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おむつがとれる日

「しめ!こっちこい!」
祖父が私を呼ぶ声をもう忘れてしまった。
母方の祖父が亡くなってから3年ほど。祖父は庭師として一生を終えた。
祖父は腕前の良い職人だったらしい。その証拠に、祖父母の家には祖父が受賞した賞状が幼い私を見上げるように壁に飾られていた。庭にはたくさんの木や岩、灯篭。よじ登って遊んでいたが、今思うと売り物だったのであろう。
祖父は外孫であった私や兄弟をたいそうかわいがってくれた。特に酒好きの祖父は、酒が入ると上機嫌に私たちからのお酌を要求してきたものである。祖父のお気に入りのアサヒスーパードライの瓶の栓の抜き方から、ビール特有のつぎ方、ラベルは上にしてつぐ、すべて祖父におしえてもらったことだ。その英才教育?のおかげで、祖父のなじみのお客が来て自慢げにお酌をすると褒められて運が良ければお小遣いがもらえたりした。そしてその姿を見て「うちの孫はすごいだろう」とでもいう顔でにかにかと笑うのだ。
そんな祖父であったが、仕事期間になると酒も飲まず、孫が来ても見向きもしない。たまに祖母に連れられて、祖父の仕事を見学しに行った。私に気づいているのかいないのか、目線をこっちに運ぶことさえなかった。ただ、一心に仕事をする目。職人の眼差し。祖父の中の職人を感じた瞬間だった。
それから時が過ぎ、癌になった祖父が亡くなる直前、病院を移動するときに付き添った母に「芳乃どうした」とたずねたらしい。当時の祖父は現役庭師の頃のたくましさは消え、ほそっこい、見ていて切ないような体格になっていた。
その祖父の一言を、私は祖父が亡くなった後に聞いた。母は「最期まで心配だったのよ」と涙を流し、姉は「芳乃ばっかり」と少し寂しそうな顔をしていたが、私は違う感傷に心を浸した。
「しめ!こっちこい!」
“しめ”。私の子供の頃の愛称である。末っ子であった私はおしめが取れるのが一番遅かったことと、名前にかけて“しめ”と祖父だけが呼んでいた。
そんな祖父が最期に呼んだのは愛称ではなく名前だった。その頃の私はちょうど成人を迎えたばかりであった。祖父の中の私は、きちんとおしめが取れたんだと。祖父は最期に大人として扱ってくれたのだ。なのに、私は一度も祖父の好きなお酒を一緒に飲み交わすことができなかったことが悔しくて目頭を熱くした。
あれから数年が経ち、祖父の声を思い出せなくなった。だが、祖父の職人の眼差しをまだ忘れてはいない。いつか私も、あんな眼になりたいものだ。そんなことを思いながら、祖父に褒めてもらった通りスーパードライをお酌しながら、片方のグラスを自らぐびっと飲み干した。

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