおいしい国なのと教えてくれ、
時々魚を焼いてくれていたが、ママ含め家族が部屋中が「魚くさい!!」
と家のいたるところにヤンキーキャンドルを置き、火をつけて匂い消し。
(ママとホストシスターは鼻がすごくよかった。)


オフモードに入れば民族衣装のようなコットン素材のワンピースを着て
リラックスしている。

パパとも仲良し。
おふざけを呆れたような笑顔で受け流すのも
けんかをしないところも
夫婦が仲がいいっていうのはこんなに安心感が
あるんだと私の両親と比べていた。

いろんな夫婦の形があるのだろうけれど、
どうして私の両親はあんな関係性なんだろう。

私はこの留学で自分の世界の常識がとてつもなく
小さく、狭いものなんだとたくさん知る。
違和感を覚える。その違和感は私にとって心地良いものだった。
わたしの感じていたことは間違いなかったんだ。


ママとの思い出はたくさんある。
私は学校入学のために必要な肺のレントゲンを
日本から持ってくるのを忘れ、登校初日行くことができなかった。
病院に連れて行ってもらい、レントゲンを無事とることができた。
今考えれば自分の仕事があるのにわざわざ病院に連れて行ってくれたことは
本当に感謝でしかない(夫婦で自営業だったので。)

どうしても学校に行きたくない日もあった。
休ませてもらい、車で銀行まわりに連れて行ってくれた。
仕事が終わると31アイスクリーム(この時初めてBaskinRobbinsとアメリカでは呼ばれていることを知る。)に連れて行ってくれた。

散歩に行きたくて一人で近所を歩き回っていると(もちろん散歩することを言って外にでた。お昼14時くらい)
30分くらいしてママが車で追いかけてきた。
窓を開けて「こんなに長い時間外にいるなんて!警察に連絡するところだったわ!!」と怒られたこともある。

ママは心配性だった。ものすごく。
アメリカは勝手に日本の親よりも放任主義で自由にさせてくれるだろうと
思っていた私はびっくり。

このこともあり、自分てケータイを買いに行き、常に連絡が取れるように
した。

そこから学校から家まで歩いて帰ることを許してもらえ
ウォークマン生活再開。

家に帰るとママと一緒に毎日スーパーへ。
私の息抜き。毎日スーパーに行くけど本当に毎日たくさん買い込んでる。
(ホストブラザーがすごく食べるため。)
いつもはショップライトだけど、時々Kマートや
ウォルマート、CVSにも連れて行ってもらえた。
週末はバーンズ・アンド・ノーブルという本屋さんや
日本でいうダイソーのようなお店にも連れて行ってくれた。

一度、イタリア人が経営しているガソリンスタンドに行ったときに
イタリア語とスペイン語で会話していて、成り立っていることにびっくりした。「似ているから伝わるのよ」とまるで当たり前かのように話すママに
かっこいいと思ったこともよく覚えている。
車を運転するときはいつもサングラスをかけているのもかっこよかった。

ママがネイルやヘアスタイル、サングラスを当たり前のように
しているのを見ていたからか、同じように買って楽しんでいた。

私は放課後に遊んだり、出かけたりする友だちが
いなかったので、これが楽しかった。
時々ショップライトのレジの子が同じ高校の子で、
私は顔見知りではないけど知ってるよ。といってくれる子もいたりと
小さな町あるあるなんだなと思った。

ママは特に私に友達がいないことについては触れてこなかった。
それもありがたかった。

この子はこういう性格なのとも
言われたこともある。

ホストブラザー(高校生)がもう一人留学生を家に招き入れようと
提案され、私は内心(そんなことされたら、私の存在がなくなって、英語が話せないことを比べられて、いずらくなる!)と不安になっていたが、ママが私の性格上もう一人を呼んで一緒にというのが合わないと思うと断ってくれた。

本当に大切にしてくれていてうれしかった。

寂しい気持ちになればハグしてくれ、
私のこの分かりにくい(本人も解読不可能)性格を
分かっていろんな選択をしてくれて、家にいさせてくれたママには
本当に感謝しかない。


ありがとう。


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